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2016年3月26日 (土)

■電車に乗ってどこまでも。~朗読劇『それから』感想、そして二つの塔の見る夢~・その一 -更新第1050回-

去る土曜日、西方より来る友人に誘われて、
「声の優れた俳優による朗読劇」なるものを観劇してきた。

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朗読劇『それから』



どれからだよ、
と突っ込まれそうですが、夏目漱石先生の『それから』です。
それ以外のどれからでもありません。

  夏目漱石『ヒトカラ』。
  ……言ってみただけ。

出演俳優は、梶裕貴さん、竹達彩菜さん、津田健次郎さん、阿澄佳奈さん。
関俊彦さんや小西克幸さん、原由実さんもお出になられていたご様子。
全員がいっぺんに出るワケではなく、
日にち・上演回によって読み手さんは変わります。
オイサンが聴いた回では、先にご紹介した四人が登場。

聞き終えてみれば、確かに、他の役者さんの回も見てみたいと思わせる内容。
2公演・3公演セットでお得なチケットなどがあると嬉しいかもしれない。
マ演劇屋さんなんかは、セット公演でおトクにしてしまったら
一気に採算が合わなくなりかねないけど。

朗読劇、というもののスタイルがワリと特殊だったので、
その形式を簡単にご紹介申し上げておきましょうかね。


■形式
・役者さんは、あくまでも「読み手として」舞台に上がっている。
 「物語の中の役として」ではない。
・ただし会話文は人物ごとに読み手が固定されている。
 台本の先頭で
  男1:役者名(人物名1・人物名2・人物3)
  女1:役者名(人物名4・人物名5・人物6)
 のように、人物の担当は書かれている。
・台本は(台本も販売していた)役名では書かれておらず、
  男1(=読み手):~(本文。地の文・台詞(「」書きの会話文)含む)
  女1(=読み手):~
 となっている。「どの読み手がどこを読むか」が書かれている。
・「」書きの会話文も、舞台の台本のように台詞として書かれているわけでなく、
 『○○は「××」と、言った』のように、あくまで朗読として本文通りになっており、
 そのように読まれる。
・地の文は、4人の誰かがかわるがわるに読んでいるが、
 どこで読み手が交代するのか、そのタイミングは分からない。
 文の途中で替わることはない。
 案外、この地の文の割り振りが、この公演の作り方、演出の仕方の一つのキモである気がする。
・照明はあるが最低限。
・音響もあるが、音楽はなし。雨音、足音など、重要なエフェクトのみ。
・時間は1時間40分ほど。途中休憩はなし。



■感想
デ朗読劇、約1時間40分ほど聞いて、
イヤなかなか、オイサンもいんちきメルヘン野郎とはいえ曲がりなりにも書き物士として
なかなか刺激的な内容だったと感じる。
ストーリー的にも、朗読劇という形式的にも。

……ほな寝んなや、と言われそうですが。
イヤごめん、序盤~中盤にかけて結構寝ました。
だって梶さんの読みになかなかなじめなかったんだもの。

  ちなみにオイサンは不勉強ヤロウなので、夏目漱石先生の作品は
  『それから』も『坊ちゃん』も『三四郎』も、その辺のは何ヒトツ読んでません。
  小中高と、ほとんど活字読まない人だったからなあ……。



■朗読劇、そのむずかしさ
文章というのは不思議なもので、
読んで、心を動かしてみるまではそこに何が書いてあるかは分からないものです。
そんなん当たり前やん、とお思いかも知れませんが、
視覚から取り込むモノであるワリに、視覚的に得られる情報がほとんどないという事実は、
オイサンにとっては意外であったりする。

  これはオイサン独自の感覚かも知れませんが、
  絵や音楽などは、「視る・聴く」が先にあって、そのあと心が動く感じがありますが、
  文章は、「心が動くこと」が先にあるように感じます。
  読んで、それに沿って心を「動かし」て、
  ようやく「その文章・文字列にどのような意味があったか」を理解できる……
  そんな感触がある。

