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2015年3月29日 (日)

■お漬け物の家~SS『ヤマノススメ』(前篇) -更新第977回-

 ルリビタキに会ってみたい、というここなちゃんの希望からスター
トした今回の登山は、残念ながらその願いが叶わないまま、既に行程
の三分の二が終わろうとしていた。いびつな山容がへの字を描く今回
の山は、ながく緩やかな登りを経て山頂へ至ってしまえば下りは急で、
残る山行は登りの半分ちょっとしかない。今はその山頂で、四人、昼
食を広げているところだった。

「ごめんねここなちゃん。確かにこの山で見たっていう話は聞いてき
たんだけど」

 今回、行き先の山を調べてくれた楓さんは然して悪びれもせず、い
つものレトルト行動食を口に運ぶ。山では人の思惑通りに行くことな
んかほとんどない。人間の方で山の都合に合わせるしかない。口に出
すわけではないけれど、楓さんの居住まいには、いつもそんなところ
が見え隠れしていた。

「いえ、とんでもないです。ルリビタキさんにも都合があると思いま
すから」

 ここなちゃんもそれは同じみたいで、さっぱりとした笑顔で今日も
お手製のおむすびにかぶりついたあと、沸かしたてのお湯でいれたイ
ンスタントのお味噌汁をすすった。それはつまり、都合さえ合えばあ
ちらから会いに来てくれるという心構えなのだろうか? 高い女子力
がそのまま形になったようなふわふわの髪を風に遊ばせ、ここなちゃ
んは気持ち良さそうに一度空を仰いでのびをした。今日は、慣れない
双眼鏡を首から提げて上ってきたから、いつもよりもちょっと肩がこ
わばっている気がする。
 森林を抜けてたどり着くこの山の頂には高い木がない。展望はよく
開けて、いくつかの町や山が見渡せ、頭上には空が広がっていた。体
を通り抜け、風が渡る。耳をすませばいくらか野鳥のさえずりも通り
過ぎて行くのだけれど、「今日はメジロの声ばっかりね」という楓さ
んの言葉通り、近所でメジロの全国集会でもあるのかというくらい、
ここまでメジロの姿ばかりを見かけた。

「ちょっと借してね」

 楓さんはここなちゃんが首から下ろして置いていた双眼鏡で取り上
げて立ち上がり、ぐるりと辺りを見回してみた。ここなちゃんの手に
はちょっと大きい双眼鏡だったが、楓さんが持つといくらか様になっ
て見えた。

「仕方ありませんよ……また、会いに来てみます」
「ねえここなちゃん、ほっぺにたくあんついてるよ? こっちこっち」
「え、こっちですか?」
「ね、そのたくあん、一切れもらってもいい?」
「はい、どうぞどうぞ」

 おむすびに刻んで混ぜたたくあんの欠片が、唇のすみにちょこんと
乗っているのに気付くのがあおいなら、歯並びの良いここなちゃんの
頬の中から漏れてくるポリポリという可愛らしい音が、いやに食欲を
そそると気付いたのは誰あろうひなたで、ひなたはここなちゃんが頬
のたくあんを舌先で回収しながら差し出したランチボックスから一切
れ、半月切りのたくあんをつまんで口に入れ、確かめるように何度か
口を動かしやがて目を見開いた。

「何これ、うっま! ちょっとあおい、楓さんも! 食べてみなよ!」
「そんなに美味しいの? どれどれ」
「ってかアンタそれ、ここなちゃんのでしょ」
「いいからそんなの! 減るもんじゃないし!」
「いや確実に減るから」

 今日の山行食は四人とも大体簡単なお弁当で、調理といったら湯を
沸かすことくらいだった。二段になったここなちゃんの藤編みランチ
ボックス、そのごはんの段が楓さんたちにも回され、おのおの一切れ
ずつたくあんをつまむと、ひなたと同様目を見開いた。

「ほんとだ、美味しい」
「絶妙な漬かり具合ね。自分で漬けたの? もしかして、糠から自分
で? え? まさか大根から育てたとか?」
「ちがいます、普通に買ったやつです。でも、すっごく美味しいです
よね。私も気に入っちゃって。あ、よかったら、お隣のかぶも美味し
いのでどうぞ」
「ありがとー。じゃああたしからはこの、お父さん直伝、冷めて尚お
いしい不思議な目玉焼きを上げよう!」

