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2012年2月23日 (木)

■六角形のハザマから。~SS『アマガミ』・梅原・香苗さん・塚原センパイ編 -更新第762回-

 輝日東のみなさんこんばんわ。
 俺、ミステリーハンターの梅原正吉です。
 俺は今、駅前商店会でも知る人ぞ知ると評判の甘味処に来ています。
いやあ、駅を離れて少し路地に入ったところに、こーんなお店があった
んですねえ。いやね、俺んちの店、あずま寿司っつうんですけどね、一
応駅前だけじゃなくてこっちの商店会にも片足突っ込んでるところがあ
るんで、まあ大抵の店は把握してたつもりだったんだけど、あるもんで
すねえ。建物も内装もいい感じに古びてて、とても雰囲気のあるお店な
んですよ? ……え? そんな良い雰囲気のところにどうせ男ばかりで
来てるんだろうって? 侘びしい? へっへーん、ところが今日は……
ちがうんだなあ。

 先ずはこちら、俺の右手……あ、俺今、二人掛けのテーブルに、無理
やり一つイスをくっつけてもらってお誕生席状態で座ってるんですけど
ね。……正直、窓が真正面で西日が射しててちょっと眩しいんだが……
そんなことはいいんだよ。で、俺の右手、これ誰だと思います? そう、
隣のクラス、2-Bのハツラツ系マスコット、伊藤香苗さんです。いや
ー、かわいらしいですねえー。
「なによ」
 そしてこちら左手、香苗さんの向かい。誰だと思います? ご存じで
しょう? そう、3-A影の名参謀、塚原響先輩です。麗しいですね。
「……何かしら?」
 ハイご紹介も済んだところで、今世紀の最大のラストクエスチョン。



 俺、なんでこの二人と一緒に

     こんな店にいるんだろう……?




 いや、そもそもこの二人からして、なんで一緒の店で、一緒のテー
ブルについてるんだろう……?



            ×



 ものの数分前、塚原先輩に先導されて俺たちは席についた。先輩が緑
茶、香苗さんがトロピカルジュース、俺がほうじ茶付きの塩大福をたの
んで、しばらく誰も何も口をきかない間があった。
 そのうち店のばあさんが飲み物が運んできて、それを合図に、
「で、話ってなんですか?」
と、口火を切ったのは香苗さんだ。
 まあその疑問はもっともだ。香苗さんをここへ連れてきたのは塚原先
輩で、その誘い文句が
「ちょっとあなたに、訊きたいことがあるんだけど」
だったんだからな。俺だって興味がある……俺? 俺はついでだよ。
「そうね、良ければ君も来てくれる?」
って、そのあとに言われただけなんだから。
「……そうだね……」
 香苗さんに促され、塚原先輩は言葉を選ぶみたいにいつもの静かな調
子で自然に黙った。
 もしかして、長くなんのかな。参ったな。
 そんな風に思った俺がキョロリともう一度、目玉で店内を見渡そうと
したら、
「じゃあ、単刀直入に訊くわ」
って、まるで牽制するみたいじゃねえか。見た目に違わず塚原先輩は、
ナイフみたいな割り切りでテーブルに肘をついた。その切れ味、まさに
短刀の直輸入、イッツ・ゾリンゲン! ……いや、意味はねえ。すまね
え。
「はあ」
 ……そのみなぎった緊張を、気の抜けた返事一つで受け流した香苗さ
んも、すごいっちゃあすごい。特に身構える感じでもねえし、咥えてた
ストローから口を離して、タンブラーのフチに果物の挿さった小洒落た
飲み物を、湯呑み敷き……否、コースターに戻した。
 塚原先輩には、もう淀みはなかった。
「桜井さんは、本当に彼のことが好きなの?」
 あー。やーっぱり、そんな話だ。



            ×



 話のどアタマは、実は昨日の夕方だ。
 そういや、大将の誕生日が近いなあ……俺がそんなことを考えながら
廊下を歩いてたら、香苗さんが声をかけてきたんだ。
「梅原くん梅原くん。あのさあ、放課後、買い物につきあってくんない?」
 おおかたの事情は読めた。桜井さんが大将の誕生日プレゼントを選び
たいから、意見を聞きたいってなもんだろ。けど如何せん、昨日の俺は
都合が悪くて、桜井さんは明日──つまり今日──が都合が悪いと来た。
だから仕方なしに今日、俺と香苗さんだけでリサーチをして、その結果
を明日香苗さんが桜井さんに伝えるっていう、まあなんともまだるっこ
しい話になったわけだ。
 で今日、三十分ほど前のこと。
 大将がこのところ足繁く通ってる、子供向けのおもちゃと、おとなの
男臭いアイテムをごった煮でぞろっと扱ったおかしな店があるんだが、
プレゼントはそこで見繕えばハズレはないだろうと俺は踏んでた。香苗
さんが俺に声をかけたのは正解だったと思う。女の子のネットワークば
っかりじゃ、どう転んだってあの店には辿り着くはずないからな。

 ……けど、驚いた。その店に塚原先輩がいたんだ。

 狭苦しい通路に、乱雑なディスプレイ。ごみごみの見本市みたいなそ
の店の片隅に、これ以上ないくらい、すらりと不釣り合いなシルエット
を見つけたときは、俺は目を疑ったね。切れ長の鋭い目を不可解そうに
しかめて、そりゃもう輪郭線こそほっそいのだけど、その線からこっち
にはもう誰も入れないぞって言う凛とした空気。多分男でないとそのロ
マンを理解できないであろう、境目もなく山と積まれた、謎のアイテム
群を見つめてたんだ。
 俺がそれに気付いて、やっぱり隣で小汚い棚を見上げて眉をしかめて
た香苗さんを肘でつついたのと同時に、塚原先輩も、俺と香苗さんに気
が付いた。
「──君は──」
「ああ、ども。こんちゃっす」
 塚原先輩も驚いたみたいだった。俺と先輩は、一応大将と一緒の所に
何度か会ったことがあったから面識くらいはあった。
 何で、先輩がこんな店に? そう思ったのは最初だけで、次の瞬間に
はもう合点が行っていた。目的は多分、香苗さんと一緒だ。どういう経
路でこの店に辿り着いたのかはわからんが、さすがの切れ者ってことだ
ろう。侮れねえ。侮れねえぞ。気をつけろ大将。……何をどう気を付け
たらいいのか、わからねえけどな!
 それよりそのとき気になったのは、挨拶を返してくれた先輩の目が、
俺を外れて、どちらかといえば隣の香苗さんに重点的に注がれていたこ
とだ。この二人、面識あったんだろうか? まあ……ここんとこの大将
の周りは色んな交通網が入り乱れてるから、どこで抜け道やバイパスが
開通してるかわかったもんじゃねえんだが。
「2-Bの伊藤香苗です」
「そう、2-Bの……。伊藤さん。私は」
「あ、知ってます。3-Aの塚原先輩ですよね」
 やっぱり、面識そのものはなかったらしかった。塚原先輩は、香苗さ
んの名前よりも学年とクラスに、ぎゅっと力を入れて繰り返してた。あ
あ、そういうことか。俺はそのとき、もうピンときてた。なんとなくわ
かる。不思議でもなんでもなかった。
 だから、

──先輩、こんな店で珍しっすね。何してたんです?

とは、俺は訊けなかった。
 そこで話が途切れちまって、さてどうしたもんかと思ってたところに
例のせりふさ。
「ふぅん、……いい機会かもしれないわね。突然で申し訳ないんだけど、
ちょっとあなたに訊きたいことがあるの。今、時間あるかしら……?」
 ほんの数秒、考えた後の言葉だった。ここで会えたのも何かの配剤─
─先輩、そんな風に思ったんじゃねえのかなあ。



            ×



「本当に、って……。そんなこと、分かりませんよ」
「……そうよねえ」
 香苗さんが、ミもフタもなくその質問をなで切りにすると、分かりき
ってたと言わんばかり、塚原先輩はかろうじて支えていた頭を垂れた。
「まあ、あたしから見て、そうじゃない可能性なんてすっっっっっっご
く、低いと思いますけどね」
 その様子を気の毒に思ったのか、香苗さんはもう少しだけ、自分の見
解を交えた情報をヒントに出す。けど、その新情報にも大方の見当がつ
いていたと言わんばかり、塚原先輩は全く同じトーンで、そうよね、と
返した。
「ゼロに近いです」
 そりゃそうだ、っと。そーんなの、俺にだって分かる話だ。ムグムグ。
んお、うめえな、ここの大福。俺は完全に傍観者モードで、大福につい
てきたほうじ茶をすする。悪くない。悪くないどころか、良い。そもそ
もメニューにほうじ茶と饅頭がある時点でかなり良い。親父にうちでも
大福置かないか提案してみよう。また冷凍マグロで殴られるかも知れね
えけど。
「桜井に、直接聞けばいいじゃないですか」
「それはそれでおかしな話でしょう。はるかがそうするなら、わからな
いではないけど」
「えへへ。ですよね」
 自分で言っといて。それが世話焼きおばちゃんみたいな行為だと、言
ってあとから気付いたんだろ、エッヘッヘと香苗さんは白い歯を見せて
苦笑いした。いい加減だなあ。
 ……大体、それを森島先輩本人が実行したとして、桜井さんから返っ
てくる返事が確かなモンだって保証なんてどこにもない。そりゃ訊いた
モン負けの類の質問だ。じゃあどうすりゃいいって、このテーブルの上
に漂ってる「そんなの訊くまでない」って空気が、ぶっちゃけ、一番の
正解に決まってる。
 一体どういうつもりで、なんのための場なんだろう? 塚原先輩も呆
れ気味に……珍しいな。姿勢を崩して頬杖ついた。いつもすました顔で
スッと背筋を伸ばした印象しかない。その顔は眉を下げて笑ってる。な
んだろう、ちょっと失敗したなあっって顔だ。へえ……こういう顔もす
るんだ。女の子同士の時間ってのはこういうもんなのか。……すなわち、
今の俺は完全に空気。すし詰め……否、差し詰めエア男子ってところだ
な。とほほ。美人のけだるげな笑顔を肴に、饅頭のおかわりでもしよう
かねえ。
「なあに?」
「へ?」
 将棋の対局のように、二人掛けに向かい合った二人、俺はお誕生日席
でその記録係か秒読み係のような位置にいたんだが……表情を温ませた
塚原先輩に見とれてしまったのを見つかって、いらない矛先を呼びこん
じまったみたいだ。
「そうだ。ねえ、梅原君だったら、どっちの味方をする?」
 そこへ香苗さんまで余計な旗を振る。やめてくれよ。
「そうね。参考までに聞かせてくれるかな。君の目から見て、彼にはど
っちが相応しいと思う?」
「え? お、俺!? ですか!!?」
 いきなりかよ!
「そーそー。梅原君なら、あたしたちの知らない彼のことも知ってるで
しょ? そういう視点で見たらあの二人の、どっちがいいと思う?」
「お、おいおい。なこと言われてもよお」
 俺と大将の付き合いは確かに古いけど。だけど、香苗さんや塚原先輩
が大将のことを知らないのと同じくらい、俺には桜井さんや森島先輩の
ことが分からない。俺の知ってる大将がどっちとくっつくのが良いかな
んて、俺にわかるわけがない。
「ねえ、どっちを選ぶの?」
「はっきりなさい」
「さあ!」
「さあ」
「さあ!!」
「さあ!」
「さあさあさあ!」
 ふ、二人がまるで、俺にせまるみたいに! な、なんだこれ! 相手
は輝日東きってのクールビューティと、お日様系のサバサバキューティ
……これは、ちょっと……う、嬉しい! 嬉しすぎる! だ、誰か今の
この部分だけを録画してくれッ!
 ……と、俺が一人で悶絶しているうちに、二人ともその行為の不毛な
ことに気付いたんだろう。乗り出した身を戻して、ほとんど同時に、ハ
ア、とわざとらしいため息をついた。
「やめましょ」
「そうですね。梅原君に、わかりっこないもんね」
 ……。あのなあ。ていうか、最初から遊んでただろう。先輩も、たま
にノリが良いよな……。こりゃアレか? 森島先輩の教育の賜物か?
 けど、そりゃご無体な難題ってもんだよ。大将にだって色んな顔があ
る。ぶっちゃけた話、男同士でいる分にはそいつが女の前でどんな顔し
てるのかなんてわかりゃしないもんだ。思いもかけない顔してることの
方が普通なんだってことくらい、親父とお袋見てりゃあ……分かる話だ。
まあ、寂しい話だけどな。その辺、男と女じゃ若干の差がありそうだ。
 二人はすっかり諦めムードで、一体この場が何のためにセッティング
された物なのかもわからなくなってきた。ちょっと塚原先輩らしくない
思いつきだったかな。それとも、そもそもそれを確認するための場だっ
たのかもしれない。こうなることなんて先輩には分かってたはずだもん
な。
 しかし、となると、俺は暇つぶしか腹いせかの出汁にされっぱなしっ
てことになる。それで黙りこくってるのも癪に障る、いや、男がすたる
ってもんだ。せっかくの機会だしここは一つ、俺の方からも質問してみ
ようかねえ。
「あのー、質問。いいっすかあ?」
 俺は半分、テーブルに突っ伏したような姿勢から挙手して訊いた。ま
さか成り行きでつれてこられただけの俺が自分から首突っ込んでくると
は思ってなかったんだろう、銘々、自分のグラスに口を付けていた塚原
先輩も香苗さんも、目を丸くして飲み物を置いた。やるときゃやる男で
すよ? 男・梅原正吉は。
「何よ?」
「何かしら」
 うおっ……。さっきまでとは明らかに空気が変わった。緊張感。やっ
ぱり踏み込むべきじゃなかったのか? 女同士ならではの冗談の言い合
いだったから許されてたんだろうか? けど、まあ、もう引っ込みつか
ねえし……行く。……しかねえやな。
「あのー……桜井さんはともかく、俺には森島先輩が大しょ……橘に好
意を持ってるってのがどうにも信じがたいんですけど……その辺、どう
なんでしょうね?」
「はるかが?」
 香苗さんは感心したようにうんうんと深く瞳で頷き、塚原先輩はクッ
と力を込めて、自分の肘を抱いた。そのまろやかながらも鋭いおとがい
に手を添えながら浅くうつむいて、俺とも、香苗さんとも目を合わさず
に眦の端に滑らせた瞳は、多分、どこも見てねえな。なんか色々思い出
してる感じだ。
 こち、こち、こち。
 この店、時計なんかあったんだ。多分店の奥の方、カウンターから響
いてくる針の音が不意に大きく響いて、窓ガラスを透かした外の黄色い
光が、テーブルに置いた自分の手の甲をふんわり焼く。塚原先輩はまる
で、息もしてないみたいに止まったままで、俺は香苗さんとこっそり目
を合わせた。香苗さんも、なんかこっちを見てくるけど、何を言いたい
のかさっぱりわかんねえ。こういうときダメだな、男と女じゃ。
「どう……なのかしら」
 おっとぉ。漏れ出た一言に、俺も香苗さんもがっくんと椅子から転げ
そうになる。それを見て塚原先輩は、髪から肩から、全身にまとってい
た鋭さを憮然とした雰囲気で鈍らせた。
「仕方ないでしょう。私にだって、初めははるかのあれが恋愛感情だと
到底思えなかったんだもの。今だって、確信してるわけじゃ……」
「あ、あああああ。で、ですよねー。責めてるわけじゃないんですよぉ、
ねえ、梅原君?」
「そ、そうそう。へへへ、さーせん……」
 自分ではあんなこと訊いといて、とは思ったけど、好きとか嫌いとか
の線引きが蓼食い虫にお任せなのは、男も女もさしたる違いはないって
ことか。二人とも、俺もだけど、話がきれいに振り出しに戻ったのを感
じ取って、小さく息を吐いた。で、また飲み物に口を付ける。ずずず。
 誰も何もしゃべらない、少しの時間。香苗さんのだんまりは軽やかだ
けど、塚原先輩のは重たいなー。何か考えてるか、そうじゃないかの違
いなんだろう。香苗さんの場合は顔に開いた心の窓が大きい分、黙って
ても気を使わなくて済むってのはあるかもな。香苗さんの目が、さっき
最後に注文した俺の手元に残ってたメニューにぴたっと止まったから、
俺は、
「ん」
と、古めかしい、焦げ茶色に濡れたような木の表紙で綴じられたそれを
彼女の方に滑らせた。
「ありがと」
 香苗さんはそれを受け取って開くと、お替わりねらいかと思いきや、
甘味のページの写真を目で追い始めた。
「……そもそも、あの子の魅力って何なのかしら」
 考えあぐねた塚原先輩が、そんなことを言い漏らした。案外遠慮のな
い人だなあ。森島先輩と付き合ってると、そういう風にもなっちまうの
かもな。その言葉に、香苗さんは猫みたいにピクンと髪を跳ねさせて分
厚いメニューを閉じた。木で出来た表紙のやさしい重みに、ラミネート
加工された間の頁から空気が押し出されて、文字通り、ぱたん、という
丸みのある音とともに風をつくった。
「あ、それあたしも知りたーい。興味ありました、前から」
「分からないわよね?」
「分かりませんよ。……桜井には悪いけど。マニアックっていうか」
 頬杖をつき、切れ長の眦を意味のない方向に投げながらの塚原先輩の
つぶやきに香苗さんが食いつき、二人は一瞬盛り上がる。おいおい。人
のダチ公なんだと思ってんだ。確かに、大将のセイヘキはマニアックの
方向に傾くこともあるけどよ。
「……でも、はるかのそばにいるのに、不思議とあの子以外のビジョン
は浮かばないのよねえ……」
「そんなもんですか? あたしはー……桜井の場合、おさななじみって
いう強ーいカードがあるから……他の人は浮かばないですけど。そうね
え、桜井に他の人かあ……。考えたことなかったなぁー」
 塚原先輩はテーブルについた肘を少し滑らせてうつぶせに近づき、逆
に香苗さんは、ストローを咥えたまま。椅子に背中を大きく預けて天井
を仰いだ。俺も、つられてちらりと天井を見上げる。むき出しの木の梁
から下がってる時代物の照明は、ちょっと薄暗いし燃費も悪そうだ。作
り出す光の柔らかさはちょっと魅力的だと思うけど、自分で欲しいとは
思わねえ。
 日暮れ前。鋭く射してくる冬の西陽。その時間は長くはねえ。二人と
もまるで美術の教科書で見た一瞬の切り絵みたいだ。ムナカタシコウ、
だったかな? 窓辺に無理矢理しつらえた三人がけをほんのりと、艶っ
ぽい空気が包み込む……。あー、俺今日ラッキーだなー。詩人だなー。
「マニアック、か」
 ん? 塚原先輩が香苗さんの、なんだか意外な言葉尻を捕まえた。ん
にゃ、この際「捕まった」って言う方が正しいのかも知んねえな。香苗
さんにもそれは意外だったみたいだ。ん、と勢いを付けて体を起こすと、
ストローを戻す素振りで、上目遣いに先輩の細い瞳の奥を窺った。けど、
先輩はそれには取り合わなかった。
「マニアック……ねえ」
 ほんの少し、笑いの調子を含んだおうむ返しの呟きで、香苗さんも窓
の向こうに目を細めたんだけど……二人とも、どこ見てんだ? 古くな
ってゆがみのひどい窓ガラスは、自分の厚みの中に光をとじこめちまう
んだろうか。夕日がおかしなぐあいに反射して、黄色い紙を貼り付けた
みたい眩しくて向こうが見えない。それでも二人の視線は、ガラスを抜
けたどこか遠くの先で、奥で、細く結ばれてるんじゃないかって気はし
た。
「人の心配ばかりしていられるほど、ゆとりがあるわけでもないしね」
「そーなんですよねぇー……」
 塚原先輩も、香苗さんも。さっきまでの、お互い友達を憂いつつ人の
恋路を肴にちょっと楽しんでる、そんな空気はすっかりナリを潜めて、
つぶやいたきり物憂げに、さっきとは明らかに意味合いの違う熱っぽい
ため息を鼻から漏らした。……い、色っぺえ……。この人らホントに、
俺らと同じ高校生か? 女子ってこんなに大人びた顔するもんなんだ。
……大将、俺ぁ今日、一個学んだぞ。
 けど、まあ。何を考えてんだろうな。さっぱり分かんねえ。マニアッ
ク、か。俺には与り知らない話だ。ああ、分かんねえ分かんねえ。
 手持ちぶさたの俺はもう、ほうじ茶に二つくっついてた小さな塩大福、
その残りの一個にがぶっと食いついた。むぐ、むぐ、むぐ。ああ、やっ
ぱうめえな、ここの塩大福。ちょっと匂いにクセはあるし、そもそもこ
の店に来てほうじ茶に塩大福のセットを頼むやつがどれだけいるか知ら
ねえけど、俺なんかにゃたまんねえ。病みつきってやつだ。多分親父も
気に入るだろう。どっから仕入れてんだろ。こっちの商店会の店かなー。
「ま、人のどこ好きになんのかなんて、なにが普通とかあるわけじゃね
えっすもんねぇ。言ってみりゃ、みんな普通で、みんなマニアックみた
いなモン……な、なんスか」
 とりあえず思ったことだけ言ってほうじ茶を飲み干し、これもなかな
か渋い唐津の湯飲みをテーブルに戻すと……いつの間にか二人ともまじ
まじと俺の方を見てて、俺はちょっと怯んだ。
「……」
「…………」
「だ、だから何なんスか?」
 しばらくそのまんまで、結局二人とも、俺に何にも言わなかった。い
いだけ俺のことを睨んだあと、示し合わせたみたいに瞳を伏せた。何な
んだ、一体。そして終いにはちょっと安心したみたいに、そろそろ出ま
しょうか、と塚原先輩が切り出した。ホント、一体何なんだよ。
「悪かったわね、時間をとらせて」
「いえいえ」
 先輩のゆび先が自然に滑って伝票に辿り着いたところに香苗さんが手
を重ねて遮る。塚原先輩も驚くが、私が誘ったんだから、とそこは譲ら
ない構えを崩さなかった。
「支払いくらいもつわよ」
「いえいえー。こういう話でしたから、ね」
 なるほど。
 にやりと笑って片目を瞑ってみせる、その香苗さんの表情もなかなか
堂に入っていて曲者感がハンパない。いやー、女子って大人だな。熟女
だな! ……それは違うか。
 それを聞いて、少し意地悪く頬をゆるめる先輩も先輩だ。
「そう? じゃあ、そういうことで」
「はい」
 いつの間にか空気は、最初の頃に戻っていた。
 やれやれ、しゃあねえな。
 俺の分だけ二人で割ってもらうわけにも行かず、俺は尻ポケットの財
布を渋々探った。