書き手がいかに情感や感情をぐりぐりと彫り込んだ文章だとしても、
結果、紙面に定着する視覚的な手ごたえとしてそういう痕跡はほぼ一切残らない。
ただ目で追う分には、客観的にはそこに残るものは、どこで見ても同じ、文字以外ない。
新聞記事も、名作古典小説も、ラノベも料理のレシピも
(無論書式によって見栄えは変わるけれども)、
視覚的な構成成分は変わらないので刺激としては同じ。
非常に「平坦」な世界なわけです。凄みもなかなか……感じ難い。

  その辺、音楽も同じなのだろうけども、
  楽譜って視覚的・図形的・意匠的な凄みも結構残るのかなー、なんて思います。

その均質な、けれども意味や程度の込められた文字列に
感情をどの程度乗せるかというのは「受け手」にこそ委ねられるもので、
朗読において、台本となる小説、物語の「受け手」はすなわち「聴衆」である。
であるならば、
「聴衆に届くまでは、その『均質さ』は保たれるべきなのではないか」とか、
「イヤこれは『朗読』ではなく『朗読劇』なのだから、
 文章の『発し手』が、その独自の判断で感情を乗せても良いのだ、
 寧ろ乗せる必然があるのだ」と言えなくもない……
とか、
演じられることを前提に書かれた戯曲と違う小説が朗読され演じられるに当たって、
「文章」を流通させる読み手・演じ手としての俳優は、
果たしてどれだけ情報を付加して受け手に対して流通させるべきなのか?
地の文に感情を乗せるか? 会話文にも感情は乗せるべきなのか?
……などという「朗読(劇)、如何にあるべき」的解釈について色々と考えてしまった。

書き手というのはその均質さを了解し、その上で「最終受け手」に委ねる。
文章を一連に読んで(時間を経過させて)初めて発生する起伏や彩りのさじ加減を、
全て読み手に渡す。

朗読は、その間に一人流通者を介する行為で、
読み手を「単なる流通者」とするのか、或いは「一部表現者」とするのかで、
この先の話は違ってくる。

「流通者」とするとき、朗読は可能な限り「そっと」、
質や形状への影響を最小限に留める形で行われるべきで、
感情や抑揚を、必要以上に付加するべきではない。
ではなんのために「流通者」を介するのかと言えば、
文字を音に変換すること、一度に多数に伝達すること、などがあると思うし、
(これも表現の部類に含まれはすると思うが)声色という色を、文字に与える、
などの効果があると思う。

今回の朗読劇、副題がまた奮っていて、
「声の優れた俳優による……」とついている。
面白い。
「演技の優れた」ではない辺りがすごい。
「声の演技の優れた」でもない。
あくまでも「声の優れた」人たちが読む、と置いてるあたりにひっかかりがあって、
つまり、舞台の意図としては「演技することを秤に乗せていない」可能性がある。
結果的に、オイサンが今回見た物には演技もバリバリに入っていたのだけど、
このタイトルを見たときに……というか、見ていたから、
今回の朗読劇に期待したのは「文字の流通者」としての読み手というものへの意識だ。

マその辺のことに答えは出ていないワケなのだけれども、個人的には
「付加される情報は最低限にとどめるべきなのではないだろうか」
「とどめた上で、受け手を楽しませるのが優れた朗読なのではなかろうか」
というのが、現時点での解釈になっている。
せいぜい読み方の、文章の切り方や抑揚によって、
誰によって語られ、どこが強調され、どこが修飾されているかをわかりやすく伝え、
最低限の感情や情感を演出する、くらいが良いように思った。

  でなければ演劇にしちゃった方がいいなあ、と思ったので。
  マ演劇にしてしまう(=抽象的な文字の世界を具象に現出させる)と
  やはり細部などが気になってしまうから
  そう単純な話でもないことは分かっているけれども。

