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2015年9月15日 (火)

■風韻軌道~過ぎ去りしあの夏のホーム~SS『お嬢様特急』より・後篇 -更新第1001回-

 
 
 
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 ざっと見渡したところ、展望車に人影はなかった。たそ
がれて景色も見えず、もうじき次の二十四時間停車をする
博多だから、ほかの乗客たちは部屋で降車の支度を進めて
いるのだと思う。いつもはだいたい混みあっている展望車
がこのタイミングだけは人が減る、それを知っていたから
ここへ来てみた。
 さて、どの席でのんびりしようか? 車両を奥へ向かっ
て歩いていたら、ほとんど最後尾の座席の影から小さな囁
き声と、何かおおきなものが蠢く気配が伝わってきた。聞
き覚えのある丸みを帯びた柔らかな声と、心を少しざわつ
かせる気配……ざわつきの理由は、その正体を知らなけれ
ば到底確信の及ばないところだと思う。
「風音さん?」
 僕は周りに本当に人がいないかどうか気にしてから、シ
ート何列分か離れたところから、気配の方へ向けて声を投
げた。すると、息を殺す気配も、空気がモゾモゾこすれる
感じも収まって、最後列から一つ手前の座席の影から、明
るい髪の形の良い頭が、ゆっくりと姿を覗かせた。やっぱ
り、風音さんだ。
 彼女の普段着である実用的なアウトドアルックで身を固
めた風音さんは、最初警戒の眉毛をしていたけれどそれも
ほんの一瞬で、入って来たのが僕だと分かると頬を緩めて
くれた。仕方のないことだった。
「ようゴロー、元気か?」
 風音さんの座席の足下には、その山岳スタイルに見劣り
のしない、五十リットルかもっと入りそうなザックが置か
れているけど、その中身が山の道具ではないことを、僕は
知っていた。
 ザックの口からは、いまも慌てて押し込んだのだろう、
パッと見はフリースか毛布かという丸められた毛の固まり
が少し覗いていて危なっかしい。その毛むくじゃらが僕の
声に反応してもぞもぞと蠢き、狭いはずのザックの中で器
用にぐるりと身を翻したかと思うと、くりくりとつぶらな
瞳が二つが現れた。風音さんが山で拾い、山間の集落にあ
る実家で育てていたという、熊の子どもだった。ザックの
口から鼻先だけをのぞかせ、嬉しそうに、僕の顔へ温度の
高い息を吐きかけてくる。小熊のゴロー。風音さんは、こ
のゴローを再び山へ返すために、返せるような山を探しに、
ひとに勧められてこの列車に乗ったのだと語った。
 いかにヴェガが特別で豪勢で、事前の申請があればペッ
トの同乗も許可される自由な列車だからといって、この猛
獣の子どもを連れ込むことが許される筈もない。それを見
過ごしていることについては、僕は風音さんと共犯だった。
無邪気にのどを鳴らすゴローにじゃれつかれるだけでも、
遊び相手には相当の覚悟が必要だ。風音さんや比較的懐か
れている僕でもこの始末なのだから、敵意を持った相手が
近付こうものならどうなるか分かったものではない。ひと
気の失せるこんなタイミングだから、少しでもゴローの気
分を和ませるためにと、自室の外に連れ出してやることも
出来たのだろう。
「じきに九州だね」
 僕は彼女の隣に腰を下ろして、もうほとんど重さを感じ
なくなったコーヒーの缶をあおった。案の定、一滴、二滴
しか残っていなかった。
「そうですね。私、博多は、って言うか、九州が初めてな
ので楽しみです。その次は、阿蘇……でしたっけ」
 世間話のつもりで返したのだろう、笑顔だった風音さん
は、僕の言葉の意図に思い至ったようで、表情に影を落と
