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2015年3月21日 (土)

■流浪する疑問の魂~表現の自由の話とか -更新第976回-

最近、
何者でもない自分が、何者でもないままでいられる場所がものすごく安心する。
とても落ち着くし、安心するなあとしみじみ思う。

世間は、自分に対して何者かであることを要求してくる。
何者でもないはずの自分に、何者かであること、かりそめにでも何者かになることを。

Dsc08322


そういうことから解放される場所として、近頃は世間一般的にも、
山とか森の自然の中とか、手近なところで町なかのカフェなんかがありがたがられてるんじゃないかなあ……
とか思う。

家にいたら家にいたで、家の主である自分とか、家族の中の自分とかであることを、
場やものが要求してくる気がして。

自分のものでない、自分のもののない場所。
遊牧民、ジプシーみたいに。
大きな大きな大きなものの中にある、何でもない自分。

だから、自分のものではない、自分のもののない場所、
だれのものでもない場所(が本当は一番望ましいのだろうけど)に出て、
そこで外殻に何のテクスチャも張り付けない、
何も持たない素体の自分でいると、途端にとてもボーッと出来て安心する。
最近、そういう時間がすごくありがたい……。

公園のベンチとか、コンビニのイートインコーナーとか、
見知らぬ施設のロビーとか。
意図のいらない、
そういう場所でうたたねをしたり、ふっと意識を広げると……とても安らぐ。

どっか、心の具合が悪いのかねえ、自分。

まあ、遊牧民やジプシーだって
どこかに軸や極を持っていて、責が実際に歩かないかは別にして、
自らに課して生きているに違いないのだけど。


ども、オイサンです。
最近、「どっか行って来たぜウェーイ」みたいな話ばっかりだったので、
今回は心に移り行くよしなしことを述べ立てるだけの、
ザ・日記回。



●○● 英語と疑問 ○●○



最近、シゴトバで受けている英語研修がたのしい。
会話の授業と、文法の授業があるのだけど、特に文法の授業がたのしい。
ちょうたのしい。

知りたいこととかききたいことが自然とボコボコ生まれてきて、
授業中も質問しまくりになる。
たのしい。

「分からないこと・疑問に思ったことは質問しなさい」とは、
普段の暮らしの中でも言われるけれども、
「不明」であることが「疑問」へと結びつく流れを自分の中に発生させられることも、
一つの才能……ではないけれど、
なにか、一種の力によってなされているものなんだな、と実感している。
興味のないものは、「不明であること」が出てきても
「そういうものなんだ」と無意識に結論が結ばれてしまって「疑問」にならない。
それは故意に送り込んでいるわけではなくて、
放っておくと無意識にそれで納得してしまっている。
強い意識を使って、ある意味「無理やり」疑問に仕立て上げないとならなくなる。

「疑問」とは既に、「不明」という状態に主体性がともなった一つの「姿勢」なのだなと気付いた。
そこには意思が介在しているんだ。
「分からないこと」の全部が「疑問」にまで育つわけではなかった。

「不明であること」を
「そういうもんなんだ」と思ってしまってチャートがそこで終わってしまう場合と、
「どうしてそうなるんだろう?」にまでチャートを進められる場合とで
何が違うのか分からないが。

「不明であること」にぶつかった時、
そのシッポにちょろっとだけ伸びた次への手がかりに対して、
オイサンの場合、語学でないものは無意識にぶった切ってしまっているだけなのか、
はたまた語学のときに目聡く見つけやすい脳みそになっているのか……
なんとなく、語学という背景があることで
「そこには何か、理由や意図や、歴史があるはずだ」と、
私の脳みそは強く確信を得るのだろう。

それを人は「興味がある」と称するのだろうけど。
語学をやっていると、明らかに
「む、なぜだ?」「ではこの場合はどうだ?」と、
ぐりっとおかしなダイヤルが頭の中で回る瞬間、感触がとても多く発生する。


「疑問」にならないものに対して、意識的に追及を薄くしているわけでは、決してない。
気を付けていても、気が付くとそれらは過ぎ去っているし、
そこに疑問点・不可思議なポイントが存在していることに気付けない。
……不思議なものだ。


いずれにしても、英文法の授業たのしい。
ちょうたのしい。
知りたいこと、面白いことが一杯だ。
そこには情緒が多数存在している。
理屈で追いきれない、感情と感触の歴史とが超多重に作り上げた、
人間の心の地層をスパッと切って断面を眺めるような面白さと楽しさが、
言語にはある。
温度と湿度のかたまり。