 目を輝かせて追求してくる二人に困った笑顔で答え、ここなちゃん
はまた自分の弁当箱が三人の間へ出かけていくのを嬉しそうに見守っ
た。そのお漬け物は確かにスーパーで当たり前に買ったものだったが、
飛び抜けて美味しいのも、ここなちゃん自身すっかり気に入ってしま
ったのも本当のことで、味も歯ごたえもしっかりしているうえ、ほど
よい糠の香りと塩味と、噛んだときに歯から顔中に伝わる小気味よい
感触と音が元気を生み出すような気がして、次に山へ登るときは必ず
持って行こうと決めてもいたのだった。
 そもそも今回のルリビタキの山登りを決めたときも、このお漬け物
が彼女の傍にあったのだった。



     △    ▲    ▲



 一週間前のその日、「帰りが遅くなる」とお母さんから連絡が入っ
てここなちゃんが夕飯の買い出しと支度を任されたのは常のことだっ
たのだけれど、掃除当番や友達とのおしゃべりが重なってしまって学
校を出るのが遅くなってしまったことはいつもと違っていた。それで
も買い物を済ませて家に戻り、母の帰宅に合わせて風呂を沸かしてお
膳も立てて、二人で座卓に向かい合い「いただきます」と手を合わせ
たら、互いに一日の出来事をとりとめなく話すのはいつもと変わらな
かった。ただもう一つ、
「ちょっとテレビつけてもいい?」
と、時計にちらりと目をやったここなちゃんが切り出したのも、いつ
もと違ったことだった。
 ホワイトシチューの鶏肉を口に入れたばかりだったお母さんが、も
ごもご動く口元を手で隠しながら小さく頷き、ここなちゃんは部屋の
隅まで這っていって主電源を入れる。特にルールがあるわけではない
のだけれど、普段二人で食事をするとき、リビングダイニング--と
いえば聞こえはいいが、ただの畳の居間--の隅にあるテレビがつけ
られることはあまりない。
 そのテレビのチャンネルをいくつか送ったその先にいたのが、ルリ
ビタキだった。
 鮮やかな青い羽根を日の光にきらきら濡らせ、朝露をついばむよう
なチュクチュクと声を立てる愛らしい瑠璃色の小鳥を見て、ここなち
ゃんは食事中であることも忘れて思わず「わあっ」と歓声を上げた。
「あら、きれいな鳥ね」
「うん! とっても……」
「また、探しに行ってみるの?」
 お母さんがお漬け物を盛っている小鉢にかぶせてあった蓋代わりの
お椀を取り除けてみると、いつもならたくあんの盛ってあるスペース
が、ぽっかり空いたままになっている。他の白菜やかぶといった白い
野菜のお漬け物も、今日は半分ほどしか盛られていなかった。しっか
りものの娘にしては珍しく切り忘れたのだろうかと、ここなちゃんが
テレビに気を取られているすきに座布団を立ってキッチンへ向かいは
したものの、そうすると今度は、いつものパックのお漬け物が冷蔵庫
の定位置に見当たらない。
 ねえ、ここな? とキッチンから振り返ると、しっかりもののはず
の娘の瞳と心は、テレビの向こうの青い鳥が、さえずり、羽ばたき、
ピントを外れた緑の木漏れ日が丸いぼけを作る中で、何をするでもな
く、ただ宿る姿にすっかり釘付けだった。
 確かに、ルリビタキの青色は美しかった。砂漠の岩の中から掘り出
される宝石の色に似たその鳥が画面に現れた瞬間から、クラスのお母
さん連中にも評判の娘の大きな瞳は、その羽根の色一色に染まってい
る……今はその視界から外れてしまった母にも、娘の胸の、うずうず、
うずうずとした高鳴りが伝わってくるようだった。
「いいな、いいなあ……」
 山の生き物のことになると、それもまた珍しいことではなかったの
だけれど、その日の娘の様子が普段と少し違っているように、お母さ
んには感じられた。
「ああ」
 ルリビタキの出番が終わり画面がパッと切り替わると、ここなちゃ