            ×



「で、結局よお?」
 店の出口で先輩とは別れ、俺と香苗さんはもう一度、目的の店へ戻っ
た。大将へのプレゼント候補を幾つか挙げて、あとは桜井さんのセンス
で選んでもらえばいい。大体そんな段取りだ。
 帰り道、いい加減日も落ちて、お互いの顔もよく見えない。俺は何と
なく、香苗さんに聞いてみた。
「何よ」
「香苗さんも、好きな奴とか、いんの」
「ん、なっ……!」
「ああ、やっぱりいんだ。ふーん、そっか」
 びしりと脳髄に亀裂の入る音を立てて香苗さんがどもるから、その先
は敢えて本人には言わせない。そいつぁ野暮天ってもんだ。香苗さんだ
って、ここまで唐突な訊き方じゃなけりゃこうまでうろたえないだろう。
普段だったら、とか、相手が女友達だったら、しれっと
「そりゃいるわよ、おかしい?」
ってなもんだろう。俺は自分で勝手に結論つけて、その話は終わらせた。
まあ、別に。普通のことだ。そりゃまあそうだ。
「そうだよな。高校生だもんな、俺ら」
 俺がそういう風に線路を敷いたら、香苗さんも不思議なくらい落ち着
いた。暗くてよく見えなかったけど。真っ赤になってたはずの頬が、す
っといつもの色に引いてくのが分かった。
「まあね。梅原君だって、いるんでしょ?」
「まあな。……田中さんとかも、いるんだろな」
「田中さん?」
 何だかわからねえけど、香苗さんはクスリと笑う。香苗さんの質問は
意趣返しのつもりだったのかも知れねえが、自分で振った話だ。うろた
えるわけもない。つまり、だ。さっきのアレは、塚原先輩も、ってこと
なんだろう。あの窓の向こうに誰がいたのかは知んねえけど。みんな、
アレだ。大忙しだ。
「へへっ」
「ちょっと、何よ」
 冬の風が厳しい。乾いた鼻の下を指でこすって、俺が笑ったのが香苗
さんは気に入らなかったらしい。
「マニアック、か」
「えぇ? 何よ、文句あんの!? あんなこと言っといて」
「べぇーつに。いいんじゃねえの」
 最初、大将が森島先輩と、って聞いたときには、驚きもしたし、疑い
もした。桜井さんと、ってときには別に驚きはしなかったが、どうして
今頃? と思いはした。けど、まあ。何があっても不思議はねえってこ
ったな。棚町とやけぼっくいに火がついたっておかしくねえ。だから多
分、このお話もいつの間にか始まってたんだろ。
 今年のクリスマスまで、もうあと少し。残念ながら今年の俺は、大将
と違ってどっかでボタンを掛け違えちまったみたいだが……そうそう、
大将が言ってた、
「……梅原にも、きっとくるよ。思いもかけず、黒い手帳を拾っちゃう
日がさ」
って言葉の意味が、今日はなんだか分かった気がするぜ。その黒い手帳
が一体何のことなのか……それはやっぱり俺にはまだわかんねえんだけ
どな。それはまあ、拾ってみないとわかんねえって奴だろう。
 ……あと、そう言った大将の顔がやたら青ざめてたから……実はあん
ーまり、そいつは拾いたくないなぁーとは、思うんだけどな。そゆこと
言ってると一生実らないんだろ。
 くわばら、くわばら。



                       ──おしまい──




      ──Epilogue──



梅 原「なあ、香苗さんは、黒い手帳って拾いたいと思う?」

香 苗「思わない」


 キッパリ。即答かよ……。


香 苗「なんかすっごいイヤな予感する。
    何それ。何の心理テスト?」


梅 原「いや、分かんねえ……。けど、その意見には賛成だ」

香 苗「はぁ? 意味ワカンナイ……
    でもゼッタイやだ。ゼッッッッッッッタイ拾わない」

梅 原「分かった、わーかったから」

梅 原(大将……お前、一体ナニ拾ったんだ……?
    こりゃただ事じゃねえぞ)




 

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2012年1月18日 (水)

■あとがき ……と、川底色の自転車 -更新第751回-

『ひだまりスケッチ×☆☆☆』SS「a white day~ミューズの座布団」、
先ずはお読み戴きましてありがとうございます。
私が書いた人のオイサンです。

  知ってる?
  あらそう↓。

  サインしたろか?
  いらない↓。
  あらそう↓↓。

いかがでしたでしょうかね。
意味わかんないですかね。

毎度のことながら、
のんびり、ふんわり、ときどきしんみりが信条の『ひだまりスケッチ』には
あまり相応しくない言葉や感情や雰囲気が、
道中ワリと見え隠れするお話になってしまっているので、
原作同様の空気だけをお望みの方々には
なかなか容れ難いものになってしまっているのではないかと思います。

  気分を害した方はゴメンナサイ。
  貴方の大好きなメ一杯天真爛漫なだけの宮ちゃんや、
  ひたすら内気で純真なばかりのなずなちゃんは、多分ここにはいません。

けれどもそれは、何かあざとさを狙ってそうしているわけでは決してなくて、
宮ちゃんにしろ、なずなちゃんにしろ、
オイサンが、原作のマンガやアニメやキャラクターソングなどから読み取った幾つかの情報と、
現実でのオイサンの体験や経験から
「こういう子なのであれば、こういう面があるに違いない」
「こういう面の反対側には、こういう面が隠れているのが自然だ」
と、ごく自然なもの・人として導き出した結果このようになってしまっている、
ということです。

「こういう光の当て方もあるのか」という程度に、寛い心で捉えて頂ければ幸いで、
その上で面白がってもらえたらいうことなしです。


 ▼クローズアップなずにゃん

今回なずなちゃんをクローズアップした理由は、
例によってキャラクターソングにインスパイアされたからです。
アルバム『ひだまりんぐ』に収録されていたなずなちゃんのキャラソン『white days』を聴き、
その曲の世界を言葉で絵にしたいなあ、と思ったのが最初の最初。

  その目論見は、お話冒頭のなずなちゃんの自室のシーンに表れています。
  うすぼんやりと暖かな、みかんイエローの世界。

そこに何故、宮子がからんできて今回のようなお話になったのか。


 ▼二人の橋渡し

あるとき、ヒトツ気になったことがあったんです。
原作の、ゆの・宮子・乃莉・なずなが四人でホームセンターに行く話の中で、
宮子・乃莉だけがトイレに行ったとき、
ハタと
「乃莉は宮子とも平気で二人きりになれるけど、
 なずなが宮子と二人になるところはみたことないなあ」
と気付いたのでした。

それでちょっと見返してみたところ、公式にしろ二次作品にしろ、
なずなちゃんと宮子が二人だけで長い時間からむエピソードはとんとおみかけしなかったので、
どんな風になるのだろう? という興味はありました。
多分そんな動機で、この二人をからめようと思ったのだと思います。

恐らくはあまり好き好んではからまない二人だからうめ先生も描かないのだろうし、
その空気をなんとなく察しているから、
創作系ひだまらーの皆さんもあまり手をつけないのだろう、ということは分かります。
そういう意味では、ある意味「やったらアカンこと」なのかも知れませんが、
同じ屋根の下で暮らしているのだし、
そういうタイミングもきっとあるだろうなあ、と思って。

あってもいいかなあ、と。

逆に、その「うめ先生が描かない」ということが、
その二人の「カンケイの存在感」の異質さをあの作品の中で
すごく大きなものにしているように思えてしまい、書いてみたくなった。
そこがぽっかり塗りつぶされていることが寧ろ不自然で、
って言うか、どうしても気になって。

何か触れ難いものがあるにしても、アッケラカンと触れられるべきだし、
それが出来ることが『ひだまりスケッチ』の世界でもあり
宮子の特殊性だ、というのが、オイサンの持論というか、
ひだまり観みたいなものだったのです。

  面白いモンで、なずなちゃんと宮子だけはホント二人ではからまないんですよね。
  『×SP』のOPだけをとってみても、
  なずなちゃんはゆの・ヒロ・乃莉とは同じカットに入るのですが、
  なずなと宮子、なずなと沙英、二人だけのカットというのはありません。
  多分なずなちゃんは宮子・沙英には、ちょっとした苦手意識があるのだろう、
  というのがオイサンの見立てでして、
  宮子もそれを無意識に感じているから、
  自分からプレッシャーをかけにいくようなことはしないんでしょう。

まあ、ちょっと……
今後、この二人が他の場所でも自然にからめるきっかけになればいいかなあ、
という、
すっごい僭越な言い方をすれば、二人の橋渡しもしてみたかった。
そのためには、なずなちゃんが宮子に対して、
ちょっと本気で感情を開かないとだめだな、怒らないとダメだな、
というのもあり、今回みたいなお話になったのでした。
怒ったなずなちゃんを見たかったってのもあります。
わかんねえ?
やっぱりねえ。

マそんな感じでひらひらと。
今回も、当初の想定とは随分異なる形でのゴールインとなりました。


 ▼異形ナチュラル

最終的には、実はひだまり荘の全員が出てくるはずで、
考えていたほのぼのエンディングがあってそれに向けて進んでいたけど
全然そうはならなかったとか、
ボンゴも叩くし宮子も踊るし、そんなお話のはずでした。
ぼんぼりのようにフンワリ明るく、ハートフルに。

……いやあ。
向いてないんでしょうね。
それがイヤなわけでは決してないんですけど、
書くと込み合って、次のシーンに流れていかなくなるのでした。
その時々でアタマを悩ませ、筆を止めつつも、
「しょうもない見栄で、要らんことまで書こうとするから手が止まるんや」
という……ちょっとらんぼうなですが思い切った境地を見出すことの出来た、
個人的にはなかなか実りのあるお話でした。

だからあとの三人の出番は切られちゃったし、
ボンゴも自然と鳴らなかった。
反対に、彼女らが、全く予想のつかない動きでオイサンを驚かせた挙げ句、
勝手に、キレイに、シーンをまとめてくれたりもしましたし。
なので、コレで良かったと思います。


とは言え、マそれもこれも、皆さんに読んで戴いて
位置づけ的にもようやく完成するシロモノですので……
なにかお言葉を戴ければ幸いです。



マそんな感じでヒトツ。

蛇足と知りつつ書かずにおれない、
素人くさいインチキ書き物士の独り言でございます。





……。





あ、そうそう。





昨晩は、実家の近所をロードレーサーで走る夢を見たんですよ。

Twitterでフォロワーさんが、
「若草山のヒルクライムに参加する」と仰ってたのを聞いたからでしょうかしら。
地元近くなんですよね。

夢で初めてまたがった深いブルーのロードレーサーは、
最初はオイサンのオペレーションが拙いせいでガクガクしてましたけど、
ギアチェンジンのコツが分かってくると
(多分実際はもっと難しいのでしょうけども)、
急な坂の多い郷里の町を、
まスイスイととはいえませんがとても軽やかに走ってくれました。

気持ち良い夢だったなー。

欲しいんですけどねー。
ロードレーサー。
『Odds!』とか『茄子』とか『弱虫ペダル』とか見ていると、
どうしても欲しくなりますね。

オイサンが自転車に乗る用途で言えば
ロードレーサーである必要はないのでしょうけど、
あの20何段というディレイラーで加速する感覚を味わってみたいのです。

置く場所と手入れの問題で、ずっと二の足を踏んでいるのですよ。
買って実家に置いとこうかなあ。
年に何度か、乗りに帰る、みたいな。
手元には町乗り用のを持っといて。





……なんでこの話を今したんでしょうね。
全然わかりませんけど。





それではまた。
『ゆび先はもう一つの心臓』で待ってます。
きっと見に来てくださいね。


オイサンでした。




 

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2012年1月 7日 (土)

■a white day~ミューズの座布団・その六 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第746回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき
 





       ×     × 




「なずな氏は失礼だなー。そんなことを考えていたのですかい?」
「ごめんなさい、だけど、おかしかったんです」
 なずなの漏らした本音話に宮子がぼやき、聞いていた沙英はもう話の
出来る状態ではなかった。電柱に手をつき、おかしい、おかしい、おか
しい、おなか痛い、おなか痛いと、せっかく持ち直した腹筋をまたひど
くけいれんさせている。その声は夜の暗がりに腰まで浸った町には大き
過ぎ、ひたりとガラスのような空気にびりびりと振動を残した。どこか
の家で犬の鳴く声、遠く、急行電車の過ぎる音。その波の形を少しずつ
いびつに乱していく。自分の声が起こすさざ波に沙英も気がついて、徐
々に息を深くしていった。
「あーおかしかった……なるほど、それでたこ焼きね。じゃあ帰ったら、
それ持ってゆののところに陣中見舞いだ」
「ですなあ」
 ぽろりと小さな先輩の名前が挙がったのは、唐突な様でいて、ずっと
周到に用意されていた様でもあった。海の水がお日様に照らされて雲に
なり、山に雨と注いで染み入って、やがてとろとろと冷たく人の喉を潤
すような、気の長くて遠回りな循環がそこには感じられる。
「けど、だったら甘い物の方が良かったんじゃない?」
「たい焼きと、迷ったんだけどねー」
 淀みなく、二人がゆののことを話すのを、なずなは口をはさむことも
出来ずに聞いていた。山小屋の管理人が山に語りかけるのを聞く、登山
客の心持ちがした。その循環の中には多分ヒロもいて、大きな渦、巨大
な歯車、そのどちらも持ち合わせていなくても、どこか遠く離れたせせ
らぎに、ゴトゴト静かに回る水車くらいのありようで繋がっているに違
いないと想像がついた。
 そんな風に、二人を行き交う言葉を交互に目で追って歩いているうち
にあらぬ景色が眦の端から広がり、また浅い夢を見ている様な錯覚に陥
る。昔話に出てきそうな山が瞼の裏側にシンプルな稜線を描いて、さら
にその上には、不器用なおむすびに似た月が浮かぶ。見上げた本物の空
は、二人が公園を出た頃にはまだたなびく程度だった薄い雲に覆われて
しまっていた。今日の月は大きかった。そこだけ雲が透けるくらいに煌
々と明く、古い街灯などよりも、よほど白くて強い。その雲にも、月の
明るさにも阻まれて、星は見えそうになかった。
 なずながふっと我に返ると、宮子たちはもう随分先にいた。立ち止ま
り、肩半分に振り返った二人の視線に追いつこうとなずなが小走りにな
りかけたそのとき、さっきまでなずなの見ていた月の先を見上げた宮子
が、あっと嬉しそうな顔をしたのに気を取られ、なずなは足をもつれさ
せた。
「わ」
「おおお、あぶない」
 爪先の尖った感触とともに勢いよく数歩余分にまろび出し、前を行く
二人を追い抜いてしまいはしたものの、転ぶほどには至らなかった。な
ずなは、驚いた二人の空気を背中に感じて慌てて振り返ると手提げに引
っ張られるようにして頭を下げた。その勢いの良さに二人がまた驚く。
「いや、謝んなくても。でも、大丈夫? それと、それ何、ボンゴ? 
さっきから不思議に思ってたんだけど、どうしたのさ、そんなもん。な
ずなが叩くの?」
 画材はともかく、さすがにそこまでは想像が及ばなかったのだろう、
沙英のもっともな問いになずなが説明に窮したところへ、
「くたびれた? 持とうか?」
と、宮子がするりと割り込んだ。それ、案外重いでしょー、とこともな
げに差し伸べられた手は、長くて大きい。そうでなくても宮子はそれと
同じ重さのトートを肩に、背中には倍の重さのザックとイーゼルを負っ
ている。
 なずなはえっと目を瞠ると、今一度、自分のゆび先にかかった手提げ
から、白い革の張られた上面だけを覗かせているぼんごに視線を落とし
た。
 宮子の言うように、肉厚の白樫で出来たぼんごはほどよく重い。両手
で体の前に提げるとその重さが肩を回って背中をぐいと引っ張るから、
少し、胸と背筋を強く張る力が必要だった。自分の健や肌がこの楽器と
同じだけのしなやかな張りを求めている気がする。溜め息の聞こえてき
そうだった午後。ゆび先に感じる重さも、朝から変わっていない。ただ
それでも、こうして一日をともにしていると、それを提げていてもバラ
ンスを乱してしまうことはなくなっていた。手提げの揺れた拍子に脛を
ぶつけることももうない。なずなは小さく息を吐いた。アパートはもう、
目と鼻の先だった。
「いえ、せっかく、ですから。最後まで、持ちます」
「そう? じゃあお願いねー」
 二人の間で話が終わってしまい置き去りを食った沙英は目を泳がせた
が、「お客を呼ぶための最終兵器だったんだけどね」と宮子の付け加え
た一言で、いくらか納得がいったようだった。
「結局、出番はなかったんですよ……」
と、さらになずなが付け加え、ね? と手提げの中のボンゴにほほえみ
かける、その横顔には、朝会ったときよりも何かが足されているように
沙英には思えた。
「そうなんだ? だったら、ゆのがまだへこんでるようだったら、それ
でも叩いて、励まして上げたら?」
 沙英は冗談めかして笑い、なずなの小さななで肩を、インクの濃い香
りのする掌でぽんと押した。


       ×     × 


 会話が途切れ、宮子は今し方自分でおルスにした粒を平らげて残るは
二つ、なずなはようやく折り返しの四粒目に取りかかった。湯気の白い
帯は次第に薄くなり、今は熱ではなく、時折辺りを静かに凪いでいく風
にカツオ節が揺れている。そのわずかな湯気が空に吸い込まれてたなび
き、青く晴れていた空を、雲が薄く覆い始めていた。
 すこし急いだ方が良い気がして、なずなは楊枝をたこ焼きに向けるが
つるんと逃げられてうまくいかない。楊枝は二度目でうまく刺さったが、
なんだろう? その先から伝わる感触のおかしさに、なずなは首を傾げ
た。
 その粒は、おルスだった。
 ぱくりと口に入れ、さっきと同じ要領でどれだけ口の中を探し回って
みても、こりこりと柔らかな小部屋の主の姿がない。小麦ダネの温かな
感触、ソースの甘辛さに、青海苔とカツオ節と不思議な香味。宮子の言
った通り、あるじ不在でも顔の内側に広がる美味しさはもうすっかり形
になってしまっている、そのそこはかとないさみしさの影は伸び続け、
広がり続け、その色が黒からグレーへ、そして白にまで届いて光と境目
を失っても、まだ止まらない。
 さみしい、さみしい、さみしい。
 その場の代名詞で、そこにいないと寂しくて、ついでにちょっとユー
モラスで。いつでも独り立ち出来てしまう。それは、その姿は、佇まい
は、そうまるで。そう考えると、さっきまで宮子がたこに向けていた言
葉が重たく思え、自分が寝起きするあの温かな中間色のアパートが、朝
な夕なに落とす影がたこ焼きと重なった。そこでは、タネになっている
小麦粉、ソース、カツオ節に青ノリ、そしてたこ。どれをとっても、自
分に担えそうな役割なんてどこにも見当たらなかった。
 ああ、私はひだまり荘のおルスなのかも知れない。
 理屈には、合わないかも知れない。けれど今口の中に広がる、確かだ
けれどもそこはかとなく、物足りないけれども取るに足らない、何より
も、もっと些末なたくさんのことにかまけて素通りされてしまいかねな
いやるせなさには共感できたし、ともに哀しみ合える気がした。残った
四つの粒を乗せた舟の重みが、スカートから覗く、あの頃と何も変わら
ない小さなひざ小僧にのしかかってくる。
 なずなは、たこのいないたこ焼きをもぐもぐごくんとおなかに飲み込
んでしまうと、膝の上の舟をそっと両手ですくい上げて宮子を見た。宮
子は残りわずかとなったたこ焼きに別れを惜しむように、食べてしまお
うか、もう少し眺めていようか、難しい顔で思案に暮れているようだっ
た。
「あの……宮子先輩。残り、お手伝いを……」
「なずなどの」
 二人の声がほぼ重なった。なずなはびくりと身をすくめ、宮子は宮子
で「どうぞお先に」だなんて、先を譲るようなことはしないで続けた。
「このたこ焼き、ちょっとお洒落だよねー」
 お洒落。たこ焼きが? それは舶来の品だからだろうか。なずなが答
えあぐねるうちに、宮子はまた、楊枝をゆび先でくるくると回した。
「冷めても表面がぱりぱりしてて、中はあったかいまんまだね。どーな
ってるんだろー」
「ああ、それなら知ってます」
 ヒロと乃莉が話しているのを聞いたことがあった。表面に油を振って、
揚げ物のように加工をすると良いのだと。そうすると外はパリッと固く、
中は柔らかに、そして温かさを保つことが出来ると言っていた。けれど
も、その美味しさを「お洒落」と結びつけた糸が、どこから出てきたの
か分からない。
 なずなの伝え聞きの説明を受けて、宮子は色々考えてあるんだねえと
感心をし、鼻先を舟の舳先に近づけて、すんすんと鼻を利かせてわずか
に眉をゆがませる。
「なんだっけなあ、この香り。ちょっと変わった香り。ほら、なずなど
の。食べて食べて」
「香り……ですか?」
 宮子にせき立てられて、なずなは舟を一旦膝に戻すと、とりあえずも
う一粒口に放り込んでみた。同じ歯ごたえと舌触り、そしてもう一つ、
はじめにも感じた、ソース、青海苔、カツオ節にも負けない何か強い香
気があったことを思い出す。
「これって……」
 宮子は喉まで出掛かって思い出せないらしく、なんだっけ、ホラあれ、
と身をよじり、震えて、あげくに暴発した。
「ほら、あれ! えーとー……『ポッパァーイ、タァースケテェー!!』」
「!」
 突如ものすごい裏声で叫んだ宮子に道行く人は振り返り、なずなはベ
ンチごとひっくり返りそうになる。その勢いで背中をしたたかに打ちつ
けた拍子に、つかえていた物が飛び出した。
「あ、オリーブ?」
「それ!」
 言われてみればなるほど、甘いような、味の輪郭に髪の毛一本分ほど
の酸味を残した香りは確かにオリーブオイルのものだった。すべての香
りの上にさらに一枚、薄い膜を張るきりのその香りには確かな気配があ
りこそすれ、何かと何かが混ざって生まれた一瞬のグラデーションよう
にも思えてしまうから、気付かず素通りしてしまいかねない。先ほどま
でのなずな自身がそうだった。けれどもこうして気付いてみると、それ
が偶然ではなく、天秤ぼ上に最後に乗せられた大切なピースであること
が、そこに生じた調和のやさしさから感じ取れた。
 謎の解けた宮子は、そーだー、そーだよーと上機嫌で、筋肉質の船乗
りが活躍する舶来アニメのテーマを口ずさみながら、もう一度その甘み
のある香りを大きく吸い込んだ。
「うーん。最後まであったかいためだけじゃなくて、香り付けにも一役
買ってるんですなあ」
「そうですね。外人さん、色々工夫してがんばってるんですね」
「なずなどのの、そのヘアスタイルもオリーブなんだっけ?」
「え? あ。はい」
 オリーブは駅前の美容室の名でもあった。双子の姉妹スタイリストの
切り盛りする店で、ひだまり荘で一時、ブームになったことがある。な
ずなの髪型が話題に上った時のことだ。
 宮子はなずなを見つめて嬉しそう大きく笑い、ラスト二つのたこ焼き
のうち、一つをぱくんと口に入れた。そっかそっか、なずな氏はオリー
ブかあ、とおかしな納得をして。
「ふんわり、イイ匂いがするところもそっくりですしナ」
「え」
「あ、そうだー」
 そうして宮子はまた勝手に話をぶつ切りに、空を見てなにごとか思い
出すと、まだ口の中にたこ焼きが残っているにも関わらず、最後に残っ
た一粒に向けて例の構えをとった。ほいっ、とどこまでも陽気なかけ声
で、楊枝はたこ焼きにするりと刺さり、抜け出てきた先にはまた、たこ
だけが捉えられていた。その様子を少し呆れて見守っていたなずなだっ
たが、その楊枝が、自分の前にひょいと差し出されて面食らった。
「……なんですか?」
「たこだけ、ご返杯。さっき、おルスのとそうじゃないのの交換になっ
ちゃったでしょ」
「え、でも……最後の一つなんですし」
「おルス引いたのは、あたしだからね」
 そう竹を割った様に言われて、なずなは上目遣いに考えた。なるほど、
計算は合う。こだわるつもりはなかったが、自然に開かれた宮子の目に
譲ろうという気配はなかった。これもまた家訓であるのかもしれない。
風がそよいで、にがお絵がぱたぱたと揺れ、なずなはあまく乱れた髪を
ゆび先で耳にかけ直すと、目の前に差しだされた楊枝のたこに、そのま
まぱくりと食いついた。
「おっ」
 こりこり固くて、すこし柔らかい。宮子がくれたそのたこは、粒がや
や大きいことを除けばソースも青海苔も何もない、小麦ダネとオリーブ
オイルが少しからんだただ温かいだけのたこだったが、淡泊なようで、
身の詰まった力強い野性味があった。ぎゅっとかみしめるほどにしみ出
すほのかな甘みと、独特のゴムにも負けない弾力が、歯と言わず骨と言
わず、体の芯まで押し返してくる。耳の奥にこもる力が背中にまで伝わ
って、その度に自分の中で何かが一つになるような手応えがある。なず
なは、オリーブ。なずなはじっくりと味わって、やがてごくんと飲み込
んだ。
「おいしいです」
「うん」
 そして宮子は、なずなのその笑顔を見届けると、結局おルスになって
しまった最後の一粒を、ぱくん、ごくんと丸飲みにしてしまった。