した。我知らずうつむき加減になる視線の先にはゴローが
いる。ゴローはその理由を知るはずもなく、ただ不安そう
な様子の風音さんを慰めるように、心細げなのどを鳴らし
た。そのときの彼女の胸に走った痛みがどんな色をし、ど
んな形、どんな音だったのか、つらい別れをまだ知らない
僕には知り得なかった。ハーフパンツの膝の上で固められ
た掌から、その中に握り込まれたもののかたちを思うしか
なかった。窓の外を流れていくのは、山、谷、海、谷、山。
いまはもう宵闇に沈んでいるけれど、草いきれと水の匂い
が伝わってきそうな世界が広がっている。やがて山が途切
れがちになり、なだらかな平野を抜け、橋を越えて、町へ
となだれ込んでいくだろう。
 たくさんの景色を映し出してきたこの窓の向こうに、も
うすぐ見えてくるものがある。
 風音さんは名古屋でヴェガに乗り、途中途中の長時間停
車駅で、ゴローを放すのに適した山を探してきた。それは、
ゆく先々で別れの場所を探す、タイムリミットつきの列車
行だった。ここから先、ヴェガにはたった三つの停車駅し
か用意されていない。もうすぐそこまで迫っている博多、
阿蘇、そしてヴェガのためだけに用意された九州最南端の
終着駅「夢の崎」。
 山が見つかった暁には僕もその別れに立ち会う約束をし
ていて、彼女の決心が鈍った時には無理矢理にでも彼女を
ゴローから引き離す役目を与えられていた。彼女と知り合
い、ゴローの存在を知って少ししてからのことだ。その頃
は、僕も彼女もお互い特別な感情を持ちすぎない者同士で
あることがその役割に適当だと考えて、頼み、引き受けた
ことだった。うたかたの旅の時間が許した悪戯だというこ
とも自覚している。けれど今となっては、彼女がそれを他
の人間に頼むことも、僕が誰かに譲ろうとすることも、簡
単ではなくなっていた。
 彼女の事情を知ったとき、なぜこのヴェガである必要が
あったのだろうと不思議に思ったものだった。けれど、い
まは何となく、風音さんにこの旅を持ちかけた人の強い気
持ちと思いやりがない交ぜになった複雑な感情に、爪の先
程度とは言え触れられる気がしていた。それなりに年齢の
いった人の発案だったのではないだろうかというのは僕の
憶測だが、一度きりのやり直しのきかない旅であることと、
そこに至る必然的な時間が彼らには必要だったのだろう。
 カタン・コトン・カタン、と、在来線ほど強くはないけ
れど三つワンセットで静かに繰り返される、ときに心地よ
く眠りにさえ誘うその響きを、彼女はどんな風に聞いてい
るのだろうか。じっと身をゆだねていると、線路を踏むそ
の足音はどんどん加速していくようにも感じられた。否応
なしに刻まれるリズムが彼女の別れの痛みを僕にも運んで
くれはしないかと期待したが、それもまた詮無いことだっ
た。そんな痛みも知らない僕だから、風音さんも大任に抜
擢したのかもしれない。言葉は上手じゃないけれど、生き
物と触れ合うことに慣れているからか、風音さんは思いを
表すことにも、気持ちを汲むことにも、とても長けていた。
 カタン、コトン・カタン、カタン、コトン・カタン、カ
タン、コトン・カタン、カタン、コトン・カタン、カタン、
コトン・カタン、カタン、コトン・カタン。喉を鳴らすゴ
ローを優しくなだめる風音さんの瞳は、逃れようのない列
車の振動に合わせて揺れていた。その横顔を眺めるしかで
きない、僕の目も同じようだったろう。展望車の空調は、
外からの光が昼間強く差しこむ分、他の車両よりも低く調
整されている。そのせいだろうか、それとも長く尾を引く
夜の光跡のせいだろうか、列車が普段より速く、前へ、前
へと、ゴールを求める競走馬よろしく鼻先を懸命に突き出