んは糸が切れて大事な凧が風に巻かれて飛んでいってしまったような
声を漏らして我に返った。ものの数分、番組は山の野鳥と木々との関
わりについてのものであったので、ルリビタキの出番はさほど長くな
かった。ナレーターの口ぶりでは、この先も出番は多くなさそうだっ
た。
「あー……。お母さん? あ、お漬け物?」
「ああ、いいのよ、お母さんやるから。それより、ここな」
「ううん、ちがうの。ごめんなさい」
 ちがう?
 ごめんなさい?
 何が違って、何を詫びなければならなかったのだろう? 察しの良
い娘は、自分がお漬け物用の鉢を持っているのを見て座布団を立って
来てくれるが、それよりも、お母さんは自分の中で繋がらないアンバ
ランスな言葉に一瞬膝がぐらつく思いがした。
「今日ね、友だちとおしゃべりしてたら特売のお漬け物売り切れちゃ
ってて。いつものスーパーのお漬け物じゃないの。小売店の方のお漬
け物屋さんで買ったから」
 そんなお母さんの様子には露も気付かず、キッチンに追ってきたこ
こなちゃんは冷蔵庫の普段と違う段から大きめのタッパーを引っ張り
出した。
 んっ、と踏んばらなければ、タッパーの蓋も開けられない。その力
加減も間違って、勢いよく開いてしまったタッパーに二三歩よろける。
中には、普段買っているパックのお漬け物のゆうに倍はあろうかとい
うほど立派なたくあんが丸々一本と、これまたごろりと立派なカブの
塊がけだるげに横たわっていた。
「そうだったの。それじゃあ、ちょっとだけ贅沢気分ね」
「ううん、それがね、お店のおばあちゃんがおまけしてくれて、随分
安くついちゃった」
「そうなの?」
 サイズだけを見れば普段の倍はあるから、値段が倍でなければそれ
だけでも安上がりなのかも知れない。曰く、その大きなかぶのお漬け
物は丸々おまけなのだと言うから、安いどころの騒ぎではないのでは
なかろうか。しかしそうなると、そんな侘びしい嬉しさの影で、果た
して何が「ごめんなさい」だったのだろう。
 それでね、とここなちゃんは続けた。
「あんまり美味しそうだったから、先にちょっとつまみ食いしちゃっ
たの。ごめんなさい」
 取り出したまな板にたくあんとかぶを寝かせると、なるほど、既に
どちらもへたの部分を落とした跡がある。さしずめ、切って鉢に盛っ
て出そうとしたところ、つまみ食いを済ませたところで満足してしま
ったというところだろう。
「なんだ、そんなこと」
「えへへ」
 すいすいと包丁を無理無く引き、たくあんもかぶも、見るからに歯
応えの残る厚さに切り並べると、ここなちゃんは器用にそれを刃の腹
に乗せて鉢の中へと滑らせた。スーパーの特売真空パックにあるよう
な、漬け物らしい味や風味を材料に与えるための不思議な液体に濡れ
ているのとはどこか違う、糠に磨かれたつやつやとした輝きが、黄色
と白に加わっていた。
「はい、お母さん」
 食卓に戻り、鉢を傾けてひと箸目を譲ったあと、ここなちゃんは自
分でも一切れ、また一切れと、漬け物を箸で摘んだ。ぽりっ、ぽりっ、
とひと噛みごとに残る音の余韻が、彼女の歯の健やかさをくり抜いて
見せている。健康第一。テレビではさっきの番組が続いていて、たく
さんの野鳥が短い時間で入れ替わり紹介され、中にはいま切ったばか
りのたくあんとかぶの漬け物のような、黄色、つややかに光る白い鳥
もいる。ここなちゃんはそれら他の鳥たちにはあまり興味が持てずに
いるようで、あまりに鮮烈だったあの青い鳥がもう一度テレビの画面
に現れるのを心待ちにしながら、また出るかな、もうおしまいかなと、
よほどその漬け物の味も気に入ったのか、それともただ手持ちぶさた
なのか、ポリポリ、ポリポリと、かぶとたくあんを交互に口に運んだ。