     × ☆     ☆     ☆



「私が叩いても、うまく、鳴らないと思いますけど……」
「いいんじゃないの」
 散々しぶるなずなに沙英は、やってあげたらと、無責任で、半ば強制
に近い抑揚で背中を押す。へこんだゆのを励ましになずながボンゴを打
つ企みに、宮子も乗り気だった。
「大丈夫、教えた通りにやりたまえ。ゆび先と、手首の返しが秘訣なの
だよ」
「それはたこ焼きの話じゃないですか……」
 なずなに軽くいなされ割り込んだ宮子がばれたかと舌を出し、それを
聞いた沙英がまた、ぶっと勢いよく吹き出す。
 歩いてきた住宅街の細い通りを抜けると、いつもの学校とアパートの
前を走る、ささやかながらも一応国道の番号がふられた通りに出る。三
人がアパートに近づくにつれ、庭に面したベランダと大窓に、歯抜けに
三つ、明かりがともっているのが見えてきた。二階に一つ、一階に二つ。
どの窓もカーテンの色柄が違うから、夜空に温かな中間色のパッチワー
クのように浮かび上がって見えた。
「みんな帰ってるみたいだね」
 沙英が言葉にするまでもなくなずなの頬がぱっと明るみ、そうですね、
と答える声も、トーンが一つ弾んで上がった。その控えめな瞳は、ソー
ダ水の色の中に花柄の散った一階の窓、乃莉の部屋しか見えていないよ
うだった。歩調までそそくさと上がった小さな背中を見て、沙英は一つ、
溜め息とともに苦笑して宮子に視線を送った。
「宮子も、お疲れだったね」
「ふえ、何がー?」
 がしゃがしゃと無粋なロボットの様に、大きな荷物を揺すって歩くそ
のとぼけた返事が何の駆け引きでもポーズでもないことはこの二年で身
に染みてきた。並びのいい白い歯の隙間からもれる一見でたらめなメロ
ディが、何日か何ヶ月か、何年かかけて頭とお尻が繋がる法則性を持っ
ているかもしれないことも。
「ん、なんでもないよ」
「ねえ、沙英さん」
「ん?」
「ヒロさんにね、チャーハン作ってもらうんだ」
「チャーハン?」
 宮子の話の切り出し方はいつも唐突だった。話し相手の沙英を見ても
いない。宮子はまぶしそうな視線を、恐らくキラキラした目で乃莉の部
屋明かりを見ているのであろう、三歩先のなずなの背中に送っているき
りだった。言葉で終わらない宮子の話は、唐突でも、その瞬間にだけ腑
に落ちるしっとりとした重みがあった。それだけ分かっていれば良いの
だと、他はともかく、沙英は思っていた。
「ふーん。いいんじゃない? ヒロも腕、ふるってくれるよ」
 いつもと変わらぬ落ち着いた調子で言う沙英の横顔を、宮子はちらと
盗み見ると、その答えに満足したようにへへと軽い笑いをもらした。
「でもあんた、先週もそんなこと言ってなかった?」
「へ。せんしゅう?」
「うん」
 思い当たる節がないではないのか、宮子はぜんまいじかけの早さで腕
を組んだ。
「……そだっけ」
「そうだよ」
「そうだっけー……」
「そーうーだーよ……あれ? ピラフだったかな……」
 宮子のいい加減に引き摺られ、沙英自身の記憶もあやふやになってい
く。なるほどそうか、先週……。ぐぐぐ、と音を立てて腕組みを深くし
ていく宮子を横目に、沙英は温かく、
「まあ、いいんじゃない」
ともう一度、同じ言葉で笑った。
「あんたが食べたいって言うなら、何度だって作ってくれるだろうし」
 アパートの名前五文字をべつべつのプレートに描いた表札の前を過ぎ
て門柱を抜けると、それじゃあ、と手を振った沙英は自分の部屋へは向
かわずに、まっすぐヒロの部屋へと足を向けた。なずなはそれを見てほ
んの一瞬だけ疑問符を浮かべたがじきに察し、宮子はそれよりさらに早
く、「さすがですなあ」と開きっぱなしの大きな口から気持ちをダダ漏
れにした。
 なずなも、乃莉の部屋に灯る灯りに後ろ髪を引かれる思いがあった。
が、手に提げたぼんごと、一日駆けずり回って少し汗ばみ、少しほこり
くささを感じるパフスリーブの肩に歯止めをかけられて、ぐっと抑えて
カンカンと音の鳴る階段を上がった。
 階段を上がりきったところに、宮子が足を止めていた。
 朝から見続けたスネ丈のジーンズからはみ出す上等のアキレス腱をま
っすぐに伸ばして、壁にも手すりにもよりかからず、旅人のように何か
を見上げている。空と雲と月。夕方降りてきた風は空に帰って、雲の高
さではほどほどに強く吹いているらしい。雲は、晴れはしないもののな
びいてかすれ、高く低く、あちこちで濃淡をせわしなく変えた。月から
すこし外れた辺りに、十円玉ほどに穴の空くのも見えた。
「……綺麗ですね」
「お月さまー? うん、そうだ……」
「いえ、星です」
「……ね。え?」
 滑らかに、自分の言葉と言葉の間をなずながすり抜けていったのを聞
いて宮子は目を瞠り、なずなと空を交互に見遣った。
「お星さま?」
「はい」
 宮子はもう一度、いつもの穏やかさで、けれどもきっぱりと答えたな
ずなと、空に空いた雲の十円はげを見くらべる。今日の月の光は乱暴で、
ちいさな星の光など飲み込んでかき消してしまう。宮子が拾い集めるの
は、そんな小さな渦の泡、焦げたネジ、そんなものだった。
「綺麗、ですよね」
 なずなはもう一度その雲間を見遣って、まるで尋ねるみたいに囁いた。
なずなの大きな瞳は、髪の色と似た銀色の光を受けて遠く、どこに焦点
を結んでいるのか分からない。その目を見て、宮子は理解し、にこりと
微笑んだ。
「そうだねー。明日は、一緒にお星さまも見られるといいね」
「そうですね」
「それじゃあ、あとで」
「はい」
 そこでようやくぼんごの手提げを宮子に返し、いつもの言葉を交わし
てドアノブをまわす。二〇三がふられたその部屋は、なずなが越してく
る以前はただの物置部屋だったのだそうだ。上級生四人からは、大家に
請われて安い昼食で掃除を手伝った話を聞かされた。
 かちゃりと静かに開いたその扉の向こうから、他の誰の物でもない、
みかん色の空気が漂い出て……手にしたたこ焼きの袋から立ち上るオリ
ーブオイルの香りと縒り合うように混ざり合い、やがて、境目を失った。





                          (おしまい)





      ××× エピローグ ××× 





  コンコン


沙 英「ただいまー。ヒロー、いるー? 起きてるー?」


  がちゃがちゃ


沙 英「(あれ、開かないなあ。寝てるのかな)」
ヒ ロ「あ、沙英? ちょ、ちょっと待ってね。よーいーしょーっ」


  ぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃ……


沙 英「うわ、すごい音」
ヒ ロ「沙英……おかえ……りっ!」


  ぎきぃ!!


ヒ ロ「ふー……。やっと開いたあ」
沙 英「ただいま……。ドア、どうしたの? 具合悪いの?」
ヒ ロ「わからないのよ……。
    帰ってきたら、なんだか立て付けが悪くなっちゃってて……。
    すごく開きにくいのー」


宮 子「……」
なずな「…………」
宮 子「………………(これは……正直にだまってよう)」
なずな「……………………(ですね……)」




                           → あとがき

 

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2012年1月 6日 (金)

■a white day~ミューズの座布団・その五 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第745回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき 
 





     × ☆     ☆     ☆




 公園を出る頃になると西の空はすっかり茜色に焼けて東の縁は深い藍
色に滲み、アパートに帰り着く頃にはきっともう真っ暗だろうなと、な
ずなは二つ先の電信柱の先を見上げて考えた。今夜は大きな月が見られ
る筈だったが、少し前から風に流されて来た雲が、空を広く覆いつつあ
った。
 あのあと宮子はたこ焼きを買って戻って来、二人でそれをお腹におさ
めてしばらく話をした。そのうちに宮子が「うーん、そろそろ次のお腹
が空く頃ですなー」と意味の分からないことを言い出したので、荷物を
まとめて公園をあとにした。今はそのアパートまでの帰途にあった。
「今度こそ、ヒロさんにチャーハンを作ってもらわなければ」
「材料、買ってきてるといいですね」
 拳に決意を固める宮子に並んで歩きながら、なずなは笑いかけた。荷
物はここへ来るときよりも少し増えて、ボンゴの手提げに、にがお絵に、
ふた舟分のたこ焼きの入ったビニールが、なずなの手には揺れていた。
「あ、あれ。沙英さんじゃない?」
「え? どれですか?」
「三つ向こうのところで、角曲がろうとしてるの。ほらやっぱり沙英さ
んだよ、おーい、沙ー英さーん」
 まだ相当距離のある先を指さして、宮子は大きく手を振った。街灯の
花もぽつぽつ咲き、辺りは薄闇に包まれつつある。その人影は、言われ
てみれば背格好こそ沙英に近いかも知れないけれど、シルエットさえぼ
んやり滲んで、なずなには男性か女性かも定かに捉えられない。遠ざか
っているのか、こちらに向かっているのかもよく分からない有様だった。
けれどその背中は宮子の声に反応してピタリと動きを止め、振り返る仕
草をしたように見えた。
「おー、宮子ー……と、なずな。へぇー、何だか珍しいツーショットだ
ねえ」
 馬鹿みたいな大荷物をがしゃがしゃ揺すって、それでも宮子は結構な
速度で走るからなずなはついて行くのがやっとで、息を弾ませながら追
いついた、その人影は本当に沙英だった。シャツにジャケットを羽織り、
相変わらずのパンツルックの……朝出会ったままの装いの沙英は、二人
を見て意外そうに声を上げたが、少し嬉しそうでもあった。背はやや低
いが男性に見間違えても何の不思議もない。あの距離で識別できる宮子
は、ただ目がいい以上の何かをやはり持っているのだと、思わざるを得
なかった。
「ってあんたたち、何その荷物……。二人で出掛けてたの?」
「え!? あ、えと、これは……」
「うん、公園で絵ー描いてきたー。なずな氏にお手伝いお願いしたんだ
ー」
 さすがにこの大荷物は目を引いたのだろう。鼻白む沙英に、なずなは
「今日のことはないしょ」と片目を瞑った宮子の横顔を思い出してしど
ろもどろになってしまい、横から宮子が割り込んだ。けれども沙英は
「ふーん?」と、ひと目ふた目、なずなを眇めて、宮子のこめかみ辺り
をコツンと小突いた。 
「痛ぁ」
「あんまり無茶すんじゃないよ。ゆのがまた、心配するでしょ」
「へへへ。へえーい」
 本当に、分かってるのかねえこの子は。沙英はぎゅっと腕を組んでた
め息をつくと、今度は切れ上がり気味の眦を少し温ませて、なずなを見
た。
「お疲れ。大変だったみたいだね。いいんだよ、なずなも。あんまり無
茶するようならガツンと言っちゃって」
「え、あの、そんなこと……! ……はい」
 小さくなってしまったなずなに沙英は、なずなには難しいかと苦笑し
つつ、でも危なくなったらちゃんと逃げなね、と物騒に締めくくった。
冗談のつもりかも知れないが、その諦めがかった微笑と言葉は、なずな
の胸にすとんと収まった。
「ん。なずな、そんなところにホクロあった?」
「え?」
 突然、身をかがめた沙英の小洒落た下縁眼鏡に顔を覗きこまれて、な
ずなは軽く仰け反った。ちょっとごめんねと言うが早いか、すばやく沙
英のゆび先が唇の端をそっと拭っていく。
「ソース……青海苔?」
 人差し指の腹を電柱の黄ばんだ灯りに透かすようにして、背の高い先
輩は呟いた。
 何という失態だろう。公園を出てからこっち、自分はずっと青海苔を
顔に張り付けたまま歩いてきてたらしかった。心当たりはある。宮子が
買ってきて、二人で食べたたこ焼きだ。なずなは言葉にならない悲鳴を
上げつつ、慌ててポケットを探った。
「大丈夫だよ、もうついてないから。暗くてよく分からないくらいだっ
たよ」
 やさしくなずなをなだめてから、
「そういえば」
と沙英はすくすくと鼻をきかせた。なずなが提げた白いビニール袋から
は、甘辛く香ばしい香りが、やわらかくよじれたこよりのように立ち上
っていた。


       ×     × 


 謎の呼び声に呼応するように姿をくらませ、ほどなくして宮子は戻っ
てきた。
「あれー? なずな氏、どこ行ったのー?」
 名を呼ばれ、なずなが池のほとりから振り返ってみると、両手の平に
何かを乗せた宮子がベンチの真後ろの雑木林を、肩でがさがさとかき分
けて出てくるところだった。大人しくベンチに座って待っていたら、ま
た不意打ちを食らって大やけどをするところだったと、なずなはまた違
う安堵の息をもらした。
「すみません、……どうして、そんなとこから……あ、たこ焼き」
「冷めちゃうから、近道した」
「公園の人に叱られちゃいますよ……」
 小走りにベンチに戻ると、宮子が両手に乗せているのがたこ焼きの舟
だとひと目で分かった。大粒の、宮子の髪色によく似たこがね色の玉が
ひと舟に八つずつ、ゆらゆらと湯気を霞に立ちのぼらせ、それと同じテ
ンポでカツオ節を躍らせている。宮子は植え込みの囲いをまたぎ、なず
なにひと舟差し出した。
「はい、なずな氏の分ねー」
 自分の、分。またしても突然のことでなずなはついつい、鼻先まで迫
った舟の舳先に寄り目になってしまう。ソースに青海苔、かつお節。ひ
と目で伝わる、ほかほか、ころころと甘辛く、空き腹にたえ難い強い香
気と熱と艶に、なずなの口の中はたちまち大洪水になった。
「ん、もしかして苦手だった?」
「い、いえ! ちょっと、びっくりして……いただきます」
「うむ、心して味わいたまえよー」
 なずながほとんど恭しいくらいに両手で舟を受け取ったので、宮子も
それにつられるようにふんぞり返って見せた。目が合って、微笑み合う
と、宮子は荷物を押し退けて二人が並んで座れるスペースをこしらえる
と、ベンチに飛び乗った。
「なんといっても、我々の労働の結晶、そして、世にも珍しい舶来の品
でもあるのだからねえ」
「舶来?」
 たこ焼きが、だろうか。
「いただきまーす。うん。焼いてる人がね、ガイジンさんだったんだー。
珍しいよね、初めて見たー」
 そこで、話で繋がった。外国訛の呼び声に、サンフラワーの女性。
「じゃあ、さんふらわあのお嬢さんって……」
「おいしー! 熱々ー! 外カリカリー! 中、ふわふわのとろとろー!」
 宮子さん、少しは人の話を聞いて下さい。幻の乃莉がなずなの中で呆
れて愚痴をこぼす。宮子はなずなの話などお構いなしに自分がとろけ落
ちそうになりながら、一心不乱に口の中でたこ焼きを転がしている。
 そうかと思えば、まだ最初の一つを口の中に入れたままだというのに
「……いらないの」
と、棒立ちのまま手をつけようとしないなずなの宝舟を、涎をためて狙
ってくるからたまらない。
「た、食べます」
 舟をかばうように身をよじり、なずなは宮子の隣に腰を下ろすと急い
で一つ、楊枝に突き刺して口の中に転がした。
 宮子の言った通り、外側は油で揚げたようにパリッと堅いパイ生地の
ような歯ごたえで、甘辛いソースにも負けない、何か強い香気を顔全体
が満たした。それをつきやぶると中からは、舌と歯の付け根を刺す熱さ
のタネがとろけ出て、「あふい!」という声とともに口から鼻から、自
然にたくさんの息が吹きこぼれる。それを見た宮子が面白そうに「やけ
どするよ」と笑うので、恥ずかしくなって慌てて口元を押さえた。
「あ、あふいれふ、れも、美味しいれふ……」
 ふいごのようになりながらもそのことを懸命に伝えようとするなずな
を見て宮子はにんまりと笑うと、自分も二つ目にとりかかった。
「本当はね、さっきお茶と一緒に買って帰ってくるはずだったんだけど。
焼きたてがいいって言ったら、五分待ってって言われてさ」
「ほうらったんれふね……あふくて、美味ひいれふ……」
 空になっていた胃袋に熱の塊が一つ落ち、なずなはゆっくりと、深く
息を吐いた。残ったお茶を一口含むと、早くも四つ目に取りかかろうと
いう構えの宮子に、そっと缶を差し出した。
「おお、かたじけない。ではお礼に、良い物をお見せしよう」
「え」
 それを軽くあおり、缶を返した宮子が不敵に楊枝を構えて見せるから、
なずなはまだ何か演し物があるのかと身構えずにはおられない。
「見ててね」
 そう言って、宮子がじっくりと間をためるので、なずなも思わず固唾
を飲んだ。やにわに、宮子の手から「えい」とねじりを加えた楊枝がた
こ焼きのうちの一つ打たれて、「ほい」とスナップの利いた手首の返し
で引き抜けば、
「はい、たこだけー」
と、楊枝の先には、ぶつ切りのたこの身だけが、百舌のはや贄の体で刺
さっている。なずなは目を丸くした。
「え? ど、どうやってるんですか?」
「指のひねりと、手首の返しが秘訣なのです」
「でも、たこがどこにあるのかって……」
「たこの気持ちになって、心の目で見るのです」
「はあ……」
 そんなコツを教わったところで、どちらか一つを身につけるだけでも
並大抵では叶わなそうだとなずなは思った。そもそも、両方が身につい
たとして、その「心の目」とやらは、人の視点なのだろうか、たこの視
点なのだろうか。たこ目線だとしたら、迫る楊枝を凝視することになっ
て考えるだに恐ろしい。青くなって震えるなずなの隣で、宮子は誇らし
げに剥き身のたこと、主を失った小麦玉を順番に口に運んだ。


