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2015年12月20日 (日)

■人生が変わる。64が変える。~デジタルのうたが変える人生の話~ -更新第1026回-

ちょっと前、Twitetrにて、
とあるフォロワーさんのフォロワーさんがどこかのエラい人に

「映画には人間の人生を左右する力があるが、ゲームにはそこまでの力はない」

と言われて悔しい思いをし、誰かの人生を動かせるくらいのゲームを作ろうと思ってその道に入った、
という旨のつぶやきをされていた。

フォロワーさんのフォロワーさんも、フォロワーさんもゲームが好きな方で
そのエラい人の言説には反対らしく、そんなことはない! と吼えておられ、
ただフォロワーさんの方はそういう

「人生を変えられる・人生の大事なことを学ばされるようなゲーム体験」

をされたことがない、ということで、若干の戸惑いを覚えてはおられたようだ。



■ここで取り沙汰されていた「ゲーム」が
ボードやカード、TRPGなどのアナログゲームなのか、
ビデオゲームなのか、それとももっと広義のゲームなのか厳密には分からないけれど、
言われようから判断してここではビデオゲーム・テレビゲーム・電子ゲーム、
特に家庭用ゲームのコトだとする。

オイサンもテレビゲーム大好きっ子でゲームには様々な影響を受けてきた方だから、
ていうかむしろゲームにしか影響らしい影響を受けてこなかった人だから、
エラい人の言ったことにはイヤイヤイヤ、ンなことないでしょ、と言いたい方だけど、
こと「人生が変わる」ということに関しては
何が原因だってコロッと起こるもんだと思っている。

それは、ことがゲームだからっていう話でもない。
どんなモンを見聞きしたって、人間の考え方とか、その「人生」ってやつだって何ぼでも変わるでしょ、
というのがオイサンの考え方。

ゲームに限定したって、それが『ドラクエ』だろうが『FF』だろうが
『カラテカ』だろうが『スペランカー』だろうが『スターソルジャー』だろうが
『スーパーモンキー大冒険』だろうが『東方見聞録』だろうが、
8bitだろうが16bitだろうが32bitだろうが、
32bitCPUを二つくっつけて「64bit級!!」って言い張ろうが、
任天堂だろうがセガだろうがSONYだろうがNECインターチャネルだろうが
松下だろうがプレイディアだろうがピピンだろうが、
……いやスマン、プレイディアとピピンはダメだな、
見る人が、見るタイミングで見れば、簡単に変わりますよ、そんなもん。

  『スペースインベーダー』を見ても変わらない人が『CoD』を見れば変わるかもしれないし、
  逆で、『スペースインベーダー』でないと衝撃のない人もあるでしょう。

音楽でも、本でも、ただの景色でも、海でも山でも船でも飛行機でも
虫でも猫でもタバスコでも、生き様でも死体でも、なんだってそうです。
何を見たって、それを見て感じ入る下地のある人間が見れば、変わる。
人の思いや考え方を変える原因として、モノは問われるもんじゃないと思う。

  ただし、全ての人が、どんなタイミングで見ても変わるなんていう奇跡はありません。
  見るべき人が、見るべきタイミングで出会うことが絶対条件で。
  180°だろうが1080°だろうが、コロッと一瞬で変わったって不思議はない。



■またそういう考え方とは別に
「それらの面白さに魅せられて」だとか「それらの技術に衝撃を受けて」でも、
「その道に進んで将来食っていこう!」と考えること自体が
「人生を変える」ことに他ならないし(ていうかそれ以上に顕著な例もあんまりないよね)、
そう考えるのであれば、
「産業」として成立している時点でその事物には人生を変える力が
すでに社会的に、客観的に成立している、と言えるだろうと思う。

ただ、そのエラい人の発言は、「ゲームと映画を力強く比較している」という点から考えて、
32bit機登場前後の話なのではないか? とオイサンは推測しますが、
それ以前の家庭用16bitマシンの……スーパーファミコン、メガドライブの……頃までは、
他のメーカーさんはともかく当時の業界の盟主的存在であった任天堂のトップは、
「所詮はオモチャの一品種、いつ業界がなくなっても不思議はない」
と考えていたといいますから、
もしかするとその時点では「まだ業界・産業として確立はされていない」、
つまり「それを職業として選ぶ人生の変わり方」は、なかったと言える……
かもしれない。