しているように感じられて、僕は少し不安になった。やが
て車輪の音は渦になり、ほとんど時間の流れを正常に感じ
取れなくなった僕たちを天高く巻き上げて、そのまま地面
にたたきつけようとする。それはだめだ。咄嗟に身をよじ
り、ともに音の渦につかまって舞いあげられたはずの風音
さんの姿を宙空に探した。やはり彼女もまた、音の風に全
身の骨を砕かれたみたいに力なく宙をのぼっていて、その
勢いは頂点に達したところで失われ、ぐにゃりと向きを変
えて、地面に向けて真っ逆さまに落ちていく。彼女を追っ
て僕も向きを変える。落ちていく先の地面に一筋の線路が
見えた。その延びていく先をちらりと目で追ったが、遠く
地平の先にたわんで一直線に消失していた。線路めがけて、
眠っているようにまっすぐに落ちていく風音さんに僕は必
死に手を伸ばし、彼女を捕まえ、抱き留めようとするけれ
ど、肩にも膝にも、まだ力が入らなかった。足が宙を泳ぐ。
せいぜい手をつかみ、引き寄せるのが精一杯だったのだ。
 そのとき、手の甲に触れた感触のやさしさとか細さには
っとなった。ゴローを撫でようと手を伸ばしていたのだけ
ど、何かを感じ取ったゴローはザックに押し込められて身
動きがとれないはずなのに器用に身をよじって、僕の掌を
逃れようとした。ザックごと揺さぶるように大きく動いた
ゴローに驚いて引っ込めた僕の手を、横から風音さんがと
ったのだ。僕は生き物と気持ちを通わせたことがない。そ
の掌に風音さんは、いったいどんな気持ちをこめていたの
だろう。広島で列車を降りるさとみちゃんの背中に見たよ
うな、たったひと筋であるはずのレールに何か別の針路を
見出す力を僕が手にすることは、とうとう、旅の最後まで
無かった。
 これから数日ののち、僕は風音さんの手を引いて阿蘇の
麓に広がる野を駆け渡ることになる。風音さんは抵抗をし
ない。ただ、ゴローのいる方を何度も何度も振り返り、黙
ったまま、僕を責めるでもなく、感謝するでもなく、走り
出す方向を決めることが出来ずにそこに吹く風に流される
ように、その細っこい体のベクトルを僕の手に預けること
になる。
 あのとき、ゴローは理解してくれていたのだろうか。彼
の足なら、遠ざかる僕たちを、追って、追いついてくるこ
となんて容易く出来ただろう。しかしゴローは風わたる阿
蘇の夏草に巻かれる黒い岩の群のうちの一つにでもなった
ように高見から僕たちを見送り、遠く広がる空から流れて
くる、恐らく彼だけに感じる匂いを不思議そうに吸い込ん
でいるように見えた。
 風音さんの体に力は感じられなかったけれど、視界から
消えることのないゴローに結わえられた彼女の視線は、手
を引く僕が前へ進むことを、ときおり頼りない張力で拒ん
だ。
 そんなとき、風音さんは
「走って」
と、それしか言えなくなってしまったような、こわばった
調子で言った。
「お願い、走って」
 そんなに強い気持ちで叫べるのなら、自分で走ればいい
じゃないか。それなのに彼女の足は、僕が引いてやらない
と決して動き出そうとしなかった。僕の前にはレールもな
く、彼女に言われるまま、善し悪しもなく、本当の彼女が
どうしたいのかもなく、ただ言われたままに引いただけだ
った。もっと大きな、寛い何かにからめ取られるように、
風音さんの手を引いて、一面翠と青の、阿蘇の原野を駆け
た。とても必死だった、僕に頼みごとをするときの風音さ
んの目。あのときから彼女は、それがとても狡い手立てだ
と、言葉にはならないけれど――心のとても聡い彼女は―
―どこかで気付いていたのだ。確かな憂いを見知らぬ誰か
と分かち合うことがこんなに狡いことだと知って、強い風
と日差しの中、僕は少し興奮していた。発車時刻には、も
う間に合わない。