       ×     × 


 そこまで話を聞いて、沙英はもう息が出来ないくらいに笑っている。
笑い事じゃないんですよ、となずなが小さくなって抗議するも聞き入れ
られず、宮子は宮子で何がおかしいのか分からない。
 沙英は、おなかいたい、おなかいたい、意味が分からないと繰り返し
て震えていたのを持ち直し、目尻にこしらえた大きな涙の珠を拭った。
「はーおかしい……あんたたち案外いいコンビかもねえ。でも、へーえ。
外人さんのたこ焼き屋かあ、そんなのいたんだ? 男の人? かっこよ
かった?」
「私も、お会いしてはないんですよ……」
 なずなは結局、最後まであの声の主には会わずじまいだったのだ。お
土産のたこ焼きも宮子が一人で買ってきた。二人の視線が同時に宮子を
向いたが、そんな話題が宮子に響くはずもなかった。
「え? どーだろー、うーん……あたしは、ジモッティーさんの方が渋
くて好みかなー」
 知らない名前に無言の沙英が「誰?」の視線でなずなを振り返っても、
なずなもまた無言で首を横に振るほかない。
「となると、今日のひだまり荘は一日お留守だったってことか。火の元
とか戸締まり、ちゃんとしてきたろうね?」
 夜の斜幕がまた一枚、静かに下りて、一段と濃さを増した夕闇の中を
三人歩く。その暗がりの中に、家々の窓明かりが、一つ、また一つと、
オレンジ色の四角い穴をうがっていく。人の気配も、外の世界には最早
まばらだ。一人暮らしを始めたばかりの頃は、ルスにする、家を空ける
という言葉が重たくて、出先で不安になることも多かったが今ではお手
の物だ。あ、はい、ちゃんと、と答えた語尾でなずながぷっと小さく吹
き出したから、沙英はまだまだ弛みが戻らない頬をにやつかせた。
「何よ、まだ面白い話あんの? 聞かせなさいよ」
 今日は一日中仕事で、ふざけた話に餓えているのだろうか。いつにな
く食い付きの良い沙英に、なずなも半ば吹き出しそうになりながら、そ
の眼鏡の瞳を逃れて宮子に視線を送り、宮子はそれに、何の気もない笑
いで応えた。
「はい、あの、おルスって言うとですね……」


       ×     × 


 宮子は少し得意げに、摘出したたことタネを別々に平らげ、それにつ
いてなずなはどうコメントしたものか途方に暮れた。
 焼いた小麦の玉をごくんと飲み下すと、宮子はニタリと笑ってなずな
を見た。
「お客さん、まだ信じられないご様子ですなあ」
「い、いえ、そういう……わけじゃ……」
「ではもう一度お目にかけよう! お覚悟ー!」
 今日の宮子先輩、どうしてちょっと時代劇がかりなのだろう? 大仰
に振りかぶった宮子の楊枝は、残った四つのたこ焼きのうち、左から二
番目に深々と命中した。
「む!」
 瞬間、宮子の表情が明らかに曇った。動きを止めて、そのまま深い呼
吸を二つ半。なずながどうしたらいいか分からなくなった頃、宮子は得
物を引き抜かないまま、悲しそうな顔をなずなに向けた。
「なずな殿」
「は、はい」
「悲しいお知らせがあります」
「え? は、はい」
「残念ですが、このたこ焼きは、おルスのようであります」
「お……おルス?」
「はい、おルスです」
 つまり、たこ焼きにたこが入っていない。そのことを宮子の家ではそ
う呼び倣わしていたのだそうで、しかし家訓には、おルスに遭っても決
して怒ってはならない、そっと悲しまなければならない、という教えま
であるのだという。だめだ、この一家にはどう逆立ちしても敵わない。
そう悟るのと同時に、なずなはこのことを早く誰かに、乃莉に、話した
いとも思った。
「はあ。おルス……」
 ひとしきり解説を受け、しゃぼんだまに閉じこめられたような顔にな
っているなずなを見て、何故か突然宮子の肩が怒気を帯びて膨らんだ。
「うたぐっておいでか!」
「え!? 違……」
 たこを突き損なっただけなのでは? と考えなかったわけではない。
が、その真偽は、なずなにとってもう取るに足らないことだった。
 しかし宮子はまたしても犬と喧嘩の様相で、自分の舟をぐっとなずな
に突き出してくる。食べて確かめてみろ、というのだ。その大層なケン
マクに、なずなはたじろいだ。訳も分からないまま、楊枝が刺さったた
こ焼きと、唇を真一文字に結んだ宮子の顔を、二度、三度と見比べる。
──ちがいます、先輩、ちがうんです。どうでもいいんです、そんなこ
と、私どうでもいいんです──。
 おずおずと、前髪がかりに宮子の顔色を伺いながら、左から二番目の
たこ焼き──次男坊であろうか──に宮子が刺した楊枝をそっとつまむ。
宮子が大仰にうなずくのを確認して、なずなはそれを、ゆっくりと口に
運んだ。
 なるほど、たこはどこにも見当たらなかった。
 さっきまで灼熱の玉のようだった熱は程良く失われていて、舌に乗せ
ても痛みはなかった。口の中でひと転がりさせてから、香ばしさの殻を
舌と歯で押しつぶすようにして破ると、中からとろりと温かな小麦粉の
タネがあふれ出す。その中を、なずなは舌全部と時には歯先を使って丁
寧に、こりこりとした弾力の感覚を探してさまよったが、ついにそれに
は出会うことはなかった。
 結果を告げる前から、宮子はすでに勝利の面持ちで鼻息が荒い。
「……。ない、です……」
「ほらねー!」
 何か、褒めた方が良いのかとも思ったが、いまいち上手い文句が思い
浮かばない。さすがですねというのも余計な気持ちが先に立ってしまい
かねず憚られた。なずなは無言で頷き、思うところもあって、両手でそ
っと自分の舟を差し出した──。
「あの、どうぞ……」
 今度は宮子が首を傾げる番だった。
「ほえ? くれるの?」「ひとつ戴いてしまったので、交換です」「あ
そっか、じゃあ遠慮なく」
 宮子が舟から一粒選んで持ち去るのを見届けてから、なずなも宮子の
選んだ隣の粒を、三つ目に選んで口に運ぶ。しかし宮子は、なずながも
ぐもぐと口を動かし始めてもそれを見つめたままで、一向に口に入れよ
うとしなかった。
 やがて、
「なずな殿」
「はい」
 口元を手で隠しながらだから、くぐもった返事になる。宮子はたこ焼
きを見つめたまま言った。
「たこ焼きに、たこって要ると思う?」
 『秘剣・つばめ返し』の次は、禅問答である。たこ焼きよりたこを除
きて、いざいざ、なんとする。たい焼きに鯛は入っていない。うぐいす
パンにもうぐいすはいない。具の問題なのか、外形上の話なのか。そん
な表向きの道理を通してみても、大渦のヌシの目線が今、その程度の高
さにあるとは思えなかった。彼女の見据える先は遥かに遠い。
「でも、たこ焼きなんですし……」
「それは、そうなんだけどねー」
 深い考えを避けたなずなの回答をあっさりかわして、宮子は目の前の
たこ焼きを口に放り込んだ。おルスだとすっごく寂しいのは事実なんで
すけどね、と、そのひと粒を今までになく時間をかけて味わい、ゴクン
と飲み下す。どうやら今回はおルスでは無かったようだった。
「おいしいです!」
「は、はい」
 おいしさには満面の笑顔だった。されど疑問は続いていた。
「でもさー、たこでなくたっていいと思うんだよね。鶏肉とかさー」
 確かに部位さえ選べば、淡泊さや弾力において、たこと鶏肉は似た位
置にあるかも知れない。
「変わりダネたこ焼きの屋台とかだったら、見たことありますけど……」
 禅問答かと思いきや、話は意外や、まともに料理の話だったらしい。
もしこの場にヒロがいたら闘志を燃やし、ゆのが話を広げて、今夜のひ
だまり荘は変わり種たこ焼き祭りになだれ込む話の運びだった。ただ、
本格派の乃莉がいるから、それを許すかどうかはわからない。なずなも
口の中の一粒を、きちんとたこの存在を確かめながら味わって、その存
在意義を改めて問うてみた。それにしたって、外国の人が焼いている方
がよっぽど意外性がありますよね、という思いつきは口には出さないで
おいた。
 そうだよねー、と宮子は、聞いているのかいないのか分からない言葉
で話を続けた。
「小麦粉でしょー、ソースでしょー? あとカツオ節と、青海苔。たこ
焼きって言う名前の割に、美味しいののメインはそっちの方だなーって
いつも思うんだよね。よっと」
 軽やかな声とともにまた楊枝が打ち込まれ、またも的確に摘出された
たこは、先ほどのルスを帳消しにするほど粒が大きい。その大きさに二
人して思わず歓声を上げてしまって笑い合い、宮子は紅白自然な色合い
のたこの身を、その収穫を祝うみたいに目の前でクルクルと回した。
「いいかーい、君も油断してると、他のものにとって替わられちゃうか
も知れないんだからねえ。日々怠らず精進したまえよー」
 低くした声と真剣な目で、脅かすように。たこに説法をする宮子がお
かしくて、なずなは声を抑えて笑ってしまった。宮子はそのほほえみを、
おっ、と短く意外そうに受け止めると、諦め気味に、柔らかく頬をゆる
めた。
「まあ君には、他にも道があるからいいんだろうけどね。いただきまー
す」
 その身の大きさに比例して大きく開いた口で、宮子はカニカマの時と
同じにぱくりとたこに食らいついた。もぐもぐ蠢くあごもしっかりして
いる。
「道……ですか?」
「うん。お刺身に、お寿司に。お酢の物とかさー」
「あ。そういうことですか」
 口の中のたこを頭で調理して、宮子の表情が恍惚にゆるむ。なずなも
記憶の中からたこの身の振り方をいくつかあたってみたけれど、他には
マリネくらいしか思いつかなかった。ヒロの引き出しからは何が出てく
るだろう。あれも、これもと、生き生きと弾む毛糸玉の声と笑顔が思い
浮かんだ。
「うん。たこさんは生でも十分美味しいですからなあー」
「お刺身……ですか?」
「海からガブっと」
「生きたまま!?」
 やはり話は料理に収まり切らない。なずなは色を失った。
 関門海峡の洋上にぽっかり現れた巨大な渦の中心で、学校指定の水着
とスイムキャップで身を固め、蟻地獄よろしく、シンクロナイズドスイ
ミングの要領で足だけ水面から出したかと思うとざんぶともぐり込んだ
宮子が海中で大だこと愉しげに踊るダンスは、自分のにがお絵のその先
の姿よりもよっぽど容易に想像出来た。それこそ、溌剌と鍋を振るヒロ
の姿に負けないくらいに。
「おいしーよ」
 上手く食べないと、吸盤が口の中に張り付いてすっごく痛いけどね、
というアドバイスにも、想像するのが恐ろしくて、なずなはそそそ、ソ
ウデスカ、としか返せなかった。


       ×     × 


                            (続く)

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2012年1月 4日 (水)

■a white day~ミューズの座布団・その四 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第743回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき 
 


     × ☆     ☆     ☆


 そこからの二時間あまりは、なずなにとって正に怒濤のような時間だ
った。
 公園に入るなり、宮子はところどころペンキの剥げ落ちた園内案内図
に駆け寄るや一頻り睨みつけたあと、中央広場と池、そして出入り口に
繋がる人通りの多そうな、けれど十分に広さもあって人の滞ることの無
さそうな唯一のポイントを指差すと
「ここだね!」
と宣言して一目散に走り去った。一度は背中を見失ったなずなが当の目
的地でどうにか追い付いた時には、彼女は既に肩と背中の荷物を下ろし
てイーゼルを組み立て終え、椅子を広げにかかっているところだった。
そして、何が始まるのか、息の弾むままに呆然と見守るだけだったなず
なを見つけると、
「じゃあじゃあなずな氏は、あ、荷物そこ置いといてー」
となずなから手提げを取り上げてしまって、
「で、あっち! 一回あっちまで行って、そっちの方へ、こーいう感じ
で歩いてきてね」
と、広場の方から池の方へ、道を指でなぞるように指し示したのだった。
「え? え? 歩く? 歩けばいいんですか?」
 思えばこのときことは既に始まっていたのだがなずなにはまだ何がな
にやら訳が分からず、うん、よろしくーと言われたままに油断丸出しで
歩いてくるとそこには、広げた椅子に腰を下ろし、その周りには準備万
端、持参した画具をざらりと広げてほとんど釣り人かアクセサリー売り
みたいな佇まいで、らっしゃえー、えー、らっしゃえー、と、早くも衆
目を集めながら妖しい呪文を小声で囁く宮子がいて、なずなは身震いが
するのを感じた。そして何のつもりなのだろうか、股の間には、件のボ
ンゴが試し打ちをして見せたときと同じ位置ですっぽりと収まっている。
 中でもひときわ目を引いたのはイーゼルの下の貼り紙で、らんぼうに
やぶりとったスケッチブックに一ページ、雑だが力強さのある字で大き
く「にがお絵 十五分 四百円」。値段のところはご丁寧に、一度「五
百円」と書いてから二重線で改めてあった。
 これは、声をかけて良いものか。あまりの怪しさに圧倒されて立ちす
くんだところを、
「ちょいと! そこ行くおじょうさんっ!」
「は、はいいっ!」
「にがお絵はいらんかねえ」
「にが……」
あちらから声をかけられ、動けなくなったのだった。
 否も応もない。
 次になずなが我に返ったときにはもう、向かい合った宮子の鉛筆がさ
らさらとよどみない音を立て始めていた。秋に身を装い道をゆく人々は、
まれに見る金髪美少女にがお絵描きの手元を覗き込んでは感嘆の息を漏
らし、それを聞いてようやくなずなも気付いたのだった。これは、サク
ラだと。
「はいおつかれさまー。出来ましたよー」
 きっかり十五分。見せ物にされて泣きたい気持ちのうえ、びびびびび
と無造作な音を立てて切り離されたスケッチブックの一ページが文句の
つけようのない出来映えだったから泣くに泣かれず、半分涙声で礼を告
げるや、
「はい、それじゃあなずな氏は、看板娘よろしくねー」
と、なずなは瞬きをする間ももらえずに、新しいお役目を頂戴した。
 そこからさらに、一時間あまり。
 なずなを描き終えたとき見物に立っていたカップルを最初の客として、
描き終えると次、そのまた次と、客足は数珠繋ぎに途絶えることがなく、
なずなはその間自分の似顔絵を首から下げるように手に持って立ち、興
味ありげな通行人に、いかがですかと繰り返すだけの仕事をこなした。
 はじめのなずなを除いて四組・六人を描き終えたとき、ぎんごーん、
ぎんごーんと、木立で隠すように建てられているポールに括り付けられ
たスピーカーから午後三時を告げる無粋な鐘の音が流れて、描いて欲し
そうにしていたもう一組のお客を残して、そんじゃあここいらで、と宮
子はあっさり店じまいを始めてしまった。
「それではなずな氏、参りましょうか」
「え? い、いいんですか?」
 えー、おしまいなの? と聞こえよがしなカップルに宮子は、ぼ、ぼ
ぼぼくたちはお腹が空いているんだなあ、とテレビで見た高名な貼り
絵画家の物まねで笑いをとって、あっさり追い返してしまった。
「あの、よ、良かったんでしょうか? お客さん……」
 がしゃん、と大きな音を立て、荷物を元来た通りに担ぎ直した宮子の
手にはボンゴの入った手提げも既にあって、なずなは何も言えないまま、
またも揚々と引き揚げんとするそのあとについていくしかなかった。
「うん。二千円もあったら、お昼には十分でしょー」
「えと、そうじゃなくて……」
 眩しく熱い、オレンジの濃くなり始めた光に影を伸ばして笑う宮子の
手には、百円と五十円玉ばかりで二千円、遠浅の、夕陽の海に沈んだ貝
殻のように、光の底で揺らいでいる。「カップルさんは、うらやましい
から二人で六百円でいいやー」と言った、宮子の理屈が未だによく分か
らない。