無論、それを求めてゲーム会社に入った人はいたのでしょうけれども。
その頃から既に、名の知れた人たちはたくさんいましたしね。
というか、ちょっと前まで名の知れた人たちというのは
そのころ以前にゲームメーカーに入った人たちばかりだった。

あと、人生の変わり方にも色々あって
上で書いたみたいな「職業として選ぶ」ような意味もあるし、
ゲームのせいで人生踏み外しました、身を持ち崩して今壁の中にいます、みたいなことだって、
「人生が変わった」と言えるでしょう。

たぶん、きっかけになったエラい人の言う「映画で人生が変わる人」の中にも、
そういう変わり方をした人だっていっぱいいるんじゃないでしょうかね。
映画を見てその気になってヤッチャッタとか、
映画業界入ったけど食ってけなくてヤラカシチャッタとか。



■とはいえ、素直にとらえるならば
そのエラい人の言う「人生を変える・学ぶ」っていうのは、
言い方から推測するに、
何かもっと、文化的に人間の心情的な根幹をなすことに関わる考えの作り方
(簡単に「考え方」ということも出来るのだけど、それだと少しニュアンスが異なる)
のことを言ってるのだろう。

たとえば生だとか、死だとか、愛とか。
家族 / 親子 / 兄弟 / 夫婦、戦争 / 平和、罪 / 徳 / 聖 / 俗、お金、
男 / 女 / それ以外の性 / 恋、思春期 / 成熟 / 老い、スポーツ / 宗教 / 文化、
国 / 国家 / 祖国 / 愛国
……ざっと思いついたところで、そんなこと。

その偉い人の言い方に照らせば、
「古くから映画がテーマにしてきたような、様々な人の営みに関する考え方と振る舞い方」
といえるだろうか。

そういう複雑怪奇なことがらについて、
それまでの考えを覆されたり、問い直させられたり、或いは全くなかった視点を与えられたりして、
世の中の見え方が変わるであったり、
より具体的に自分を取り巻く現象をとらえられるようになったりするということを、
「人生が変わる」ということだと考えましょう。

且つ「変わる・変える」というニュアンスから、
「ある程度、その人の人生・人生観が形成されたあとの段階で作用する」
ということも重要ではありましょう。

  ところで、それとは別に思うのが、
  映画をよく見てそこから何かを得た人たちがよく
  「映画から人生の全てを学んだ」みたいな言い方をなさるのは、
  多分その世代に「そういう言い方が流行った」ということがあるんだろうな、
  と思ったりはする。
  今だと、多様化・細分化が進んじゃって、
  迂闊に「人生のすべて」なんて言葉は使えず、使うほど胡散臭い目で見られる世代なので、
  若い人は使わず、「自分はこう思う」という言い方になっていくのだろうと思う。
  個が発信できる時代になってしまって、すぐに
  「自分はそうではない」っていう話が、微に入り細に入り出てきてしまいますからね。
  その辺、今はちょっとメンドクサイ。
  幹の部分の強さが形成されがたい時代ではあると思う。
  その表現の力の強さというのは、あくまでも時代的なものだろう。
  今言われる「人生のすべて」と、その時代に言われた「人生のすべて」は違うものだ。
  同じだとしても、「その人を構成する人生のすべて」ということでしょうね。
  「人の生とは須くこうあるべきだ」と語れる時代がかつてあった、
  ということです。

まあ、なんでしょうか、
そうした「人間が生きていく上で切り離せないものごと」の中には、
比較的変化のゆるやかな、見かけ上変わらないものも多々あるので、
そうしたものごとに関して鋭く切り込んで描いた作品の中には
普遍的な(少なくとも描かれた時代と現代とで変わらない)要素であり、
真理が描かれているものがある、ということは言えましょう。