 結局ルリビタキの出番は、最初のその数分だけと、最後のエンドテ
ロップで一カット挿入されただけで終わった。
 食後は、二人並んで流しに立つ。お母さんが流し、ここなちゃんが
拭き上げる。調理器具などは作りながら洗ってしまっていたから、あ
るのは二人分の食器類だけだった。
「ここな。今、なにか欲しい物はない?」
 シチューを食べるのに使ったスチール製の、銀というよりも黒と灰
色の間に近いくすみを有したスプーンの泡を流すお母さんがここなち
ゃんに訊ねてきたのは、要るものではなく、欲しいもの。些細な言葉
の選び方の違いかも知れないけれど、訊ねる調子がなんだか少し叱ら
れているみたいで、きちんと答えないと良くないような気がして、唐
突な気はしたが理由は尋ねなかった。
「うーんとねえ、ヘアピンと、靴下かな? また、穴あいちゃって」
「また?」
 ここなちゃんは靴下によく穴をあける。山で使う物は言わずもがな、
普段履いている物でも、たくさん歩くからなのか、あるいはたくさん
歩くせいで足の裏が堅くなっているからなのか、同級生や母よりもよ
ほど頻繁にだめにした。楓さんからは「あまり決まった場所にだけ穴
があくようなら、歩き方に偏りがあるのかも知れないわね。それって
疲れを呼び易いから気をつけた方がいいわよ」と教えられていたから
気を付けているつもりなのだけれど、あまり気にし過ぎるとかえって
歩き方がおかしくなっているのではないかと不安になることもあった。
 申し訳なさそうな、照れくさそうなここなちゃんの告白を聞いて、
お母さんは呆れて笑った。最後のお皿を流し終えてかごに上げれば、
あとは娘の領分だ。手の水滴を拭って、さっきのスプーンを念入りに
拭き上げていた娘の頭をぽんぽんと撫でた。
「はい、了解。じゃあ、ヘアピンは好きなのを買ってきなさいね。靴
下はお母さんに任せてもらっていい?」
「うん」
「行くなら気を付けるのよ」
「え?」
「ルリビタキ。会いたいんでしょ?」
 髪に触れたお母さんの手には、まだ若干湿りが残っていた気がする。
「うん。みんなにも相談してみる」
「そうね」
 スプーンのくすみはこれまで使い続けてきた中で表面についた無数
の小さな傷によるもので、布巾でいくらこすってみてもきれいになる
ものではない。二、三度拭ってのぞき込んでみたら、妙にきょとんと
した自分が映っていたのだけれど、ふとテレビの青い鳥の声と姿を思
い出すと、スプーンにぼんやり映った頬は、丸くたわんで優しい微笑
みになった。