       ×     × 

「風が出てきたねえ」
 公園の中をまたどこかへ向けて歩きながら、高い並木の梢がざかざか
と音を立てるのを聞いて宮子が呟いた途端、その風は地表にまでさっと
降りてきて、レンガ模様の石畳のすき間を埋めていた砂を舞い上げて走
らせ、噴水池の表面を白く波立たせた。緊張から解放されて油断してい
たなずなは足を取られそうになり、髪とスカートを押さえて小さく悲鳴
を上げた。
「だいじょぶー?」
 たくさんの荷物を担ぎ、ちょっとした旅人風情の宮子はびくともしな
い。
 ちょっとここで待ってて、と宮子が荷物を下ろしたベンチは、さっき
の場所から五分は歩かない、噴水池のある中央広場の片隅の、昔は自動
販売機か何かが置かれていたであろういびつに奥まったスペースに隠れ
るように置かれていて、後ろはせまい芝地をはさんですぐのところまで
雑木林が迫っている。広場と、管理事務所のような建物のある敷地を結
ぶ比較的細めの小径の近くで、人通りはなかった。
 なずなは、また行き先も告げずにどこかへと歩き去った宮子を見送り、
自分も荷物の一つのように腰を下ろしてベンチに背中を預けると、魂が
抜けて、背骨がゆるんだ。最後にはただでさえなだらかすぎる肩がはず
れたようになって、舌の付け根あたりから、どろりと熱い息が漏れた。
 くたびれた。
 ベンチの上で、一旦溶けてから冷えてまた固まりかかったチーズのよ
うになっていると、頭の中から瞼に重石が降りてきた。ぐらり、と眠り
に落ちそうになったところを、指のすき間にかろうじて挟んでいたスケ
ッチブックの一枚のページが滑って抜ける感触の一瞬のくすぐったさが
やけに長く感じられ、どうにか意識を繋ぎ止めた。
 改めて眺める宮子が看板用にと描いたなずなのにがお絵は、辻にがお
絵屋の看板としては申し分のない出来映えだった。
 目鼻に、顔立ち、自分でも結うのがあんなに面倒な髪の編み込みまで、
彫刻が木塊の中から彫り当てられて生まれてくると言われるように、ま
るでスケッチブックのそのページにはじめから眠っていたなずなをただ
探り当てたような自然さでなぞり出していた。
 描かれた表情は、笑うでも、しょげるでもなかった。毎朝の洗面台の
鏡に映る、まつげの先にかすんだ寝起きの曖昧さをしていて、あのとき、
自分は本当にこんな顔をしていたのかな? と不思議に思った。地突然
似顔絵を描かれることになって、もっと戸惑い、抵抗し、呆然としてい
たのではなかったか。
 それに、と強く疑問に思うのは、宮子の瞳から紙の上に写されたこの
女の子は、はっきり、きっぱりと勢いのある線を与えられていたことだ。
鏡のこちらの自分より、よっぽどしっかりしていそうなのが羨ましいの
と同時に、情けなく、癇に障った。描きつけられた線はひたりと静止し
ているはずなのに、既に次の動線を、頬や髪や、細すぎる首筋からなだ
らかに滑る肩のラインの輪郭に持っているようで、動くために力強く止
まっている……それは、人の座布団に腰をおろした、このにがお絵の書
き手の居住まいのようでもある。
 自分の顔がこれほどの意志をもっていないことを、なずなは言葉では
なく知っている。毎朝毎朝向かい合う鏡の中の面差しは、自信なさげに
揺らぐ曖昧な輪郭線と、やわらかな中間色の陰影に薄ぼんやりと浮かび
上がるだけだった。
 ──そんな風に、宮子のにがお絵はなずなを少し不安にさせた。
 無造作に置かれた荷物の一画に例のボンゴが入った袋を見つけて、「
これを持ってついて来て」と言われた最初の言いつけを思い出し、なず
なはその手提げだけ自分の左脇に取り除けて、風に飛ばされないように
とにがお絵の重し代わりにして置いた。
 ところで、当の宮子はどこへ行ったのだろう……そう考えた矢先、宮
子が両手に、同じ銘柄の缶入りのお茶を持って弾むように戻ってきた。
「お待たせー。あったかいのと冷たいの、どっちがいい?」
「あ、ありがとうございます。宮子先輩は……」
「あたしは、どっちでも」
「じゃあ、えと……冷たいので」
 日が傾き、木立の陰が、もうどこにいても届く。手先は少しずつ冷え
てきていたが、今あたたかい物を体に入れるとそのまま眠ってしまいそ
うだった。
「はい、じゃあこれね」
 宮子はなずなと同じベンチに、荷物の山を挟んで飛び乗るように座る
と、勢いよく缶の封を切った。アルミのこすれる乾いた音が、木立の幹
と幹で跳ね返って土に吸い込まれていった。
 なずなもそのあとを追って封を切った。寄越された缶は見たことのな
いデザインで、知らないメーカーと商品の名前が印刷してある。がんば
っても遠慮がちにしか開かない口をちびりと当てると、いつも近場のド
ラッグストアで買っているペットボトルのお茶よりも強いいがらっぽさ
が舌を刺した。緑の匂いが濃い。けれど、それはそれで新鮮で、そうい
うおいしさなのだと思えた。
「ふー、生き返るー」
「おいしいです」
 不意に宮子が荷物の陰から「疲れた?」と顔を覗かせて尋ねかけてき
たから、なずなはお茶を喉に詰まらせそうになった。それもどうにか落
ち着かせ、ゆっくりと、口の中にあったお茶を舌になじませてから飲み
下した。
「えと、……はい」
「そっか。へへへ。あたしももう、右手ぐらぐらー」
 ごめんとも、ありがとうとも、だらしないとも言わず、宮子はただ嬉
しそうに笑い、幽霊のように垂れさせた右手をぶらぶらと揺すって見せ
た。自分のにがお絵をただ持って立っていただけのなずなでさえこうな
のだから、その間ほぼ休むことなく、鉛筆を走らせ、時には客と言葉を
交わして怒ったり笑ったりしていた宮子の疲れはその比ではないはずだ
った。
「でも、楽しかったあー。労働のあとの一杯は格別ですなあー」
 宮子は腰を下ろしたまま、胸を反らせて大きく伸び上がった。まるで
熱い湯に浸かった時と同じ調子で、気持ちの良さそうな長い息を吐いた
──。
 なずなは──一時間以上も立ち通しだったから、だろうか、忘れてい
た爪の痛みが鈍く、また足の甲から脛、膝へと、血管を遡ってくる感触
が不意に意識の下ではっきりとし始めて、靴の中でもじもじと、親指と
人差し指をこすり合わせてみた。血と肉のわだかまる感触で、腰とこめ
かみに鈍い重みを感じ、自然と慣れた角度へとうつむいた視界に、袋か
らはみ出したボンゴと、あのにがお絵が見え隠れする。ともすれば冷た
さを感じても不思議の無いようなそのにがお絵の瞳にはしかし、そんな
翳りはなく、何とも丹念に、長い時間の間にそこに映り込んだ光の粒が
……それがいつの物なのかはわからなかったけれど、描き込められてい
るのがそのとき見えた。宮子が自分の中に見出したその光に背中を後押
しされるように、なずはな「……わたし」と、ゆっくり口を開いた。
「ん?」
「わたし、びっくりしました。こんなことするって、思ってなかったか
ら……」
「あれ。言ってなかったっけ?」
「教えてもらってないです……。せ、先輩は、……あ、そうだ」
 渇いた喉に張り付いて一度つっかえかけた言葉を初めて飲むお茶でぐ
っと押し込んだ、そのときにふっと思い出すことがあって、なずなはス
カートのポケットから、小さくて、淡いピンクのがま口を取り出した。
 その中から一つ、百円玉をつまんで差し出す一連の所作を見て、今度
は宮子が目を丸くした。
「お茶のお金……どうしたんですか?」
「なずな氏。お金、持ってるじゃん」
 信じ難い物を見た、とでも言いたげだ。なずなの白魚のようなゆび先
と、それとはほんのりと温度の異なる白さの頬を、宮子は驚きをもって
交互に見比べた。
「え、はい。えと、……。あ」
 一切れのカニカマで空腹をやりすごそうとしたことが、あらぬ誤解を
生んだのだろう。最後に目と目の合う瞬間に思いの到った先をなずなが
口にするより早く、
「なあんだ。なずな氏もお金無いのかと思ってた。お代はいいよ、さっ
きのお金から出したんだから」
と宮子は、遠慮がちな距離で硬貨をしまおうとしないなずなをたしなめ
てお茶の残りをあおった。
 自分は何もしていませんから、とへりくだることも出来たけれど、そ
れも傲慢な気がした。ゆび先にかかる硬貨の軽さに堪えかねたこともあ
って、なずなは静かに百円をがま口もどした。
「それじゃあ、すみません。戴きます」
「可愛いガマだねー」
「ありがとうございます……」
 また、少し強めの風が吹いて、なずなのとなりで、にがお絵と、重し
代わりに置いたボンゴの手提げ袋がばたばたとなびいて音を立てた。つ
いでに宮子の腹が、蛙のようにグウと鳴く。
「まだかなー」
「ぼんご……使いませんでしたね」
 持って来て、と頼まれたボンゴだったが、にがお絵を描いている間ず
っと宮子の膝の間におさまったきりで、打たれることはとうとう無かっ
た。あれには何か別の意味があったのだろうかとも思ったが、宮子の返
事も
「そうだねー、要らなかったねー」
とそっけなく、使うつもりでいたアテが外れたのだとわかった。部屋で
の宮子の見事な演奏を思い出して、あのまろやかな類を見ない高音を、
空と木々の間に弾ませることの出来なかった、誰かを踊らせる機会を失
ったこの野生の打楽器のことをなずなは哀れに思った。ボンゴのため息
が聞こえるようだった。
「お客さんが来なかったら、なずな氏にそれ叩いて呼んでもらおうと思
ってたんだけど、要らなかったねー」
「そっ……!? そんなこと、考えてたんですかっ!!?」
「うん」
 恐るべき計画。一筆描きで描けそうな顔で目論見をケロリと知らされ
た瞬間、宮子の言葉どおりの風景がそのまま頭に思い浮かびそうになっ
たが、そこにリズミカルにボンゴを打つ自分の姿がどうしても当てはま
らなくて、景色に黒く穴が空いた。
「そんな……」
 何か言おうとして口を開いた途端、ただでも太くないなずなの胸に、
下から詰まる物があった。息がうまく吸えない。そのまましゃべり続け
れば、その固まりが涙腺から何かを押し出してしまいそうだったから、
一度ぐっと空気の塊を飲み込んで、鼻をすすった。
「なずな氏?」
 宮子からの呼びかけにも答えず、なずなはこっそり震える息を吐くと、
また一口お茶を飲み込んだ。
「わ、私、そんな……。宮子先輩みたいに、出来ません……」
 ボンゴで押さえたにがお絵の紙の端が、風にあおられてばたばたと小
さくはためく。自分以外の誰を描いたものでもないのに、自分の決定的
な欠片を見つけられない不安なにがお絵の人物は、ぽこぽこぽことボン
ゴを打つのだろうか。
 宮子は、いつものほえーと言う音を口からこぼして、うーんと唸った。
「別に、あたしみたい、とかじゃなくてもいいのに」
 部屋で見たままだった。宮子の描く渦は大き過ぎて、なずなの中には
それに見合う歯車が見当たらない。ヒロや沙英でさえも持ち合わせない
その巨大な歯車は、春の始業式に途方もないパフォーマンスで講堂を沸
かせたあのおかしな女教師だけが持っていて、どこまで行っても、誰も
噛み合わないのかも知れない。
「でーん」
 宮子は、何が「でーん」なのか、靴を脱いで裸の足をぶらぶらさせ始
める。足の爪は、手入れをしているわけでも無かろうに、せせらぎに洗
われた小砂利の丸さでつるりと自然の光を含んでいた。足の甲には無駄
な肉がなくて浅く骨が浮き、女性らしさこそ希薄だったが、野性味とい
う一風変わった美しさで満たされていた。
「そう、ですか……」
 その足で力強く踏み抜かれるペダルの力が伝わって、宮子の歯車が一
つ動く度、一体自分は何回転させられてしまうのだろう? 天地を失っ
たすさまじい遠心力の中で、ふっと立ち眩みのように意識が遠のくと、
真っ白なのか真っ暗なのかわからないくらい溢れた光の先に、一瞬だけ、
全く違う景色が見えた。風に揺らいだみかん色のカーテンの向こう、ぽ
つんと、秋の空の雲の座布団の上にイーゼルを構えて笑う宮子は、傍ら
のビニールプールにしっかり水も張り、ひとりそれでも笑っているのだ
った。
「ゆの先輩……!」
「ん? ゆのっち?」
 宮子の声で、なずなははっと我に返った。瞳に風景が戻ってくる。自
分は手にお茶の缶を持ち、公園のベンチに腰掛けていた。ほんのわずか
な時間、眠りに落ちたのかも知れない。影がまた少し色を濃くした気が
した。今日、一人で行方をくらませているゆののことが、自分で思うよ
りも心に引っかかっていたらしかった。一瞬の夢の世界で、雲上のなだ
らかな凹凸の上に彼女の影が落ちて、我知らず名前を呼んでしまった。
「どうかしたー?」
 宮子の声がする。
 宮子が雲の上に一人でいるのなら、あの人はどうなってしまうのだろ
う? 時刻は三時を回った。「なるべく早く帰るから」と言っていた乃
莉は、もしかしてもうアパートに帰っているだろうか。それとも自分の
ことは忘れ、日が落ちても戻らないかも知れない。慣れているはずだっ
た一人の休日。誰と、何を見に、何を買いに出掛けたのだろう? 一人
だけ違うにおいの部屋に住む自分には、見当も付かない──。
 寝言のように口にしてしまった先輩の名前のわけを、どうにもうまく
説明出来ずになずなが慌てていると、
「ゆのっちには、叱られちゃうんだよね」
と、宮子がまた、違う話を切り出した。
 やはり以前、今日と同じように宮子の手持ちが無くなった折に、ゆの
を連れて今日と同じことを試みた、という話だった。
「ま、前にもやったこと、あったんですか……」
「うん。そしたら終わってから『おまわりさんとかに見つかったら怒ら
れちゃうよ!』って、怒られちゃった。だから、ゆのっちにはなーいし
ょ」
 なるほど、公園の注意書きなど真面目に読んだことは無かったけれど、
許諾無き営業行為は禁止されていそうなものだ。二時間も派手にやって、
どこからもお咎めを受けずに済んだのは幸運だったのかも知れない。そ
う思うと尚のこと、この計画が恐ろしくなってきた。恐らくゆのも自分
と同様、予想外の展開に押し切られて、流れが去るまででそのことを言
い出せずにいたのだろう。
「ないしょですか……。あ、『せっかく』って、そういうことですか?」
「うん。そう」
 出がけに宮子の口走った、「今日はせっかくゆのがいない」という少
しおかしくて、少し不穏な言い方が、なずなの心にこうまでゆのの影を
ひっかけていた。
 なずなは、看板用にと宮子が描いてくれた自分のにがお絵を、もう一
度ぺらりと取り上げて眺めてみた。宮子には自分がこんな風に見えてい
ると思うと不思議ながらも合点がいき、乃莉が描けばまた違い、ゆのが
描けばまた違う自分が浮かび上がるのだろうと考えた。どんな角度から、
どんな思いで。ただ単純に、普段右に座ることが多いのか、それとも左
か、そんなことでもきっと変わってくる。それを思うと、秋色のスカー
トの裾からはみ出したひざ小僧に、むずむずとした衝動が芽生えた。
「ゆの先輩……今頃、どこでなにをしてるんでしょうか」
「さあねえ」
「気に、ならないんですか?」
「うん、あんまり。怪我したりしてなきゃいいな、とは思うけど」
「そう……なんですか」
「夜には帰ってくるでしょ。ひだまり荘に。聞いたらきっと、教えてく
れるし」
「でも……」
 自身の歯切れが悪いのはいつものことだけれど、ぶつぶつと、言葉と
気持ちは伸びたうどんをすするみたいにいつまでたって終わりを見せな
い。十五分と言い切った時間で、出会ってからの半年というなずなの時
間をずばりと選んで束ねた宮子の業には申し分がなかった。美術科には
こういう訓練があって、誰もがこれをやれるのだろうか。ヒロにも沙英
にも乃莉にも、ゆのにも? 出会ったばかりの頃乃莉が言っていた、「
皆そのためにここに来る」のだという言葉が、今、なずなの中に深い反
響を伴って、宮子とゆの、昨日の教室に何があったのか、何故宮子は今
日ここにいて、ゆのがいるのがここではないのか、その反響と疑問はや
がて、初めからにおいを持たない自分にはその畔で佇むことしか出来な
い目の前の大きくて早い渦に飲み込まれていく。その回転に目奪われる
と、どんどん、どんどん、目眩がひどくなって天地を失い、体の外側の
ことがわからなくなっていくような気がした。頼れるものは、体の中に
あるものだけだった。
「でも、ゆの先輩……何か悩んでらしたんですよね……」
「うーん。そだねえ」
「私、私は……そういうのよく分からないし、ヒロさんたちも忙しそう
だし、乃莉ちゃんは、まだ多分……あの、だから……」
 訥々と、自分のどこかから湧いてあふれ出す澄み切った液体は、さら
さらと自分でもとらえどころが分からず、その向こうに見える景色をゆ
らゆらと歪めてしまう。源流が分からないから、いつものように石で蓋
をすることも出来ない。
「宮子先輩は」
 にがお絵をまた、ボンゴの手提げの下に滑り込ませる。居住まいを正
して座り直すと、体が自然と、少しだけ宮子の方を向いた。宮子は大き
な目をぱっちりと見開いて、不思議な物を見る目でなずなの話を聞いて
いる。
「ひ、ひとりで色んなことが出来るから、その、そういうの……そうい
う……」
 気持、ち……とまた、心が逸って一つの言葉を一息で言えなくなって
きたそのとき、どこからか、奇妙な呼び声が空を渡って響いてきた。


  ──SunFlowerノ オ嬢サん、どコでスカー!?


 大人の男の声だった。
 なずなも宮子も、めいめい声のしたと思った方へ顔を上げたが、その
方向はちぐはぐだった。その声は夕暮れの町を巡るチリガミ交換の呼び
声のように、ぜんたい何処から聞こえてくるのか分からない、反響の迷
路の中にあった。前方の、池の向こうで呼んでいるようにも、背後の雑
木林の奥からのようにも聞こえる。
 外国の人間なのだろうか、ところどころで舌が口の中で持て余し気味
になっている。肺の底からまっすぐに上がって抜けていく太みのある声
で、出所こそ分からないがよく透り、なめらかで、独特の丸い甘みがあ
った。それよりも問題は、言葉の中身の方だった。


  ──オ嬢サん、SunFlowerノ、オ嬢サーん……


「……さんふらわあ……。何なんでしょう?」
 サンフラワー。ひまわり。公園の中に花売りでもいるのだろうか。呼
び声の不可思議さに心がすっと落ち着きを取り戻し、なずなは移動式ス
タンド売りの花屋を思い浮かべながら宮子に視線を戻した。そのとき、
当の宮子が反応した。
「焼けたー!!」
と、耳をぴくりと跳ねさせたかと思うと、ベンチをひっくり返しかねな
い勢いで飛び出すように立ち上がり、
「ちょっと行ってくる!」
と、なずなに声もかけさせず、走っていってしまった。方角はさっきお
茶を買って戻ってきた方だったように思う。池の畔から花壇のある角を
曲がり、その姿は雑木林に隠れてすぐに見えなくなった。
「え? み、宮……」
 言いそびれた言葉の続きを、上げかけた手と一緒にだらりと無かった
ことにして、なずなはため息をついた。
 ひとりに戻ってみると、暮れかけた秋の陽は思いの外冷たく、肌の下
に一枚、水の膜が張っているように感じる。忘れかけていた空腹も、寒
さに一役買っていた。やはり温かい方にすれば良かったと宮子が残して
いった空の缶を横目に眺め、ゆび先の軋む手のひらをこすり合わせて開
いてみると、いつもよりも小さく縮んで、白く見えた。
「ふう。よいしょ……」
 じっと座って待っていても、今度宮子がいつ戻ってくるか分からない。
これだけの荷物を盗もうという者もいないだろう。なずなはベンチを立
った。
 改めて眺め渡す、ぐるりと外周が四百メートルほどの大きな池の周り
には、犬を連れた大学生らしき男や、お年寄りの夫婦や、二、三人の子
供や、カメラを持った自分と同い年くらいの女の子らがいて、それぞれ
に長くなり始めた影を気にしていた。
 なんとはなしに池の畔を目指して歩いてみると、薄いクツの底越しに、
ごろんとした痛みとくすぐったさを覚えた。足を上げてみるとそこには
親指の先ほどの小石があって、なずなはそれを拾い上げ、軽いケンケン
で爪先を整えるとまた歩き出した。朝から切りそびれたままの爪と肉と
のわだかまりは消えなかったが、随分と歩いてなじんできたのか、もう
あまり気にならない。
 池の淵までたどり着くと、池は空色から紫へ、濃さを増した空を映し
て大きな鏡のようだ。手の中の小石が何か生意気なことを言ったような
気がして、なずなはころころとそれをたなごころの上でもてあそんだ後、
控えめな投球フォームを取った。
「えいっ」
 けれど、やっぱりやめた。またさっきと同じように、手にした石の分
重みの増した手のひらをたらんと垂らすとしゃがみこみ、石はそのまま
池のはたの植え込みにころんと転がした。
 それに合わせるように、水面から一匹小さな鯉が跳ねてとび、その鱗
に夕日にもならない光を受けて、一瞬だけオレンジ色の光の塊みたいに
なった。魚の形をした光の塊は、とぷん、と独特のやさしい深みのある
音をたてて水の中へ帰って行った。
 なずなは、なんとなくホッとした心持ちでその鯉の落とした波紋の広
がっていくのを見送った。波紋は歪みもよどみも無い真円で、多分、無
粋な石塊を投げ込んだのではこうはいかない、あるべきかたちと速度を
たもってゆるゆると池全体を覆っていく。
 聞こえなくなった呼び声の主と、彼の探していたひまわりの女性が何
者なのかは分からなかったけれど、二人の存在に密かにちいさく感謝を
して、なずなはため息とは違う、短くてあたたかな息を一つもらした。




     × ☆     ☆     ☆




                            (続く)

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2012年1月 3日 (火)

■a white day~ミューズの座布団・その三 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第742回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき 
 


 
     × ☆     ☆     ☆
 
 
 
 
 大急ぎで部屋を飛び出したにも関わらず、宮子の姿は部屋の外にも既
になかった。すぐ隣、彼女の部屋のドアが開き放しになっていて、そこ
から何やらゴソゴソと物を動かすこもった音が聞こえてくる。
 おじゃましますの挨拶もそこそこになずながサンダルを脱ぎ捨てて上
がりこむと、どの部屋にも備え付けになっている小さな収納スペースに
頭をつっこみ、突き出したお尻をるんるんと振っている宮子の姿があっ
た。
「ちょっと待っててねー」
 何をしているんですかとお尻に尋ねそうになり、なずなは一旦出かけ
た言葉を、口を噤んで鼻からのため息に変えた。嘆息のおつりで体に流
れ込んできた部屋の空気にはさまざまに色を感じさせる匂いがついてい
て、まぶたを閉じるとその裏にすべての匂いが渾然となって一枚の絵を
描くような気になる。中には決して快いばかりではない、上あごをヤス
リで擦られる様に錯覚させる鋭いものも混じっていたが、それもまた寿
司に乗るわさびと同じで、こころの釣り合いをとるための欠かすべから
ざるピースの一つなのだろうと自然に理解することが出来た。
 そんなの当たり前じゃないですか、と──さっき自室で、部屋の匂いが
ここだけ違うと断じられたとき、なずなは言いたかった。分かりきった
話だ。
 なずなの部屋には、他の五室には必ずあるものがない、それは画材だ
った。多種彩々、時には不要な物まで、ゆのが、ヒロが、沙英が、乃莉
が、画材屋やホームセンターで愉しげに買い込むなずなにはてんで謎の
物品の群れは、木、粘土、油、生き物の毛に紙、どれも皆独特の匂いを
持っていて、なずなにとっては一つのジャングルにも等しい。さらにそ
れらが持ち寄られ、混ぜ合わされ、ちょっとお醤油貸してと言う代わり
に取り交わされている当たり前の日常が、なずなの部屋にはないのだか
ら。もしかするとそれがない部屋というのはひだまり荘始まって以来か
も知れない。それを……今更敢えて、突きつけなくても良いではないか
と、強く反駁したかった。その時結んだ拳の力が、まだかすかに手の甲
に残っている。なずなはその手のひらと、待ッテテネー、アソーレ待ッ
テテネーと、能天気に歌う宮子のお尻をかわるがわる見つめ、もう一度
小さく拳に結んで、そのまま、胸にぐっと押し当てた。

 そうして手持ちぶさたになってようやく、なずなの目にも、部屋の様
子が落ち着いて映り始めた。
 部屋の中央を広場のように大きく使って置かれたイーゼルと、そこに
鎮座ましますカンバス。そういえば、さっきなずなの部屋で宮子は、今
描いている絵を「なかなかいい」と言っていた。あのイーゼルとカンバ
スが、今この部屋の王様なのだとひと目でわかった。
 そしてまた、床に無秩序に散らかされたように見えるたくさんの画具
が、カンバスを中心として幾重かの同心円かあるいは歪んだ渦を描いて
いることにすぐに気付く。その航跡はまるで宮子自身がイーゼルの上の
絵に辿り着くための道のりと、たくさん時間を象徴した波紋のようで、
この部屋を天井から写真に撮れば、それだけで何か一つの作品になるよ
うな気もした。美術畑の同居人たちの影響か、最近すぐにそんなことを
考えてしまう自分を、なずなは少し恥ずかしく思っている。
「本当に、朝からずっと部屋にいたんですね……」
 なずなの口から、ぽつりと本音がまろび出た。
 朝からあまりに静かだった隣室にはてっきり誰もいないものだと思い
こみ、本人の口からずっと部屋にいたと聞かされても、なずなはまだ半
信半疑でいた。けれども、この、まだどこか新鮮さ……折り取ったばか
りの生木にも似た湿りを感じさせる匂いと、足下に巨大な渦を巻いた思
いの遺構が、静謐で濃密な宮子と絵との語らいの時間を物語っていて、
あのあり得ない静けさを疑う余地はもうなかった。
「えー? あー、うん。ごめん、ちょっと待っててね」
「絵……見てても、その……い、いいですか?」
「うん! どーぞー。えへへ」
 嬉しそうな宮子の声を背に受けて、なずなはその大切な渦を壊さぬよ
う、乱さぬように、そしてうっかり飲み込まれないようにと、孤に沿っ
た大回りでカンバスに歩み寄った。そして王様然と部屋の中央に鎮座在
す絵の尊顔を、やや斜め横から覗き込むように伺った。
 静寂。
 それまでごそごそと部屋の空気をくすぐっていた、宮子が収納を掘り
進む音の止む時間が少しだけあった。
「どーかな? うへへ」
 沈黙を破った宮子の声は、こもりながらも誇らしげだった。彼女の唇
の端が、緩くほころんでいるのが声だけでわかる。感想を求められて、
なずなは慌ててカンバスの正面まで回り込んでから、もう一度きちんと
絵を見つめてみた。
 カンバスにはまだ白い空き地が結構な面積広がっていて、黒く曖昧な
輪郭線だけの箇所も半分くらい残っていて、描きかけであることは分か
る。その状態にあって、それ以上の感想を持つことは、なずなには出来
なかった。
「ええと、あの、その」
「あはははは」
 宮子は、なずなが心に汗をかくのをお尻のセンサーで感じ取って高ら
かに笑うと、無理しなくていいよーといままでと違うリズムと軌道でお
尻を揺らした。
「あ、これかな?」
 ほどなくして、収納からじりじりとバックで這い出た宮子の手には、
B4サイズほどの小さな手提げがあった。稲穂色の髪をうっすらと埃で
染めたまま、宮子はその袋の口を広げて中を確かめ、うん、と一度力強
く頷いて顔を上げた。探し物が見つかったのだろう。
「ゆのっちもさ、『よくわかんない』って言うんだよね。ヒロさんも、
沙英さんも」
 絵のことを言っているのだと気が付いたのは、なずなを見る彼女の目
と頬に、普段よりも強い力が宿っているような気がしたからだった。手
提げに気を取られて、なずなには始め、なんの話か分からなかった。
「ああ……。ゆの先輩でも……ですか?」
「うん。吉野屋先生くらいだよ、良いって言ってくれるの」
 困ったもんだよねー。なんでかなー。まあでも仕方ないよね、とその
話題をぷつんと簡単に諦めると、宮子は床に散らかった画材やらなんや
らを、ほいほいと飛び越えたり、拾い集めたりしながらなずなの隣まで
やってきた。そして描きかけのカンバスを、一度子どもに高い高いをす
るみたいに取り上げて満足そうに微笑むと、
「君は、お留守番ね」
と手近な壁に立てかけてしまい、慣れた手際でイーゼルを畳むと鼻歌混
じりに小脇に抱えた。
「そういうものですか……」
 そういえば、自分はここへ何をしにきたのだったか。なずながそう思
い始めた頃、宮子は拾い集めた画材をナップザックにざらざらと詰め込
んで、畳んだイーゼルと、その前に置いてあった小さなパイプイスも畳
んでくくりつけると、
「じゃあなずな氏は、これ持ってついて来てね」
と、先ほどの手提げ袋を、なずなに向けて突き出したのだった。