朗読劇が演劇のレッサーバージョンや廉価版……手間ヒマの省略版に貶められてしまわないためには
その特長をより突き詰める必要があるよなあ、と思った次第。
視覚的・具象的でない、文字・言葉というものの効果が、
最終受け手の中で最大限に発揮されるように受け渡すことが肝要であるなあ、と。



■閑話休題
というところから、
固定化された視覚情報が豊富な絵との対比の話に持って行こうかと思ったんだけど、
……存外、絵も文も実はそのヘンの伝達力にたいして変わらないんじゃないか?
という気が……なんかしてきた。

<誰かが笑っている>ことを表現しようとするとき、
「絵なら、笑ってる絵を描けば伝わるよなあ」と思ったんだけど、
別に文でだって、<笑っている>って書けば伝わる。
それだけだと<どんな風に笑っているか>は伝わらないけども
それは絵でも同じで、
絵では<笑っている>絵を描くことは、
<どんな風に笑っているか>まで含めて必ず一体化して同時に表現することになるから
それが伝わるだけだ。
文でだって<大笑いしている><微笑んでいる>と書けば<どのように>も合わせて伝わる。

<微笑んでいる><笑っている><大笑いしている>と書いたとき、
それぞれ読んだときの受け手が受ける印象が受け手によってまちまちで一律じゃないじゃないか、
ということがあるように思ったが、
絵でも、描き手が<大笑い>のつもりで描いた絵が、
受け手に<微笑>だと受け取られることもあるだろう。
程度の差はあるだろうけど、絶対のアドバンテージとして絵の方が有利だということも、
実はそんなにないのではないか、と思えてきた。

ただ、絵の方が、表現するときによりオーバーに表現して
誤解のないように描く「クセ」がより強く根付いている気はする。
むしろ視覚に現れないことを表現するときに伝え難い分、
難しい場面も多いのかも知れない。

ただやはり、絵には「伝達の同時性」があるし、
「ものすごく大事なことを目立たないように描いて」後々のためにボヤかすことも
比較的容易なので、表現上うらやましいな、と思うことは多々あるのだけども。

  マそれもこれも、我が文作の未熟の致すところよ。やりようはいくらもあるに違いない。
  未熟ッ!

話を今回の朗読劇に戻すと、地の文は基本的には淡々としていた。
終盤以降、感情を強く乗せるところもあったが、地の文の演出は最低限だったと思う。会話文部分は感情たっぷりだった。

上でも書いた、感情の乗せる範囲と程度・音響・照明など、
演出のコンセプトがすごい問われる。
書き手と同じくらいの葛藤が生じるんではなかろうか、という感覚があり、
なんなら朗読劇専用に書かれた小説があっても良いのではなかろうか、
と思うくらいである。
それが台本とどう違うのか? という疑問もあるけど、
やっぱ小説は小説のていをなすのだろうし。

なおオイサンの興味の一点に阿澄さんが出演しているというのがあったのだけれど、
あすみんらしい見せ場という意味ではちょっともの足らなかった、
という点でマイフレンドとは見解が一致した。

竹達さんが、役どころの良さ(主人公・代助と道ならぬ恋に落ちる三千代)とあいまって
非常に病的な雰囲気を出していて良かったのと、
よく知らない津田健次郎さんという役者さん(三千代のダンナ、主人公代助の親友・平岡)が
とても迫力があって良かった。
地の文を読むのが誰が上手いか……という点について、
聴いているときはあまりそういう視点で聴けていなかったので
感想を持てなかったのが残念。片手落ちでふがいない。

阿澄さんが登場するということでこの回のチケットをとってもらったのだけど、
一度聴いてみたあとになって思えば、
大ベテランの関俊彦さんや、個人的に好きな小西さんの読む回を聴いてみたかったと思う。
「声の優れた俳優による朗読劇」、第2回があるなら、
そういう観点でも回を選ぼうと思う。



……んで、土曜日に劇を聴き、
あけて日曜は東京観光でスカイツリーと東京タワーをハシゴしてきたのだけども、
そこからは長くなるので改めます。



オイサンでした。


 

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