それら普遍的な要素について、多くの映画から網羅する形で学び取り、思考が形成された、
ということはあっても不思議はないと思う。

そういう風に思うなら、
確かに現代のゲームは表現力が上がっているとはいえ、
それら普遍的要素についてすべて、
それぞれ何かのタイトルで一度でもテーマとして取り込んでいるだろうか? と問われると……
映画と比べたら、ラインナップは貧弱であるかもしれない。

ちゃんと拾い集めたわけではないから正確なところは分からないけれど、
ビデオゲームが基本的に「遊びであること」や「インタラクティブであること」、
はたまた「商業ベースであること」など、
場合によっては広がりや深みの助けになる要素が表現の上で縛りになってしまって、
描けていない・描くことが難しく(遊びと結び付け難い・単方向的でないと伝えにくい・売れない)、
取り込めていないテーマは残されている……かも知れない。

そう考えれば、
「人生を変える」という分野での総合力というか、広範囲性・網羅性において、
ビデオゲームが映画に一歩譲る、という言い方は妥当であるかもしれない。
その分、一点突破の集中性や、一度食らってしまったら二度と抜け出せない根の深さにおいては
勝るとも劣らない、とは……個人的な感想だが、思うけれど。

マきんたまの一つも握りつぶされれば世界の見え方なんて全面的に変わっちゃいますから、
全部の要素を持っている必要もないと思いますからね。
あ、きんたま無い系の人たちをハブる意図はないですよ。



■16bit機以前の世界では
ゲームの世界は人の想像力・妄想力を駆り立てるチカラをより強く持っていたと、
オイサンは思います。

人の心の、「隙間を埋めたい・埋められるんじゃないか?」とその気にさせる点において
8bit・16bitマシンが打ち込んでいく「点」の情報は絶妙な隙間を持っていて、
二つの点の間を線で結ばずにはいられない、そんな魅力を持っていた。

その隙間から湧き出し、読み取ることのできる「夢」は、
人間の人生を変えるのなんかワケもないくらい強い衝動を持っていた。
線や面を描けなかったことが、昔のテレビゲームに力を与えていたのではないか。

絶妙に打たれた二つの点の隙間を自分の心で結んで埋めていくのだから、
そこには主体性が生まれるし、出来上がったものは自分だけのものになるし、
それの結線や埋め込みが「成立する」ということは、大きな承認と成功体験を得るのと同じだ。
ゲームの包容力は底知れなかった。

またそれは同時に、深く深く自分の中へ入り込む作業でもあるので、
やっている最中は案外……自分の何が正しく、何が間違っているのかを
延々問うているような作業でもあって、
正否を認識しつつ、取捨するか、断罪するか容認するかは別問題なのだけど、
知る作業としては結構な力を持っていたと感じる。

32bit機以降、ゲームはより直接的な表現力をもつようになり、
人の妄想力を借りた形ではなく、
直接的な表現力で、映画にも負けない力を持つようになった。

  ちなみに、16bit機以前に、直接的な表現力で映画にも対抗しようとし、
  それをかなりなレベルで実現していた最右翼が『ファイナルファンタジー』あたりだと、
  オイサンは思います。

それは語り手の意図をより鮮明に表現・伝達出来るようになった、ということで……
受け手からしてみれば、情報はより限定的になり、自由度は下がってしまったとも言えて、
受動的に受け取る「人生の衝撃」は大きくなったけれども、
自発的に掘り起こす「静かな衝撃」は、随分減衰してしまったんじゃないかな、とは思う。

それでも、ゲームの持つ
「土台の欠落を自分の持ちモノ(思惟ややり方)で埋めていく」という要素は、
いくらか具体性を帯びてしまって嘗てのものほどの懐の広さ深さはなくなったけれども、
「プレイして初めて完成する」というゲームの特質上無くなりはせず、
テーマがある程度物理的に力を発する空間世界で、
問いかけをどのように受け止め、処理し、振る舞うかということでプレイヤーに委ねられるわけで、
限定的に、より濃密な問われ方をしているのではなかろうか。