       ×     × 


「こんが……」
 そんないきさつを経て、今、なずなの手にはその楽器の収まった手提
げが下がっている。立ち止まって袋の口を広げ、浅く日焼けした革の打
面に呟きかけてしまう。
 なずなは戸惑っていた。
 宮子は「ご飯を食べに行こう」と言った。この身支度が必要な食事と
は、果たしてどんな場なのだろう? 皆目見当がつかないものの、ある
意味で畏まった席であるような気もしてくる。「路銀が尽きた」と言っ
た宮子は論外、自身の懐具合も怖くなって、なずなはぶんぶん重い手提
げ袋に引きずられるようにして、小走りに宮子に並んだ。
「あ、あの、宮子せんぱ……」
「ぼんごだよー」
「え?」
「それ。コンガじゃなくて、ボンゴなんだって。コンガはもっと大きい
んだってさ。それもお土産物で、本物じゃないんだけどね」
「ぼんご……」
 なずなの呟きを拾った宮子の回答はまたしても頓珍漢だったが、なず
なはいま一度手提げの中を覗いて、頭の中でぼんご、ぼんごと、次は間
違えないように繰り返し唱えた。
 お兄ちゃんが、外国で買って作ってくれたんだーと始まった宮子の話
は、いわく『外国』がどこなのか、買ってきたのか、それとも買ってき
た材料から拵えてくれたのか表面が曖昧だったが、彼女の兄がいかに嬉
々としてそれを妹に贈り、またその打ち方を伝授したかを、シルエット
の軌跡とともに伝える豊かさがあった。
「お上手でしたよね、宮子先輩」
「えへへ、そう? ありがとー」
 部屋でボンゴを捜し当てたあと、宮子はなずなに、試し打ちをして聞
かせてくれた。
 ちょっと見ててね、とベランダに出、宮子は自分の頭より先にボンゴ
の埃をはたいて清めると、木筒二つを繋げた形のその楽器を、両足の真
ん中に抱き込むようにしてあぐらをかいた。
 演奏は、やにわに始まった。
 ほんの少し前までは絵筆を握っていた筈の、まだ色とりどりに汚れた
ままだった宮子のゆび先は乾いた木の葉が蝶に化けたように強く反り返
ってひらひらと踊り、そこから繰り出される音符はあの単純なつくりの
楽器を奏でていることが信じられないくらいさまざまで、数多の鳥が羽
を休める熱帯の木々の魂がそこに込められている様を思わせる。
 音色も、なずなが思い描いていたのよりも、カンカン・コンコンとず
っと高く鋭く澄んでいて
、それなのにその音の表面には一つも角張った
ところがない。丁寧に面取りのされたまろやかな曲線が、耳の奥で波を
打つようだった。もっと鈍さのまさる音がするものだとばかり思ってい
たなずなは素直に驚いた。
 演奏は短いもので、宮子がどんなメロディを思い浮かべてそのリズム
を刻んでいるのかまでは分からなかった。
「宮子先輩は本当に……何でも、出来ちゃいますね」
「そんなことないよ。お父さんとお兄ちゃんに教えられて、結構練習し
ましたからなあ」
「お兄さん……。そういえば、さっきの歌も……」
「あれは、お父さん」
 出がけに宮子が口ずさんだ、あの歌のことだった。ともすれば惨めな
境遇をあっけらかんと歌う様がアンバランスで記憶に残る。うっかり乃
莉と一緒の時に、風呂で口ずさんでしまったりしないようにしなければ
と今から余計な心配をした。
「やさしいお父さんとお兄さんなんですね」
「そーでもないよー? 結構スパルタでさあ」
 意外な言葉が飛び出して、なずなは足が半歩遅れた。そうなんですか?
となずなは言葉以上に恐ろしいものを想像し、宮子はじわりと西に傾い
た日に向けて下唇を尖らせた。
「変なところで厳しいんだよね。二言目には、ひとりでもやっていける
ようにってさ」
「ひとりでも……」
 宮子の家庭に関しては、色々と不可思議なエピソードも聞いていた。
風呂に困らぬようにと、一人暮らしのお供にビニールプールを持たせた
両親の話はもはや現役にして伝説だ。やんちゃアパートの逸話の一つと
して先々と語り継がれるに違いなく、テントウムシに好かれる娘の引っ
越しを、本人不在で勝手にやってしまう程度の両親では、話の飛躍とい
う面において太刀打ち出来ない。逆に、娘の留守に荷物をすべて運び出
してしまうくらいでなければ到底かなわないだろう。そうして出来上が
るガランとした部屋、誰ひとりいなくなってしまったアパート。その中
で自分は、耳を刺す静けさにかまけることもなく、ただ一人自分の、自
分だけの信じる思いの渦の中心に向かって、全速力でゆび先を走らせる
ことが出来るだろうか。そしてたとえ筆を奪われても、いきいきとコン
ガを打つこともをやめずにおられるだろうか。ひとり。ひとりで。
「あの」
「うん?」
 遅れが半歩から一歩になり、二歩になった。宮子は、なずなとの距離
に気付きながらも、まだ足を緩めたりはしない。少し離れた後ろから見
上げるパーカーの肩はまた秋の空に触れ、境目を失おうとしていた。
「ゆの先輩は……今日はひとりの日だって、言ってましたけど……」
「へ? 何それ。ゆのっちが? 会ったの?」
「え!? だ、だってさっき、宮子先輩が、そう……」
「ああ、そういうこと。うん。多分だけどね」
 確かに、ヒロの部屋の前で。宮子がそう言ったのをなずなは聞いたは
ずだった。さすがに宮子も驚いたのか足を止めてなずなを見たが、その
目はいつも通り、つるんとした光が透けて嘘がない。ただ自分で言った
ことを忘れていただけだと分かってなずなはほっとした。
「それ……何なんでしょうか……?」
「あたしが勝手に、そう言ってるだけだけどね。よいしょっと」
 宮子は一度軽く沈ませた膝を跳ね上げて、ずれ落ちかかっていたトー
トとナップザックの位置を背負い直した。
「ゆの、たまに一人でどっか行っちゃうんだ。スケッチブックとか持っ
て」
「絵を……?」
「うん。なーんにも描けずに帰って来ちゃうことの方が多いけど。あは
は」
 なずなが小走りになってようやく並びかけることの出来た横顔は、カ
ラカラと笑っていた。一体、何が可笑しいのだろう? 歩く早さを急に
変えたせいで手提げの振幅が不規則にずれて、コンガの角がゴツンと一
度、脛を打った。その拍子に、切りそびれたままの右足の親指の爪がま
た肉に浅く食い込んでしっくと痛み、我知らず、小さく顔をしかめてし
まう。
「先に教えてくれることもあるし、黙って行っちゃうときもあるし。何
がスイッチなんだろねー」
 宮子は首を傾げたが、なずなには、ゆののその振れ幅が分かるような
気がした。振幅に差こそあれ、きっとそれが普通なのだ。宮子ほど、始
終高いレベルでハイな感情を保つのにも体力が要りそうだと思うが、ゆ
ののように頻繁に、高空と低空を繰り返し飛行していたのでも、具合を
悪くしてしまいそうだ。かといって自分のように、いつも雨の前のつば
めみたいな高さを飛んでいるのも、人を不安にさせやしまいかと、びく
びくしている。
「そういえば、昨日の晩ご飯も……」
「夜中になんか食べてたみたいだよ。あのあと、遊びに行ったら慌てて
た。あはははは」
 昨晩は、明日が打ち合わせで時間がないという沙英と、それに付き添
ったヒロを除いた下級生の四人で集まって夕食をとろうという話になっ
ていたのだが、気分が優れず食欲もないというゆのの申し出から中止に
なった。だったら食後のお茶だけでも、と三人だけで集まり、ゆのさん
どうしたんですかねー? と尋ねるともなく言う乃莉と、んー? んー。
と曖昧な返事を返すきりの宮子の会話を、なずなはやはり外野から、お
茶をちびちび舐めながら伺っていた。
 宮子が言っているのはそのあとのことで、ゆのは深夜になって体調が
戻り、お菓子かおにぎりか、ぱくついていたところに宮子の襲撃を受け
たのだろう。その様子を想像して、なずなは笑ってしまった。
「だから多分、今日はこうなるかなーって」
「え?」
「結構、ダメージ受けてたからねー。学校でさ。あったのですよー」
 宮子の言葉は断片的すぎて、学科も違うなずなには推し量ることも難
しかった。川面の飛び石を渡るように、そのしなやかなふくらはぎ同様
ひゅんひゅんと跳躍する思惟は「突」「拍子」「もない」という言葉が
これ以上ないくらいに相応しく、きっと誰をも振り落とす。さっき部屋
で見た大渦も、その中心まで溺れずにたどり着ける人間はほんの一握り
で、ゆのはおろか、沙英やヒロでさえも道のり半ばで前後不覚に陥るだ
ろう。唯一、吉野屋だけが渡りきることが出来たのだ。
 なずなは大慌てで人差し指を下唇に添え、自分に届く最短距離で、上
目遣いに宮子の言葉のあとを追った。
「えと……お友達……とケンカとかですか?」
「ううん。絵」
 踏み石を一つ間違えたらしい。何か授業で、美術のことで落ち込まね
ばならないことがあったのだろう。宮子はゆののその様子を知っていて、
ゆのが今日にも一人で行方をくらますことを、これまでの経験との足し
算でなんとはなしに感じていたということだ。
 美術科の授業では、しばしば作品に順位付けをされて講評を受けると
いう話を、なずなは乃莉から聞いていた。
「これが結構堪えるんだよ。人前でさー。あたしはまだ、一番下の方に
されたことはないんだけど──」
 そう話す乃莉はおどけ半分でトントン肩を叩いて見せたが、それでも
実際参っている内心が滲んでいた。比較的図太い乃莉をしてこう言わし
めるのだから、あのひときわちいさなゆのをその刃が襲ったのだとした
ら、臓器の一つや二つ、傷ついていてもおかしくないとなずなは思った。
「じゃあ夕べは、部屋で何かお話……」
「んーん、別に。隠れて一人でお菓子食べてたから、太るよーって脅か
したら半分くれた!」
 にっかと笑ってブイサインを突き出す、魚釣りゲームの魚みたいな並
びの歯にはそのとき食べたお菓子の残りかすが挟まる隙間もない。カチ
ンと音の鳴るくらい、あまりに真白く光っている。
 その笑顔になずなは言葉を失ってしまった。空腹のせいだろうか。そ
れとも、わけも聞かされずに連れ回されているせいだろうか。じわじわ
と、足の肉に食い込む爪の、鈍くて重くて、疼々としたわだかまりが胃
の辺りまで無言で這い上がってきたような気がする。伸びた爪がお気に
入りのソックスを突き破ってしまわないかとハラハラしている自分と、
いっそそれを口実に、頭を下げてアパートまで逃げ帰ってしまおうかと
いう自分とが、心の中で、せめぎ合うでもなく、ただ道を譲り合ってい
る。
「あの……宮子先輩」
 おずおずと、果たしてそのどちらの自分が先に折れるのか分からない
まま、しっかり閉じることの出来ない自分の口から言葉が漏れるのを止
められない。これもいつものことだった。
 なにー、と宮子の調子は変わらない。いつもの宮子のままだ。
「の、のり……」
「え?」
「の、乃莉ちゃんは……宮子先輩の絵、なんて、言ってましたか?」
「乃莉すけさん? おー。そういえば」
 前を行く宮子は軽く空を仰ぎ、思い出すための間があった。乃莉すけ
さんにはまだ見てもらってませんなー、というあっさりとした答えに、
なずなのなで肩がまた一段下がった。
「あ、そう……ですか」
「また今度聞いてみるね。えっと、ここ右だっけ」
「え? 公園行くんですか? ……はい」
 道は、なずなが地元だ。行く先こそ分からなかったが、ここを右に折
れることを意識するなら目的地はそれしか思い当たらなかった。以前、
アパートの皆に手軽に遊びに行ける広場を尋ねられて教えたのがそこだ
ったのを、宮子も覚えていたのだろう。けれど、どうして。昼ごはんの
話はどこへ行ってしまったのか。
 お昼と、ボンゴと、公園。三つを結んで星座を作りなさいという出題
に、果たして、吉野屋だったらどう答えるだろうか。答えられるのだろ
うか。その疑問も晴れぬまま、
「はい、とうちゃーく」
と、最後まで揚々とした宮子の声に導かれ、なずなは緑地公園の、大樹
が象るアーチをくぐったのだった。
 

 
 
     × ☆     ☆     ☆
 

 
 
                            (続く)
 
 
 
 

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2012年1月 2日 (月)

■a white day~ミューズの座布団・その二 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第740回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき 
 




     × ☆     ☆     ☆




 それから三十分もしないのち、なずなは……何故か、宮子とともにア
パートを出、外を歩いていた。

「じゃあ、なずな氏はコレ持ってついて来てね」

 そう手渡されたB4サイズほどの小さな手提げは、小さいが結構な重
さがあった。それをぶらぶらさせながら、いつもすまないねえ、とおど
ける宮子の後ろをついて行く。
「いえ、あの……。私こそ……、すみま、せんでした……」
 すみませんでした、も一息で言えない。本当に、自分はいつまでも何
をやっているんだろう。本当に。
 前を行く宮子の肩にはなずなには名前も分からない画材のぎっしり詰
まった大型のトートがかかっていて、背中には、それからも溢れた道具
を収めたナップザックに、小型の折りたたみいすをビニールひもで無理
矢理に結わえ付けて背負い、遠足の朝の様に揺れている。
「持たざる者は持てる者からオコボレさずからなーくちゃー♪」
 なんだか惨めな歌声も揚々と、歩く宮子の足がどこを向いているのか
も知らされず、アパートを出てから見慣れた町並みをまだ五分と歩いて
はいなかったがなずなの心は不安で一杯だった。
「……。なんなんですか? その歌……」
「お父さんに教わった!」
「……そうですか」
 他に、もっと聞くべきことがあるだろうに。けれどそれは敢えて言わ
ないのかも知れない宮子の気遣いを台無しにする行為の様な気もして、
当たり障りのないことしか聞かれずにいる。俯いた視線の先に、宮子か
ら手渡された手提げの中身がちらりと覗く。

「(……こんが?)」

 宮子が自室の収納から発掘してきたその木製・革張りの小振りな打楽
器は、その見た目に反してぎゅっと重たかった。
 部屋で見たその楽器は、白樫材で出来た胴体がすとんとまっすぐな円
筒形で、年月を経て飴色に近い美しい光沢を有しており、筒の上面には、
ほのかに日焼けして黄味を帯びた白い、もしかするとかなり上等な革が
ぱりんと張られていた。その革の打面は指先で触れただけで肩の骨まで
まっすぐに押し返してくる緊張があって、宮子が少し試し打ちをして見
せてくれただけでも、そのリズムに鼓動を操られてついつい踊り出さず
にはおられないような、熱い響きを裡に秘めていたのだった。

 ヒロ宅前でのやりとりの後、なずなの目論みはあっけなく崩れ去った。
おなかを空かせた先輩をゴハンを餌に自分の部屋へおびき入れるまでは
簡単だったが、いざ部屋へ戻ってみると、冷蔵庫にはふた切れ残ったカ
ニカマの口の開いた袋があるきりで、なずなはキッチンの床に崩れ落ち
たのだった。
「な、な、な~♪ なずな氏の~♪ 今日のお昼はなんだろな~?」
と、背後から弾んできた宮子のでたらめな歌声に、全身がびくん! と
総毛立ったときの怖気が、産毛の先にまだ少し残っている。
「す、すみません、先輩……っ。う、うちにも食べ物が、こ、これしか
……っ」
「……あえ?」
 カニカマを、手持ちの中で一番よそいきの皿に盛って差し出したなず
なの声と手はふるえていた。
 とりあえずお茶を煎れ、カニカマは一人一本ずつ、手で摘んで食べた。
宮子は一口に、なずなはそのいんちきな繊維を縦に三つに裂いて食べ、
ほのかに香るカニの風味を鼻の奥で転がした。大口を開いた宮子が、歯
科の専属モデルにもなれる歯並びでカニカマに食らいつく姿に、なずな
は昔おもちゃ屋の店先で見た釣り堀が電動で回転する魚釣りゲームを重
ねた。
 カマボコを丸飲みにし終えた宮子がテーブルの湯呑みを取ろうとした
時、
「熱っ……あ。ひび」
と、ぴくんと手を跳ねさせて言うので見てみると、彼女が部屋から持参
した大きなお湯呑みの一面に、模様とは明らかに違う黒い亀裂が一筋、
上から下まで走っていた。
「あ、本当……」
「うーん。もう換えどきですかな」
「もったいないですね。かわいいのに……」
「そだねー。でも、お下がりだから。仕方ないね」
「そうなんですか」
 小さなテーブルを挟んであぐらに座った宮子は、湯呑みを上から下か
ら矯めつ眇めつ、別れを惜しみながらも淡々と、そのものにしみこんだ
時間を確かめているようだ。宮子の手に誂えたようになじんで見えた湯
呑みも、元はひとの物だった。
 空色のパーカーに、深い青のジーンズ。
 なずなはいつも思うのだがその居住まいは不可解で、留まるときにこ
そ勢いがあるように、預ける体重に加速度を感じさせる。そのくせ、動
き出すとき、地面を蹴るときはしなやかで後腐れもなく、誰の座布団で
も湯呑みでも、すっと腰を落ち着けてしまう佇まいはどこへ行ってもも
じもじと席を見つけられない自分とは大違いだった。うらやましい、の
と同時に、少し怖い。どこへでも行けるということは、ここであること
に強い理由が必要なことの裏返しだと思った。
 宮子の方からなずなに昼食をたかってこなかったのには、彼女がなず
なが料理を得意としていないのを知っていたのと、曲がりなりにも自分
の方が先輩だから、という理由があったのをなずなは知っていた。
 ゆのが言っていた、
「別にね、宮ちゃん、なずなちゃんの料理を食べたくないっていうわけ
じゃ、きっとないんだよ」
という、ころころとした優しい声と言葉がよみがえる。不得手な料理を
少しでもどうにかしようと、ゆのにコーチをお願いしたときのことだ。
モタモタと、じゃがいもの何処に刃を当てたものかと動きを止めるなず
なの隣りで、遙かに手際よく道具と材料を取り回しながら、ゆのは笑っ
た。
「なずなちゃんに苦手なことさせて、無理させるのが嫌なんだよ、きっ
と。だから焦らないで、ゆっくり上手になって。いつか『なずな氏~、
ごはん作ってー』って言わせちゃおうよ。ね」
 自分よりも背丈の小さな先輩のモノマネは決して似ていなかったし、
その解釈も、本心ではあったのだろうけれど、当のなずなには好意的に
過ぎるように思えた。けれど、それは自分のうしろ向きな性質と相殺さ
せて、長く宮子をそばで見てきたゆのの感覚を信じることに、なずなも
したのだった。
「あの……午前中、……どこか行ってらしたんですか?」
 なずなの、前髪に隠れながらの問いかけに、宮子は「部屋にいたよー?」
と、茶柱でも浮いているのか湯飲みから目を離さずに応えた。
「そう……なんですか? すっごく静かだったから……。てっきり、ゆ
の先輩と一緒にお出かけだと」
「ふーん? ずっと、絵描いてたからね」
 その返答には驚きもしたし、そういうものか、と思いもした。半年隣
の部屋で暮らしていて、こうまで静かだったことは記憶にない。宮子が
眠っているはずの時間においてさえそうだった。だったらこれまでこの
先輩は、一人の時間にはあまり絵を描いたりはしていなかったのだろう
か? という、うっかりすると失礼な疑問も浮かんでくる。
 宮子は湯呑みはをテーブルに戻し、ことわりもなくカーペットの上に
大の字になる。気持ち良さそうに鼻から抜けた深い息は、窓から吹く風
よりも勢いがあった。
「今描いてるのが、なかなかいい感じなんだよねー。へへへ」
「そうなんですか……」
 なずなは、三つに裂いたカニカマの最後の短冊を唇にくわえ、咀嚼し
ながら丁寧に口の奥へ奥へと運んでいく。居心地の悪さや緊張あるわけ
ではなかった。ただ、宮子の胃袋はなずながこれまで見てきた限り──
おかしな話だとは思うが、多分、この部屋よりも大きい。それだけの空
間にあの小さなカニカマがころりと転がっている様はいかにも侘びしく、
それをどうにかしなければという焦りが湯呑みの底に揺らいで見えた。
自分に考える猶予を与えるように、ちび、ちび、ちびと、アパートの中
でも一際ちいさな湯呑みのお茶を、なずなは時間をかけて啜った。
「なずな氏はさあ」 
「はい、えっ、はい」
 湯呑みと見つめ合っていたところへ声をかけられて思わず背筋が伸び
た。宮子は変わらず、床に転がったままの格好でなずなを見上げている。
「なずな氏の部屋は──」
 宮子は仰向けのままひくひくと何度か鼻を利かせると、
「なんだかちょっと、ふんわりイイ匂いがしますな」
「そ、そう……ですか?」
「うん。よ、っと」
と、筋肉の伸び縮みだけで体を起こす。その仕草ひとつで、彼女の体が
アパートの誰よりも強いしなやかさを持っていることが分かった。どこ
にも無理のない、すべての力が体の一点で綺麗に釣り合った滑らかな動
きだった。
「ここだけ、みんなの部屋とちがーう」
 座り直して目を閉じ、改めて深く息を吸い込んだ宮子の顔は満足げだ
った。肉体のしなやかさ、感覚の鋭敏さにおいて、このアパートで彼女
の右に出る物はいない。その宮子に断じられ、なずなの心臓がどきんと
跳ねた。
「そう……ですか」
「うん!」
 なずなは、また湯呑みを底を覗き込んだ。益体もない茶っ葉の粉がう
っすらと残っている。考えてはいけないことと分かっていても止められ
ない言葉が脳裏をかすめ、なずなは色素の薄い前髪の陰から、ちらりと
宮子を伺った。
 そんなの、当たり前じゃないですか──。
 そう言葉が口を突きかけたその拍子、なずなのちいさな胃袋がころこ
ろと鈴の音のような音で鳴いてしまった。空きっ腹に中途半端に物を入
れたのがまずかったのだろう。
 物言いたげににへりと笑う宮子に何か弁明をと慌てたが、その声は排
水溝が渦を吸い込むような宮子の腹の音にきれいにかき消されてしまっ
た。ずごーっ。
「なあんだ。なずな氏もお腹空いてたんだねー。へへへ」
「……はい」
「さっきのでもう、お腹一杯なのかと思っちゃったよー」
 なずなは観念してうつむき、宮子ははははと笑って表情をぱっと輝か
せると、またも勢いをつけずにするりと立ち上がった。膝丈のジーンズ
からのび出た脛には無駄な肉がなく、飾り気のない素足の爪も、伸び気
味ではあったが手入れの必要がないくらい丸い。
「それじゃあ、今日はせっかくゆのもいないことだし」
「……え?」
 頭上からこぼれた、少し不穏な一言に釣られて見上げると、宮子の顔
がもう目の前に迫っていた。宮子は、ちゃぶ台の湯呑みをつかみ上げて
残ったお茶をぐっとあおると、湯呑みのひびから染み出すお茶のしめり
をためらうこともせずに、その手をなずなに差し伸べた。
「ごはん、食べに行こっか」
「あ、はい……え?」
 その様があまりにさりげなくて、なずなは、うっかり疑いを感じるよ
り先に取ってしまったその手に、あっという間に引き起こされていた。
「それでは、ごはんの支度を始めましょー」
 ただでさえ背の高い宮子に目の前に立たれると、なずなの視界はその
胸と、ラフに開いた襟元からのぞく逞しくて艶やかに上下する鎖骨で塞
がれて、はい、としか返事のしようもなかった。
「では!」
 言うが早いか、踵を返した宮子の姿は部屋を飛び出てもう見えない。
開け放されたドアからは、部屋よりも温度の低い空気が流れ込んできて、
丈の浅い靴下からこぼれたなずなの、これまた頼りなく可愛らしいくる
ぶしを冷やした。予測不能。二人きりのアパート。さっき切ろうと思っ
てそのままになっている親指の爪が、こつりと肉に食い込む痛みを感じ
た。
 その感触に苛まれながらも急き立てられ、なずなは慌ててサンダルを
ひっかけると、走り去ってしまった宮子のあとを追った。