『このたびは特急ヴェガにご乗車戴きまして、誠にありが
とうございます。間もなく、博多。博多に到着いたします。
当列車は博多で二十四時間停車致します。お降りのお客様
は……』

 切羽詰まってこわばった風音さんの手が温かな気持ちが
にじみ出すように弛緩し始めたのを見計らったのか、柔ら
かな電子音をともなってアナウンスが割り込んでくる。ス
ピーカーがどこにあるか分からず天井を見上げた風音さん
の手に、僕は少し力をこめて返した。僕は、慎重に言葉を
選ばねばならなかった。
「降りる支度をしないと」
 僕にはそんなことさえ言う資格はないのに、風音さんは
ごめんなさい、とうわずった声で、僕の手を解放するとア
ナウンスが流れ終わるのを待たずにもう一度ゴローの頬を
撫でた。ゴローは小さく喉を鳴らして自分からザックの奥
へ帰っていき、その上からカムフラージュのための小さな
熊のぬいぐるみでふたをする。
「ごめんね」
 口を閉じたザックを背負い直す様子は気遣いに溢れて、
ザックの中でゴローがおんぶの姿勢をとっているのが透け
て見えるようだった。
「行きましょうか」
 困っちゃいましたね、とでも言うような調子と、少し元
気のない眉の彼女に促されるまま僕は立ち上がり、トコト
コと客車へ向かう後に続く。視線を、しょげた背中から窓
の外へ逃がすと、スローダウンを始めた窓の外には町の灯
りが目立つようになっていた。近くは素早く、遠くは緩や
かに。年をとると遠い記憶ほど鮮明に思い出すという話と
重なって、無数の灯りが全部、そこに暮らす誰かの日常の
記憶のともしびに思えてくる。列車を降りた風音さんの帰
る日常は、掛け替えのないものが欠け落ちていることを自
ら約束した日常で、灯りの落ちた名も知らない駅に置き去
りにされる不安とやるせなさをはらんでいる。町では、ど
れだけの人たちがどんな当たり前を営んでいるだろう。外
から見たら、夏休みの十五日間だけを走り過ぎて行くこの
特別すぎる時間は、せいぜい銀河鉄道のようなものだろう。
明日にはこのレールの上も保線員さんが歩き、摩耗し疲労
した軌道の音を聞くのだろう。カタン・コトン・カタンの
リズムに生じた狂いもまろやかに均されて、やがて心地よ
い眠りを誘う振動に溶け込んでいくに違いない。
 娯楽車と食堂車を過ぎると客車エリアに入る。にわかに
慌ただしくなった客車では見るからに一人旅の学生や、ど
ういうわけだかスーツ姿の男や子連れの家族、車内で働く
人たちもめいめい動き回っていて、僕たちが入ってきたこ
となど気にも留めない。僕たちもその中へ、歩調を合わせ、
道を譲り、譲られ、溶け込んでいった。
「博多ではどこへ行くか、もう決めたんですか?」
 売店のところで通路が少し広くなり、前を歩いていた風
音さんはごく自然に歩度を落としていつの間にか僕の隣に
並んでいた。この子は、こうした何気ないこなしが抜群に
上手い。
「うーん、それが、まだ決めかねてる。時間もそんなにな
いし、どこも面白そうで。風音さんは?」
 風音さんは答えなかった。
 もうすぐ終わりを迎えるこの旅の中で、僕は自分で決め
たいくつかのことで、小さな流れを変えてきたつもりでい
た。けれどそれすらも、さとみちゃんの言っていたように、
天にかけた祈りのその叶いに似て、どこからか返ってきた、
誰かの決めた答えの積み重ねでしかなかったと思う。
「じゃあ、中州なんてどうです?」
「中州? 別にいいけど、どうして?」
「ガイドブックに書いてましたから」
 こともなげに、風音さんは笑った。
「何か面白いことありそうじゃないですか? みんなも来
るかもしれないし」
「じゃあ、足を運んでみるかな? ああ、でもなあ。すこ
し考えてみるよ」
 決めきれないまま言葉を濁し、彼女と別れて自室へ戻る
と、小さなデスクの上には書きかけのレポート用紙と筆記
具が出したままになっていた。窓の外、列車は見る見る速
度を殺し、博多と書かれた駅名のプレートがぼんやりした
光に包まれながら至極ゆっくりすべりこんできて、奇妙な
揺り戻しと共に止まった。だらしのない足腰はその程度の
振動にも押し負けてふらついてしまう。僕は浮いてしまっ
た右足を、わざと強く、床にどしんと下ろしてやった。そ
のくだらない震動は地球の裏側どころかレールにすらろく
に伝わらず、がたんと小さく踊ったテーブルの、まだ真新
しい万年筆の向きを、少し転がせただけだった。
 
 
 
(終)
 
 
 

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