作者がより雄弁になってしまって自由度が下がり、
選択的であることが増えたのは皮肉なことで、
作者とプレイヤーどっちが主役かわからなくなることもままある。

そういう風に限定的になるとまた、
「テーマのラインナップ」が重要性を増してくるワケで、
そこが貧弱になりつつある? 今の状況はちょっと残念ではある。



■ちょっととっ散らかっちゃったけど
ゲームに、誰か個人の生き方・考え方・在りようを変えさせる力があるかどうか?
ということについては、全方位的でこそないにせよ十分にあると思うし
(ていうかここを見に来るような御仁は皆さん絶対あると思ってる系男子だと思うけど)、
適正のある人に対するピンポイントのパンチ力は、
他のメディアと比べても群を抜いているというのが、自分の感触です。

自分の例で言うなら、……PS2の『北へ。』が最も大きかったと思う。
ゲームと書き物一辺倒で家から出なかった自分をいきなり旅の世界に連れ出したゲームでした。

他にも心に残るゲームや、考え方・世界の見え方……人生「観」を左右させたゲームはそれこそ数知れず、
『ときメモ』とか『俺屍』『ロマサガ』『マリオ』などなど、枚挙にいとまがありませんが、
どれも「ゲームが自分の軸にあること」を前提にした変化にとどまっており、
暮らしの軸にあったゲームをサブに押しやってしまった、
軸ごとずらせてしまったという意味で、
『北へ。』は自分の中のマキシマムインパクトだった。

  ……と、言い切ってしまうのは、
  感じた衝撃は『ときメモ』の方が大きかったから自分でも少し意外だし、
  ちょっとかなしいんだけど。

無論、体重を50㎏も減らし、
「カラダのつくり」そもそもを変えてくれた『アマガミ』は言わずもがな。
『アマガミ』『北へ。』がマキシマムで、他のゲームたちはその屋台骨を作ってくれた、
そんな感じだろうか。



■題名のない音楽会でゲーム音楽
余談。
先日の『題名のない音楽会』、
植松『ファイナルファンタジー』伸夫さんが出るのをすっかり忘れてて、
ほとんど見られませんでした。

最後の『ゼルダ』だけ聴いた。

バイオリニストの方が「僕の大好きな曲」と言って演奏されてましたけど、
思えば、ああそれがもう当たり前だよな、と思って聴いていた。

だってもう今のお子たち……否、
イマイマならずともオイサンより10年も下のお子たちの家にはきっと、
生まれたときからデジタルゲームがあって、
物心つく頃にはいじっているにちがいないのだもの。

一番初めに、意識的に聴く音楽がゲームの物であっても、なんら不思議はない。

  テレビの番組とかドラマとか映画とかよりも、
  ゲームの音楽って自分のやることに共鳴して鳴るから、
  すなわち自分でコントロール出来てしまうから、
  余計に意識的に聴いてしまうと思うんですよね。
  ゲーム好きのオイサンのひいき目ですけども。

そんな人たちが、例えば大きくなって今クラシックの第一人者になったとして、
そんな彼らがゲーム音楽に偏見をもつか、
くだらない、俗なオモチャの付属物だと下に見るかといったら、
マそういう人もいるかもしれませんけど、
大半の方は、そうではないんじゃないでしょうかね。

かのバイオリニストさんは、
別にゲーム音楽に魅せられて音楽家になったわけではないと思うけれども、
線であり、面であり、立体である音楽に触れ、作り出すことのできる御仁の心にも、
「素晴らしいもの」として「点」の音楽が根ざしていることに、
今回の話のヒントがちょっとあるんじゃないかなー、などと思うオイサンです。



……。



『ゼビウス』は、
敵の出現テーブルがランダムに、あるいはプレイヤーの行動によって変化するゲームだけれども、
なぜかある場面で必ず、一機だけで画面に現れ、一発だけ弾を撃って去っていくタルケンがいる。
彼の出現は固定されている。
タルケンには、有人機である、という設定が与えられている。
あのタルケンのパイロットはなぜ一機で来るのか、
なぜあのタイミングなのか、
あの一発には、何か意味があるのか……。

そんな妄想に、作者に表現の明確な意思があったとは敢えて思わないけれど、
そこに思いを馳せることが出来れば……
また、見え方の変わる世界も、きっとあるんじゃないでしょうか。


▼ゼビウス 1~7面プレイ




オイサンでした。
 
 
 

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