     × ☆     ☆     ☆



                            (続く)




 

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2012年1月 1日 (日)

■a white day~ミューズの座布団・その一 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第739回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき 
 

 その日曜の午後、気付いた時には、アパートにはもうなずなひとりに
なっていた。

 窓辺の床に一人素足を投げ出して、なずなは天井に向けて小さく息を
ついた。窓を抜けてくるあるやなしやの風に、山吹色とクリーム色の中
間をしたカーテンがふわりと持ち上がる気配が耳朶をくすぐる。そのカ
ーテンを透した光で満たされるから、晴れた日の部屋の中は淡い黄味を
帯びた白で、みかんの中にいるような気分になる。

 しずかだなあ……。

 なだらかに夏の熱気を失っていく、今年の秋口の空気は肌とほとんど
境目がなくて、うっかり眠ってしまおうものなら、吸い込んだ息と肩に
ふれる空気とに、内から外から、ほつれて溶けてしまいそうだった。
 乃莉は、美術科の友人たちと買い物に出かけてしまった。「なずなも
来ればいいじゃん」という誘いに甘えるのは普通に厚かましい気がした
し、ひだまり荘の面々と同じ同じ美術科の人間とはいえ、うまく話せる
とも思えなかったから遠慮した。乃莉の「なるたけ早く帰ってくるから
ね!」という言葉は素直に嬉しかったが、何か違うんじゃないかとも思
う。
 今日最初に会ったのは沙英だった。午前のまだ早い時間、半分寝間着
の自分とは対照的にきっちりと着飾って出かけるところだった二つ上の
先輩に、寝癖の髪を気にしながら挨拶をした。仕事の打ち合わせなんだ、
とただでさえ落ち着きのある声をいつもよりも低音に張り付かせて言わ
れ、より距離を感じた。「ちょっと遅くなるかも」という言葉は、その
場には自分しか居合わせなかったものの、誰に向けられたものだったろ
う。
 ヒロがどこへ行ったかは分からない。朝のうち、庭をうろつく姿をベ
ランダから見かけたがそれきりだった。今、時計は正午まで少し。この
時間になっても、階下から鼻歌や、調理器具が軽やかなリズムを刻むの
が聞こえてこないところを見ると、部屋にはいないようだった。そうい
えば、ドアの外で誰かと話す声を聞いた気がする。
 ──私もたまには何か探してこようかと思って。そうだ、ついでにお
夕飯の買い物もして来るけど、何が食べたい?──
 その口ぶりは本当に「お母さん」の様だ。ところで、何かを探す、と
は何のことだろう? 美術科の人間同士でしか受け取ることの出来ない
波長が、このアパートでは頻繁に発生する。いずれにせよ、ヒロは沙英
の予定は間違いなく自分などより先に把握していたろうから、たまの一
人の休日をどこかで満喫しているのかも知れない。少しだけ家事に疲れ
た、若妻のように。

 一人、かあ。

 なずながここへ来て半年が過ぎようとしている。なぐさめるように揺
れたカーテンも、今では少しくすんできた。家にいた頃はこんな休みは
ざらだった。もとより引っ込み思案で人と接することが上手くない。悪
目立ちもしないから敵を作ることもなく、むしろ誰からも優しくされる
ことが多かったが、人と過ごす時間は長くなかった。ことに、休みとな
ると一人で過ごしがちで、部屋で、本か、テレビか、音楽か……何か静
かなものと向かい合っていればそのうち誰かが家に戻ってくる。そうす
ると夕餉のにおいが漂って、日はいつも静かに暮れた。そんな何もない
時間が辛いときもあって、友達を誘おうとして、上手くいかないことに
もいい加減慣れていた。誘いを受けることはさいさいあったが、誘うの
はいつまで経っても上手に出来ない。
 この六か月あまり、この屋根の下に全くの一人だった時間がどれほど
あったろう。家族で住んでいたときの方が、一人でいる時間が長かった
んだ。ヘンナノ、と一人ほくそ笑んでみる。

 もうお昼かあ……。

 二年生の二人は、まだ影も形も見ていない。ただ、挙って姿が見えな
いということは、連れだってどこかへ出掛けているのだろうということ
くらいは、なずなにもそろそろ想像がついた。そもそも……アパート一
のノイズメーカーが住む隣の部屋から、一切の物音がしない。部屋にい
ないことは明白だった。
 さっき思ったことも忘れてそっと目を閉じてみると、本当に外気と自
分の境目が曖昧で、どこまでが自分の体なのかはっきりと感じ取れない。
まるで、自分がひだまり荘になってしまったみたいだった。
 もしも私がそうして空気に溶けてしまって、みんなが帰ってきたとき、
いなくなっていたらどう思うだろうなあ。ひょっとして、みんなが居な
いんじゃなくて、実はもう私の方がいないのかも。
 そんなことを考えていると、朝はそこそこ早かったから、お腹がすこ
しずつ減り始めた。

 ごはん、どうしよう。

 たまには一人で外で食べてみようかとも思うが、どうすればいいか分
からなかった。どこにどんなお店があるのかは、生家から離れていると
はいえ地元なので、全くわからないではない。しかし店があったとして、
高校生が一人で入れるお店なのかどうか、おいしいのかどうか。ちゃん
と、自分の食べたい物が注文出来るかどうか。乃莉のように人に尋ねた
り、なんならパソコンで調べてしまうということも出来ない。ヒロや沙
英はお手の物だろうし、宮子がそれしきのことに怯むとも、到底思えな
い。マグロを塊で買った魚屋の店先で「イートインで!」と言い放った
という逸話だって、はじめはうそかと思ったが、今では真実味の方が濃
いと思う。彼女に外食をするだけの持ち合わせがあるかどうかは別にし
て。ヒロをひだまり荘の台所にたとえるなら宮子は胃袋で、彼女がリク
エストするメニューは、不思議とその日の皆の気分にことごとく一致す
るという、特技というか、特性があった。ゆのは……自分と似たところ
はあるが、たかだかランチ選びでそうまで迷うこともないだろう。
 そこまで考え、胸の浅い部分から陰鬱な気分が浮かび上がって来そう
になったのを感じてなずなは体ごと頭を揺すった。今落ち込み始めると
面倒だし、せっかくの休みの残りがもったいない。そのままふらふらと
脚をゆすっていると、左足の親指のつめの外側が、少し伸びているよう
な気がしてきた。人差し指とすり合わせると親指の肉の柔らかい部分に
薄い爪がこりこりとわだかまるのを感じる。爪切りはどこに置いたっけ。
 これを切ったら、てきとうに何か作って食べてしまおう。そう決めて、
四つん這いに収納ボックスに近づこうとした──そのとき、だった。



     × ☆     ☆     ☆



 どんどんどん! どんどんどん!!
「ヒロさん! ヒーーローーさぁーーーーん!!」
 雷が落ちたのかと思った。
 下階の扉を激しく叩く音と聞き慣れた声に驚いて様子を見に飛び出し
てみれば、宮子が、後ろで一筋に縛った金髪を稲光のようにうねらせて、
一○二号室──ヒロの部屋の扉を打ち据えていた。その表情はまるで、
犬と喧嘩をするみたいに真剣だった。
「居るのは、わかっているんだぞー!!」
 中のヒロさんが眠っていたって、ここまでやったら起きますよ。どう
考えたっていないでしょう。乃莉の幻が隣に立ち、そんな風に呆れて見
せたから、様子を見に出てきたなずなも、その言葉に頷いてしまった。
「あ、なずな氏。おはよー」
 なずなの気配を敏感に察知して、宮子は冷静に挨拶を投げながらもド
アノブは固く握って離さない。なずなも、返す挨拶はいつも通りの短く
つっかえながらだったが、頭の中ははてなマークで一杯だった。この稲
穂色をした髪のナイスバディな先輩は、何をそんなに怒っているのだろ
う? そもそも、アパートに居なかったんじゃないの? それとも、気
配がなかっただけで実はずっといたのかな? でも何処に? まさか隣
の部屋にずっと?
「あの、宮子先輩……」
「聞いてよなずな氏、ヒロさんたらひどいんだよー。もう、嘘吐き!」
「う、嘘吐き?」
 ヒロが、だろうか。今にも扉を蹴りつけかねない宮子の勢いに、新し
い疑問がなずなの引き出しに収まる。確かに、ひだまり荘の面々で上手
に嘘を吐きおおせるのは、強いて言えばヒロと、あとは自分くらいのも
のだろうけれど。そんな不遜な思いに絡め捕られながら、ほとんど反射
的に尋ねていた。
「ヒロさんが……ですか?」
「そーだよー。今朝さ、お昼にチャーハン作ってくれるって約束したん
だよ? それなのに……籠城とは卑怯なりー!! 正々堂々、出てきて
米を炒めろー!」
 く、くだらない……。
 宮子の話は簡単だった。今朝方ヒロと出くわしたとき、昼食にチャー
ハンを食べさせてもらう約束をしたのだそうだ。正午丁度に部屋に来て
くれれば良いという言葉に喜び勇んで参じてみたところ、呼べど叫べど
チャーハン、もといヒロは現れず、いよいよ実力行使に及んだのだとい
う。そう頑丈でもないアパートのドアノブを力任せにひねって叫ぶ背中
に、なずなは、一体神様はどうしてこの人に美貌なんてものを授けたの
かと埒もなく、いつまでたっても好きになれない自分のなで肩を下着の
肩紐がずり落ちた気がして服の上から位置を確かめたが、特段ずれても
いなかった。
「あの……ヒロさん、その……」
「え?」
「えと、その……ヒロさん、いない……ん、じゃないですか? 沙英さ
んも、お出かけ……みたい、ですし」
 内心の確かさとは裏腹な、控えめな声しか出ないのはいつものことだ
った。けれど宮子の大きな瞳はそれもきちんと拾ってくれて、聞く気満
々でなずなを飲み込む。空から見下ろされているような安心感があった。
「えっ。沙英さんもいないのー?」
「はい……多分」
 そこで宮子はようやくドアから離れた。これは困ったぞ、としかめた
眉に、窮した色がいよいよ濃い。なずなにはヒロがそんなどうでもいい
嘘を吐くとは思えないし、宮子が言いがかりをつけているとも思えなか
った。どちらかが何か勘違いをしているだけか、ヒロが寝たぶけていた
かのどちらかなのは明白だった。
「……ごはん、これからなんですか?」
「うん! なずな氏も?」
 けれど、今そんなことを検証したところで、先ほどから鳴りっぱなし
の宮子の『腹の虫は収まらない』だろう。なずなは、ええ、とだけ返事
をし、色々と積み上がり始めている腑に落ちないことのうち、無難なと
ころから切り出すことにした。
「ゆの先輩は、一緒じゃなかったんですね」
「うん。ゆのっちは、今日は多分、ひとりの日」
「ひとりの……日?」
「うん、そう。ひとりの日」
 なずなが傾げた小首の角度に動じる様子もなく宮子はただ繰り返し、
やがて一○二とふられたドアと仁王立ちに向き合いながら、
「まったく、ヒロさんはー」
と、いかった肩から息を抜く。
 居丈高な背中を眺めながら、なずなは頭の中に積み上がっている幾つ
かの不思議を反芻した。
 宮子が今日今まで、何処で何をしていたのか。
 何をそんなに困ることがあるのか。
 何故そんなに、ヒロメイドのチャーハンにこだわっているのか? 実
は以前、乃莉・ゆのと一緒に、宮子手製のチャーハンでもてなしを受け
たことがある。材料の大半と洗い物は自分たち持ちだったが、カラリと
きつね色に香ばしい、まさにフライドライスの名にふさわしいその味は
出色で、今でも少しがんばれば、プチプチとはじける米粒の食感を鼻孔
の奥に甦らせることが出来る。激しい炎と向き合わねばならない中華の
ような、腕力、胆力、そして大雑把さが旨味に直結する調理に関して、
その腕前はヒロよりも上なのではないかとなずなは密かに睨んでいた。
 そして、「ひとりの日」とはなんだろう? 受け答えの余りの平易さ
に、ゆのと二人の間でそういう日の取り決めが交わされているのだろう
と理解しようと努めた。それでも「多分」という曖昧さが、ねっとりと
頭にこびりついてはがれない。夕べ、ゆのが沈んだ様子だったのを知っ
ているから尚更だった。
「あの……」
「んー?」
 肩を捻って振り返る、宮子の様子に少し不機嫌さが混じった……もち
ろんそれはなずなに向けられたものではなかったろうし、なずなにもそ
れは伝わっていたけれど、とかく彼女は怒気に弱かった。
「あ、えっ、と……。み、宮子先輩だったら……自分でごはん、用意出
来るんじゃないですか? あの、前作ってくれたチャーハン、とっても
おいしかったからっ……」
 質問を慌てて変え、本音とはいえ香り付けのゴマまですってしまう自
分が嫌になる。そんな小狡い自分には、やはりこのアパートの一員でい
る資格などないのではと、ひとり湯船に沈没する夜も少なくない。しか
しそんなときには、バスルームに盗聴器でも仕掛けてあるのではないか
と勘ぐりたくなるタイミングで尋ねてくる乃莉の、さりげなくもない言
葉や振る舞いに救われて、今日まで漕ぎ着けたのだ。
「え? あー……。あはははは。うーん……。んー?」
 宮子は何でもないはずのなずなの問いに軽く目を瞠って受け止めると、
窮屈そうに肘を抱えた姿勢で体をくねらせた。もぐもぐと、何かを言葉
にしようとしてそれも上手くいかないようで、手先がもどかしそうにう
ごめいているのは、もしかして絵筆を欲しているのだろうか。
「実はですなー。拙者、兵糧と路銀が底を突いてしまったのですよー」
「ろ、路銀って」
「お恥ずかしい」
 珍しく笑ってはぐらかした先輩の笑顔に、なずなの薄い胸がどきりと
強い拍を打ち、その波紋は空きっ腹の裏側まで届いた。
 日が照れば汗ばみ、日陰に逃げれば肌寒い。夏から遠ざかる秋空の下、
庭先で見つめ合うのには限界があった。つまりは、食べる物と、お金が
ない。他にも理由のようなものがあるにせよ、一番簡単で致命的な、そ
して嘘でないところだけを切り抜いて照れくさそうに頭をかいた宮子を、
それ以上追及出来る自分ではないことも、なずなはよく理解していた。
 宮子の背の高い水色のパーカーは、一体もう何年着ているのだろうか、
裾と襟と袖口が色褪せて綺麗なグラデーションを作っている上、ところ
どころが白く色落ちして、放っておいたらそのまま空に、霞んだ雲間に、
溶けていなくなってしまいかねない気がした。それではいけない。彼女
は自分とは違う。他の住人たちが帰ってきたとき、彼女の姿がなかった
ら、皆どんなに寂しがるだろう? 聞いてみたいことも残っていた。彼
女をこの地上につなぎ止めておくために、今一番必要なことは何だろう、
それは多分。
「ええと、それじゃあ……」
 なずなは細いこぶしを精一杯小さくむすんで、ぎゅっと胸に押し当て
た。



     × ☆     ☆     ☆



                            (続く)





 

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2011年8月11日 (木)

■主人公の視線 -更新第696回-

買い物をしてお会計するときに、
こちらが商品をカウンターの上に置くより早く店員に先に手に取られる
(つまり商品を一度カウンターに置こうとしたのに手渡しした格好になってしまう)と
若干イラッとします。

オイサンです。

何故イラッとするかはわからないけど「カンジ悪っ」と思ってしまいます。

別にカンジ悪い要素ないはずなんだけどなんでなんだろう。
急かされたような気分になるからだろうか。
我ながら不思議なんですけどね。



■怪談~オルニチンの夜に



最近電車ン中で、キリンの車内広告をよく見かけます。

夏場だから、体力のつくものを食べましょう、
キリンじゃこういうものを出してますよ、というチラシで、
なんかもう……オッサンとオバチャンがもう、ものっすごいウソくさい笑顔とポーズで
ウレシソーに働いたり遊んだりしてる写真満載のやつです。

  もうね、アレすっごいキライ。
  自分でもなんか分かんないくらいキライ。

しかしキライなものほど見てしまうわけで( ← 思う壺)、
その広告で紹介されている商品の中で一つ、気になるものがありました。

ヨーグルトらしいんですが、うたい文句に
「しじみ900個分のオルニチン配合!」
とある。

……ふむ。
オルニチン。
聞いたことがある。
が、どういうものかはよく知らん。
まあ、カラダには良いものなのだろう。
しかし……しじみ900個て。
一生のうちに、しじみ、そんなに食べるものだろうか。
それにそんなに摂取して、逆に悪影響はないものなんだろうか。
そもそも、しじみ一個にはどのくらいオルニチンが含まれているんだ?