     ▲    △    ▲



 あくる日の学校での休み時間、図書室でコンピュータをいじってい
たら小峯くんから声をかけられた。あおいとひなた、そして楓さんの
三人には、昨日の夜のうちに、どこか近くでルリビタキの見られそう
な森や山を知らないか、あわよくば週末にでも一緒に出掛けないかと
布団の中からメールを送ってあって、自分でも調べてみようとパソコ
ンコーナーに足を向けたのだった。
 ここなちゃんとクラスが同じの小峯くんは、体は大きいが運動部な
どに入っているわけではなく、どちらかといえば物静かな男の子で、
あまり話をしたことはなかったけれど話すことに怖さや難しさを感じ
させるところがない。インターネットの検索ページを開き、ル、リ、
ビ、タ、キ、と、それだけで思わずにんまりとしてしまいそうになる
のをこらえながら名前を打ち込んだ。生息場所や目撃情報だけを見よ
う、動画や写真は見始めると止まらなくなりそうだから避けようと心
に誓っておいたのにどうしても誘惑に勝てず、ちょっとだけ、ちょっ
とだけと言い聞かせながら開いた写真のページの三つ目のリンクを押
してしまい、いけないいけないと頭を振ったときに、大柄な小峯くん
のシルエットが視界の隅にあるのに気付いた。
 蔵書の検索端末の列に並んでいた小峯くんは、一度何かを気にする
みたいにふっとここなちゃんの方を振り返り、目が合うとまたすぐ視
線を前へ戻して、自分の番になるとあっという間に検索を終わらせて
しまった。そうして踵を返すと、ここなちゃんのいるパソコン席へや
ってきた。
「青羽。珍しいね」
「えっと、うん。小峯くんはよく来るの?」
「うん、まあ、ごく稀にだけど」
「そうなんだ」
 小峯くんの言う通り、ここなちゃんが学校の図書館を利用すること
は多くない。たくさん本を読む方ではないし、今日みたいに何か特別
な用事でもない限りは足が向かない、それはその通りなのだけど……
と、答えも返事もなんだかちぐはぐなそのやりとりのうちにあれっと
思うものを感じ、ここなちゃんが考えを一瞬止めたのと、小峯くんの
視線が、すっとパソコンの画面を気にしたのとがほとんど同時だった。
「その鳥、ルリビタキっていうの」
「ああ、うん。綺麗だね」
「知ってるの? 私、本物を見てみたくなっちゃって」
「青羽、山登りしたりするんだっけ。どこかあてがあるの?」
「それを調べに来たんだけど、見入っちゃった」
「ふーん」
 気のなさそうな小峯くんの返事がこしらえた沈黙には、どこかむず
むずする成分があった。ここなちゃんは一度画面に向き直ると手持ち
ぶさたに二、三回マウスのボタンをかちかちと鳴らしてみる。右のボ
タンをクリックすると現れるいくつかのメニューはあまりちゃんと使
ったことがない。それを出しては消し、出しては消しして、小峯くん
をのぞき込むように首を傾げた。
「どこか、知ってる?」
「昔のことだから、あてになるかわからないんだけど。電車でちょっと
行くんだ、日帰りで行って帰って来られるくらい」
「もしかして、見たことあるの?」
「一回だけ。小二か小三のとき、親戚のおじさんにその山へ連れてか
れて」
「本当? すごい! その山の名前っておぼえてない?」
「おぼえてるよ。確か……」
 物静かな小峯くんの胸か肩が、いつかの体育の時間、男子は五十メ
ートル走、女子は走り幅跳びで、校庭の隅にある砂場からほとんど対
角線の反対側に設けられたスタートラインに立つ小峯くんに見た、両
手を砂についてお尻を上げるクラウチングスタートの構えをとる直前
のようにぐっと前に張り出した気がして、ここなちゃんは我知らず膝
と膝をそっと寄り合わせた。それでも小峯くんの話す調子はほかの男
子と同い年とは思えないくらい訥々と流れて、ここなちゃんはうん、
うんと、邪魔にならないように相槌を入れる。
 つっかえながらでもどうにか出てくる、山の名前、駅の名前、だい
たいの道のりをメモに取り、パソコンの地図でもかちかちと、ふたり
してその場所や風景を確かめてみた。
「そうだね、ここで間違いないと思う」
 話の途中で、一度ここなちゃんの携帯電話が震えた。ブーン、ブー
ンと組み紐を縒り合わせたような中太の振動が図書館の小さな空間に
広がったので、断りを入れてから慌てて電話機を取り押さえてその小
さな液晶窓をあらため、またしまい込んだ。
「ありがとう、もう少し調べてみるね……どうかした?」
 マウスを奪った小峯くんが慣れた手つきでホイールをくるくる送り
ながら「あ」と呟いたから、ここなちゃんも釣られて訊ねてしまう。
「ん、なんでもない。結構きつい山だった気がするから、行くなら気
を付けて」
「うん、ありがとう」
「青羽、一人だとときどき意固地だし、誰かと一緒だと気を使いすぎる
とこあるだろ」
「え、え? そうかな……」
「それじゃあ」
 大きな背中が遠ざかり、入り口近くにある新しく入った本と返却さ
れたばかりの本が並ぶ書架の向こうに消えるとき、また一瞬だけ、さ
っきのようにむずむずした時間を作って立ち止まった気がしたけれど、
今度はそのまま隠れて見えなくなり、やがて小さく、扉の開け閉めさ
れる音がした。
 なんだか不思議な気分に包まれながら、いすを回してパソコンに向
き直ると、眩しすぎる夏山の緑をバックに双眼鏡を覗く知らないおじ
さんと、ルリビタキの写真が並んで映し出されている。それよりもと
ここなちゃんはマウスではなく携帯電話を取り直した。先ほどのメー
ルの送り主は楓さん。パカリと開いた液晶画面には、小峯くんに聞い
たのとは違う山の名前が記されていた。
 
 
 
     △    △    ▲
 
 


                            (続く)

 

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