まぐろの刺身一切れでしじみ20000個分含まれてます!
とかだったら900個でも1000個でもあんまり意味がなかろう。

……というわけでちょっと調べてみました。
調べたっつってもWebで検索かけただけだけど。

参考にさせて戴いたサイトさんはこちら。

  ▼オルニチンと大人のヨーグルト
   http://topics.foodpeptide.com/?eid=1283317
  ▼オルニチン早分かりガイド
   http://www.divafest.org/
  ▼オルニチン研究会
   http://ornithine.jp/


で、大体まとめた結果がコレ↓。

▼オルニチン
 大体の効能:
  ・肝機能の増進
  ・脂肪の燃焼促進(?)
  ・成長ホルモンの活性化(筋力増強・新陳代謝の促進)

 食物の含有量(/100g) シジミが多い
  ・シジミ(10mgチョイ~15mgチョイ)
  ・キハダマグロ(2mg弱~7mg強)
  ・チーズ(0.7mgチョイ~8.5mg弱)

 副作用・多量摂取の悪影響
  ないっぽい。もともとカラダの中にあるもんなので。
  蓄積されることもないっぽい。

みたいな感じでした。

……いいじゃん。

ダイエットとか筋力増強とかの文句に、メッポウ弱いオイサンですよ?
というワケでキリンさん、あのいやらしいチラシで
ヨーグルト一個売ることに成功。
アレをこしらえた広告屋さんはヤリ手認定です。
くそう。

というワケで、
オルニチンヨーグルトを肴にヘルシア緑茶で一杯やってる騙されやすそうな大人をみかけたら
それがオイサンです。

高濃度茶カテキンとオルニチンで中毒起こして
皆様の前に目も当てられない死に様をさらす日を
従業員一同心よりお待ち申しております

あ、タイトルに「怪談」とつけましたけど嘘です。
別に怖い話じゃありません。
ごめん。( ← てきとう)


オイサンでした。
コンガリータ。



■視線交錯時代の主人公のあり方



って、終わらないよ。ここからが今日の本題です。

アニメを見ての感想の話なのですが、
先日Twitterにて、
「個性がなく、ドラマのない主人公にはあまり興味が持てない」
という意見をお見かけしました。

デその例として『アイドルマスター』のプロデューサーが挙げられていた
(正しくは『アイマス』を見てそういう感想をお持ちになってた)んですが、
これはまた、オイサンとは違う解釈だな、面白い題材ではあるな、と思ったので
ひとくさり唸っておこうかという次第でございます。


 ▼主人公という言葉の難しさ~物語の主人公なのか、「プレイヤー」なのか。

まずオイサンは、アニメ『アイマス』における主人公を、
あのメガネの男性プロデューサーだとは思っていません。
少なくとも、現時点では。
主人公はあくまでも765プロのアイドルたち個々人であり、
且つ、現時点では、13人一まとめで主人公だなあ、と捉えています。

今の……主観的ゲーム作品と、客観的物語映像作品の交錯する……ご時勢、
「主人公」というポジションは案外面倒で、何種類かそのありようがあると思うんですね。
ここでは大きく、3種類考えたいと思います。

 1) 物語の中心に据えられる対象。「受け手に、主として観察される」対象です。
 2) 受け手が入り込み、なり切るための対象。
 3) 受け手に対して視点・視線を提供・中継する存在。

1)は、上でも書いたように今回例にとった
『アイマス』のアイドルたちがこれに当たると思います。
大勢いるので分かりにくいかもしれませんが、
大人気アニメ(w『まどかマギカ』だと、ほむらがここに当てはまると思います。
個々にハッキリとした人格とドラマを持っています。

2)の型の主人公は、アニメや小説・映画など、単方向のメディアではあまりいないと思います。
コレは多分、(演者として関わる)演劇や、TRPG、テレビゲームなど
双方向メディアに特有の存在ではないでしょうかね。
ゲーム版『アイマス』のプレイヤーキャラとしてのプロデューサーや、
『ドラクエ』の主人公なんかはこのへんでしょう。
いわゆる「無色透明の君」とされることの多い人。
最近の『FF』の主人公なんかはここには入らず、1)にいくでしょうね。
案外『まどかマギカ』のまどかは、これに近い気はしますが。

3)は1)と2)の折衷で、定まった人格や個性はあるけれども、
お話の中で立たされる位置が受け手に限りなく近い。
主人公としての「彼(or彼女)」はある程度「彼個人」として振舞うけれども、
受け手がそこに入り込む余地もある、という存在です。
基本的には作り手が
「こいつはこいつだけど、見る側の人はこいつの見る方を見てくれよ、
 見ててくれればとりあえず間違いないよ」
という存在。視線の導き手・ガイド役のようなものです。

  マ2)と3)は与えられる個性や役回りの濃度の問題ではありますね。
  1)と2)も、ハイブリッドな役どころというのはあります。
  入り込みながら観察する、受け手に極めて近い(と思い込ませる)役どころを作り上げることで
  それは可能にされます。
  面白いモンで、『エヴァ』のシンジ君とか、『FFⅦ』のクラウドとか。
  自己陶酔・没入・内省型の主人公に多い気がしますね。

  『ロウきゅーぶ!』だとどうだろう。
  女バスの五人が1)で、ロリコーチはやっぱり3)かなあ。
  ……え? な、なんでイキナリ『ロウきゅーぶ!』の話になったか……だと?
  し、知るかバカモン///!!

  マ他にも今期のアニメで言えば、
  『神様ドォルズ』なんかは1)としてしか成立しないと思うんですよね。
  受け手は、お話を舞台の外側から眺めることしか出来ない。
  受け手の立場としては、ヒビノさんが近い(「村」の事情が分からずに巻き込まれる)ですが、
  主人公はキョウヘイであって、観察されるのはウタオでしょうから。

アニメ『アイマス』のあのメガネ男は、
3)に近い存在として描かれていると思います。
限りなく薄い3)か、ちょっと色づけされた2)か、というところ。
いずれにせよあのメガネは、「プレイヤー」ではあるが「物語の注視点」ではない。
主人公であるアイドルたちを観察するための、
受け手の視線の中継点として据えられた、カメラのようなものだと思います。

見た目やスタンスなど「外側の環境」はガッチリ定められているのに
中身だけが用意されていない、みたいな例もあります。
それは型としては2)なのですが、外側が固まっている以上決まった動きしかすることが許されず、
まるで中身があった人間のように描かれたりもします。
それはつまり本来の意味での「ロールプレイ」を作品が受け手に要求してくる場合ですが、
案外、今回の『アイマス』もその例なのかも知れません。

  オイサンの経験した中で、そのもっとも鮮やかだった例が
  PSのゲーム『女神異聞録ペルソナ』の主人公でした。
  あのゲームにはすっかりやられた……というか、「やらされた」。
  特に予期もしていなかった役どころを、見事に演じきらされたと思っています。

またアニメの『アイマス』では、
敢えてあのメガネ男を改めて役として立てる必要もなかったんじゃないかな? とも思います。
案外、あそこに律っちゃんをほりこんでしまうことも、多分出来たはず
(この先の展開で、メガネを絡めた恋愛成分とかが展開するなら別ですが)。

まあ、律っちゃんには強い個性があってしまうので、
お話を転がしやすい方へ転がすことは難しくなると思いますし、
あそこにいるのが律っちゃんだったのでは、
これまで「男性プロデューサー」として『アイドルマスター』の世界に関わり続けてきた
たくさんのプレイヤーたちが、
やはり「その世界での自分のあり場所」として、視点を預けることは難しい。

  「彼女の中に入って、自分の気持ちもコミで役割を演ずることが難しい」
  と言い換えてもいい。

あのメガネ男は、視聴者が彼に「なり切ったり」、彼が視聴者を「代弁したり」、
という、そこまで万能で、視聴者にフィットする存在ではないと思いますが、
「視聴者の誰もがその中に入って、演じることの出来るギリギリの居場所」が、
あのメガネ男なのだと思います。
視聴者が
「ああ、うん……まあ、許す。そういう役なら、やってやる」
と、言える役どころ。

  多分オイサンが作ってたら、
  安易に律っちゃんをあの位置に据えて話を作ろうとして、
  自分は苦労するわ、作品の評価は低いわで
  えらい失敗になっていたと思います。

なのでまあ、あのメガネを主役として観察をしていても、
今のところタイクツだとは思います。
後々、アイドルたちがビッグになっていって、



……。



 絢  辻「どうしたの? 急にだまって」


絢辻さん。……いや、別に……。


 絢  辻「……」


……。


 絢  辻「……黙ってちゃわからないでしょ?
      まあどうせ、アナタのことだから?
      『今時、「ビッグ」て……。言わないよなあ……。オッサンだなあ、自分』
      とか思って、一瞬へこんじゃったんでしょ?」



モロバレやないですか。
閑話休題。

えーとですね、後々、アイドルたちがメジャーになっていって、
自分の力量の及ばなさにへこんだりとか、
アイドルたちとの間に仕事上のパートナー以上の感情が芽生えたりとか、
そういう葛藤を抱えるようになればスポットライトが当たることもあるかもですが。
今のところはあの男のメガネのレンズを通して、
主人公・ドラマの核としてのアイドル達を見守っておればよいのではないかと思います。

そうしているうちに彼の気持ちと受け手の気持ちは近づいて、
やがて彼もがドラマの核の一つとして立ち居振舞うときには
まさに彼になり切り、同じ痛みを感じつつ彼のことを観察できるような、
そういう存在になるのではないかなーと、そんな風に思っておりますよ。


 ▼765プロの行く先

マ件の『アイマス』も、まだまだ話が始まったばかりで、しかもいきなり登場人物が多い。
この先一体誰がお話の中心になっていくのか? ということもまるで見えてきません。
オイサンは、冒頭でも書いた通り、
765プロという場とそこで生まれるドラマが主軸になっていくと思っていますので、
主人公は「765プロ全体」だと思ってます。
まあ、中でもクローズアップされるヒロインはある程度限定されていくでしょうけどね。
マいわゆる群像劇というやつで、
登場人物を乗せた宇宙船がどこに辿りつくのか、
行き先がどうやって決められるのか、が大事なのだと思います。

そして視聴者が視点を預けるのは眼鏡プロデューサー。

彼が男を見せる場面は……まあ、あるにはあると思いますけど、
それでも主体となっていくのは、プロダクションの他の面々でしょうねえ。
竜宮小町の三人と律っちゃんプロデューサーが始動してアタマ一つ抜け始めることを契機に、
それを見て奮起する子、
焦る子、
挫折する子、
動じない子が分かれてきて個性を見せ始め、
そこでまたドラマが生まれていくんでしょうけど。

  ……メガネ一人じゃ、到底回せそうにないな。
  ライバルになるプロデューサーとか、入ってこないとしんどそう。マいいか。

分かりやすい位置にポンと置かれて受け手の目を引くのが主人公だとすれば
『アイマス』の主人公は間違いなくメガネですが、
彼の役目はあくまでも、そうして引き付けられた目線を
アイドルたちの所作の方へとポーンとトスするだけのことだと思いますんで、
あんまりあの、取り柄のなさそうな兄ちゃんをジロジロ見て上げるのは
チョイと気の毒な気がしますね。

大体、ヤツが個性をバリバリに発揮して大活躍のモテモテのウハウハになってしまったら
各所から抗議のおたよりが殺到しそうだ。
泣く子も出てくるでしょうし、きっとタダではすまない。

ゲームからの映像化だと、登場人物も多かったり、
受け手が誰の目線で、誰を見るのか? ということにも
そもそもの前提(ゲームの主人公の存在)があったりするので混乱しがちです。

お気に入りのキャラクターがいたりしたらそこに感情が入ってしまったりして、
送り手の意図とすれちがってしまったらもう、
多分まともにはそのお話は受け取れないでしょうし。
そうして「つまらない」とされてしまう作品も、多々あるでしょうね。

  ……まあ正直な話、あのメガネが無個性なせいで、
  話がのっぺりとつまんなくなってるむきもあったりしますけどね。
  お祭りの回とか。
  その辺はもうチョイ、何か救いがあってもいいかと思います。
  後のドラマへの伏線として。

今回の『アイマス』ではオイサンはもう完全に門外漢の立場から入れたので
その辺ニュートラルに見られることは幸運だったかなと思います。
オムニバスでなく、群像物として見られることも、とても嬉しい。

マ多分この先も「真の主役の座」争いがきっと起こって混乱していくと思いますが、
誰に入って、誰を見れば良いのか、
上手に導いていって欲しいと思います。
色んな視点・色んな視線が楽しめるのは、群像物の醍醐味ですしね。


マそんな感じでヒトツ。
オイサンでした。



Are You Ready ?


 

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2011年7月31日 (日)

■虫と盆、油断と影 -更新第692回-


 実家の父と電話で話していたら目覚ましが鳴った。明晰夢、というやつだ。
 今朝は、予定よりも十五分といういかにも中途半端な早さで目が覚めてし
まい、気の弛んだ拍子に落ちた二度目の眠りの谷間で見た夢だった。

 父はこの十月で六十五になる。早期退職で周りより少しだけ早くリタイア
し、今はその四十年の蓄えを切り崩しつつ、古都の田舎で新聞の代金集めを
して、わずかな稼ぎを得ながら暮らしている。月末の今頃はその繁忙期で、
坂だらけの郷里の町を原付で飛び回っているだろう。

 明晰夢……夢と自覚のある夢を見ることは、眠りの浅い私にとってそう珍
しいことではないので驚きはしなかったが、その中で、老境を跨ごうとする
父と話をするという状況の方が気にかかった。目覚ましの鳴った瞬間意識は
現実へ引き戻されて、早く電話を終え、仕事に出掛けなければと慌てた。夢
の中の長電話で遅刻などした日にはまた職場でおかしな噂をたてられかねな
い。しかし夢と分かっていても、親との電話を無碍に打ち切るのが申し訳な
く、私は律儀に、丁寧に、いちいち夢の中の父親に向かって、じゃあそろそ
ろ出る支度をしないといけないから、そっちは暑いと思うけど体に気をつけ
て、と寝言に言い添えてから、手にしてもいない携帯電話の通話終了キーを
押し込んだのだった。寝言になると分かって口にする言葉はなんであれ照れ
くさい。

 あとには、妙な胸騒ぎだけが残った。

 虫の報せという言葉が重くよどんだ頭蓋骨の中を巡る。せっかく電話を打
ち切ったのに、支度も戸締まりもすっかり上の空になってしまった。
 梅雨が明けたとはいえ、まだ雨の多い季節だ。折しも昨日、関西は雨に見
舞われたらしい。濡れた路面。水しぶき。集金の繁忙期。坂の多い町並。原
付──いやな予感の材料は幾らもあった。

 父は、無茶と思われることでも「大丈夫、大丈夫」という無根拠な言の葉
をたよりに、傷口に唾をつけて終わりにしてしまうタイプの人間だった。父
自身の口から聞かされた、山陰の、お世辞にも裕福とは言えない大家族の末
弟として生まれ育った幼少期の話は腕白坊主そのもので、年を重ねさすがに
昔のままではないとはいっても、心身の節々に染み込んだその頃の性質が消
え去るようなことはないのだろう。知恵を付けても、根の根の部分は変わら
ない。

 家を出、電車に乗っても私の意識は普段の流れを取り戻すどころかおかし
な支流へと流れ込んで速度を上げた。ずっと以前から作っておくようにと、
──しかも当の父から──言われていた喪服もまだ作っていないとか、残さ
れる母をどうしようか、とか、縁起でもない、けれど具体的な心配事が押し
寄せてくる。そう、縁起でもない。縁起でもないが、それはいずれ必ず来る
時で、それが今日でも何の不思議もない。迷い込んだ流れは支流のようでい
て、普段目を背けているだけで実はそちらこそが本流であるのかも知れない。
報せがあっただけありがたいと思うべきだろう。ただ、今日でないに越した
こともない──。

 本流の水面から首だけ出すと、色々なものが見渡せた。

 母が基本的に世間知らずであることは、自分が社会に出てからようやく実
感をともなって気付いたことだが、父に万が一のことがあったとき、母は落
ち着いて連絡を回すことが出来るだろうか。平時ならどうともないようなこ
とだし、自身に降りかかることなら多少のことでは動じない母だが、父の一
大事にどう振る舞うかは甚だ怪しい気がした。そもそも自分の振る舞いにし
てからが怪しい。原因が事故だったとして、どこに連絡をすればよいのだろ
う? 父が一方的な被害者になるならまだしも、単車を操る身のこちらにも
非があった場合どうなってしまうのだろう? 職場に着いたらまずはネット
で調べてみようと、揺れる吊革を掴み損ねたりしながら考えていた。

 それともう一つ、父と母、平穏に時が運ぶのであれば先に世を去るのは恐
らく母だと、私は思っていたらしい。父には持病があったが、母にも発症し
てはいないだけで同じ病の気があった。そして母は父よりも不摂生だった。
何より、根っからの生命力……いざというときに強く生にしがみつくのは恐
らく父だろうと、私は心のどこかで量り、計算していたようだ。父が先に逝
き、母が残ったらどうしたら良いだろう? とうろたえてしまった自分が、
そこにいたのだった。畳に母だけが小さく座る、その光景は自分にとって想
定の大外にある風景だったのだ。
 しかし、とも立ち止まる。そこから辿っていった先には、また一つ戸惑う
べき風景があった。


      *     *     *


 結局、一日、鳴りもしないケータイにびくびくしながら過ごした。メール
が届けば過敏に反応し、携えずに席を立てば、戻ったときの履歴に怯えた。
朝思ったこともしっかりとネットで検索をかけ、先人たちの知恵をメモにも
取った。そんなことに動揺しながら、自分は何をやっているんだろうと思わ
ないではなかった。
 次に気付いたときには、もう列車に揺られていた。窓の向こう、ビル間か
らのぞいていたはずの朝日は寂しげに色を変えて背後から私を照らし、車両
の進む先も朝とは反対に向いていた。一日、果たして何をしたろうか。ろく
に思い出すことが出来なかった。今日の仕事の足跡を明日もう一度さらい直
す必要があるなあと、西日に焼かれる背中がため息を吐かせた。家からのメ
ールも電話もない、自分の抜け殻だけが残る一日として、その日は暮れた。

 生まれてから今日まで、父にとって自分が飛び抜けて良い娘だったとは贔
屓目にも思わない。殊更の悪童ではなかったけれど、今心にのしかかる、じ
っとりと汗ばむ程のわだかまりは、誰しも己に課す程度には私自身が親に対
して非とも呼べぬような非を認めている動かぬ証拠ではあった。誰かにとが
められるわけではない、自分にしか断じることの出来ない程度の罪。家を出
てからは折に触れて人並みの孝行を重ねてきたつもりではいるが、良きにつ
け悪しきにつけ、自分の父への関わりが、「人並み」というまほろばの閾値
にぴたりと重なるものだったと、不可思議な二度寝の明晰夢によって思い知
らされた。

 今年、父の日に何もしていない。

 そのほんの些細な油断が、あの明晰夢の重量を水増ししていることは分か
っていた。春先から急遽あてがわれた激務にかまけて、今年、私は父の日を
さぼった。毎年欠かさず何かをしていたわけでもない。遅れたり、母の日と
一緒くたにしたりで、丁寧にこなしてきたつもりもない。二十数年の中で澱
り積もらせてきた幾多の不孝に比べたら、それが取るに足らない重みしかも
たないことはいくらでも理屈で量れる。けれども、その新鮮な存在感は、も
しもあの夢に巣喰った虫の報せが本当だったとき、寝覚めの悪さを一生もの
へと格上げする。それは確信だった。

 些細な油断を、週末にさっさと解消してしまうことはたやすかった。進物
のリサーチは済ませ、目星だけは迅うの昔につけてある。しかしそんなこと
で、飄々と、のうのうと、父への思いの及ばなさを量った気になってしまう
こともまた、まっとうだとは思えなかった──無論、その背反する二律に気
付いたとて、及ばなさを「大事にとっておく」ことは不実でしかないことも
分かっていた。

 小賢しい。そんな言葉が、今の私にぴったり当てはまる。

 そんな風にして週末の予定は決まった。ただ、刹那によぎった「そうだ、
ついでに喪服も」という思いには今はそっと蓋をした。まるで来るその日を
迎えるための支度をすっかり整えてしまうような、ほとぼりも生々しいこの
機に乗じるだけの度胸は今の私には持てなかった。来週か、そのまた次か。
そうすれば幸いにも、盆が巡ってくる。漂う香の香に教えられた振りをして
出掛けようと決めた。

 明けて翌日の昼休み、皆が出払った仕事場のデスクで一人、急拵えの手弁
当を食べながら、では、母が先に逝ったとして、残った父はどうするだろう
と考えを巡らせた。幸い、父には貧しさに打ち勝つたくましさも、それを乗
り越える具体的な経済観念もあった。我が家の財布を握っていたのは徹頭徹
尾、父だった。今時珍しい、父は財布の紐を固く握って母に渡さなかった。
職を退いてもしたたかに懐を確かめ、すぐに次の職を見つけて働き始めた父
は、いずれ自分が世を去ることを理解しつつ、それまでの間何が必要かを知
る人間だった。母にそれはない。働いた経験もあったようだがそのたくまし
さは父には遠く及ばず、自身を支えていくことなどかなわないだろう。それ
を見抜いた父が手綱を渡さなかった格好だが、そのことが尚のこと、母を世
俗から遠ざけた。しかし、一人の孤独に圧倒的に強いのは母だった。田舎の
大家族に生まれ、人に囲まれて育った父は孤独に耐え難い。世俗を遠のいた
母はますます独りに強くなる。
 不意にオフィスの電話が鳴り、一瞬どきりとしたが、箸を置いたらすうと
した落ち着きが戻ってきた。いえ、あいにく今担当の者は食事に出ておりま
して……と、人のいないフロアを見渡して、通り一遍の受け答えでやり過ご
す。この時間に人間がいないことは承知のはずなのに、急ぎであることを印
象づけるための電話をわざわざ寄越すその手口は、白々しいのにこちらの落
ち着きをなくさせる程度には効果があるのが腹立たしい。

 受話器を置き、自前の塗り箸をふたたび手に取ると、自活は出来るが孤独
に弱い父と、自活は叶わないが孤独に強い母、面白いくらいちぐはぐに互い
の隙間を埋める夫婦の姿が、古いPCモニタの黄色い光の間にちらついた。
何となくもう一度見回してみたオフィスにはやはり私一人で、出費を抑える
ための手弁当の塗り箸を一人で咥えているこの時間が、実は存外愛おしい。

 黙ったままの携帯電話は、まさか自分に何か気を使っているのではないか
と勘ぐりたくなった。
                               (了)


 


ナンダコレ、とお思いの皆さんコンバンワ。
オイサンです。

えー、すみません(謝っちゃった)。

別に何てことはないのです。
先週の木曜日でしたか、
オイサン中途半端に早起きをしてしまいまして、二度寝をし、
その拍子に親父殿の出てくる夢を見ました。
デ実際に見ている途中で「アこれは夢だな」と気付いたのですが、
本当に上に書いたままでして、電話を切るに切れず、
バカ丁寧に寝言で(自分で寝言を言ってる自覚もあるんですよ)
「あー、あー、ゴメンもう切るから」
みたいなことを言って電話を切ったワケです。

そしてそのときにフッと
「……コレ、虫の知らせとかだったら嫌だな」と、
本当に考えてしまったのです。

  あるじゃないですか。
  最後に会いに来たとか。
  ちょっとやめてよー、と。

そのことをある程度面白おかしく書こうとしたらちょっとそれっぽくなってしまったので、
ならいっそのことそれっぽく仕上げてしまおうとしたのが上の、
なんというか、小説っぽいものです。
なのでその、みっともなくはあるワケですが、
主人公は女性に置き換えておりますけれども8割方が事実の、
マ私小説というか、そういうものです。
よくないですね。
はずかしい。

なんでしょうね。
実際、うちの親父殿にも何の障りもあるでなく。
母親のくだりとか、喪服のくだりとかも本当事実のまんまで。
もう少しキチンとした出来栄えになれば、こんなネタばらしを書く気もなかったのですが、
そもそもがまんま書こうとした話だったのであまり時間もかけられず。
一応きちんとオトしたしたつもりではおりますが、
マまた、何かの折にブラッシュアップして作りなおしたりはするかもしれませんが、
今はこんな感じです。
別に無理してこういうものを書こうとしたわけでもないのですけど、
書くうちにこうなって行ってしまった、という感じですので、
一つご容赦戴ければと思います。


  みんなも孝行はしとけよ(ドヤ顔  ← これでオチを付けたつもり ← うるさい


マそんな感じで一つ。
オイサンでした。


R0042800
え? そりゃうなぎくらい食べますよ(イキナリ何の話だおい)



 

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