質問をする。
先生にだってわからないことが山のようにある。
言葉の問題なのに、言葉では説明出来ない、体系立たないことがいっぱい隠れている。
その理屈でないことの、気持ちの部分をなんとなく理解できる時が一番うれしい。
言葉はツールじゃない。
通じればいいってもんじゃない。
感情の歴史そのものだから、大事に美しく扱う必要がある。
たべものとおなじだ。

英文法楽しい。ちょうたのしい。
前置詞がなー。難しいよなー。



●○● ペンケースが見つかった ○●○



ここ数週間、行方知れずになっていたペンケースが帰ってきた。
見つかった場所は、オシゴト相手の会社のオフィス。
前の打合せのときに置き忘れたらしく、
「そのままずっとそこに置いてあった」
……と先方の方は言っていたのだけど、
中を見てみると、自分のものではないシャーペンが一本増えていた。
同じように置き去りにされたものを、誰かが気を利かせて入れてくれたのだろう。

  その子はそこに置いてきた。
  一緒に迷子になり、しばらく同じ施設で過ごしてきた子をひとりだけ見放してきたような、
  なんだか気の毒な気もするけども、そうせざるを得ないだろう。

ケースは、いつか実家に帰ったときに地元沿線の駅で買ったちょっとかわいい布性のもの。
地元らしく鹿のシルエットがうっすら描かれている。

中に入っていた筆記用具類は大概がありきたりのものだけれども、
一つだけ特に思い入れがあったのは、この『エヴァ』のシャーペン。

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ただのキャラグッズのくせにえらく頑丈で、20年近く前にアニメイトで買って以来まだまだ現役。
軽いのに持ち味もよく、帰って来てくれて良かった。

  何となく、就職活動のときに初めてやってきた関東の、アニメイト池袋で買ったもの、
  という記憶が焼き付いていたのだが、
  これを機に記憶を揺り起こしてみたらどうもそうではないっぽい。
  最初に買ったのは関西にいた頃で、
  同じものをあとからまた一度、アニメイト池袋で買った、という方がどうも辻褄が合う。
  色々忘れているものだな。

行方をくらませて以来、ずっとペンケースのないままやりすごしていたのだけど、
こないだテストがあったのでさすがに何かないと便利が悪く、
なんやかや、もとのケースの内容を再現+αするくらいに買い揃え直したところだったので
ちょっと間が悪かったけど、マ別に、二つあって困る物でもなし、
帰って来てくれてよかった。



●○● 自由に表現する権利 ○●○



ここんとこ、ぽちぽちと表現の自由に関する話を見かけることがあった。
なんかきっかけがあったんだけど、マその辺とは直接関係はない、
もう少し一般的な話。

なんというか、「表現の自由」、「自由に表現を行う」という権利が、
アタカモ直接的な表現を携わる人たちが表現するときだけに働いていて、
それをしたい人たちと、
その(過激な)表現者たちから身を守りたい人たちの丁々発止、みたいになってる気がしたのだけども、
果たしてそれでいいのか? と、考えておった。

えーと、自由に表現を行う権利は、
……いまさら改めていうほどのことでもないとはわかっているのだけども……
別に、直接的に表現を行う人たちのためだけにあるわけではない、
もっといえば、直接表現者を守るために主としてあるものではなくて、
それを受け取る人たちの利便性を守るためにもあるんだよなあ?
というのがオイサンの考えなわけです。

  マ実際、法律というか、その権利の理念の出発点がどこにあったかはよう知らんけど。

自由に表現することの権利が守られていることで、
自分が直接的に表現する立場にいない、
主に表現物を受け取る側の立場で暮らしている人たちも、
何らかの恩恵に浴している。



……と、思う。



……うん。思うのですよ。



その権利が守られていることで、あまたの表現の中の
何かが「より分かりやすい」であるとか「より面白い」であるとか。
「より深く」「より直観的に」「より強く」理解できる、意識できる、とか。

  その利益・利便を、言語化や視覚化することはとてもとても難しいと思うのだけど。
  「自由に表現することの権利」が守られていない世界を別でもう一個作って、
  比較でもしてみないと。

そういう「良さがある」こと、「そういう恩恵を受けている自分」は、
なんとなく分かってもらえるんじゃないかなあ、と思う。
「チョットナニ言ッテッカワカンナイ」というんであれば、
これ以上読んでもらってもあんまり実りはないと思う。

デそういう前提で話を進めると、
デあれば、「主に表現物の受け手として暮らす人たち」も、なんというか、
自分たちの利益を守るために、
「受け取るときに細心の注意を払って、『出来るだけ』積極的にその自由が守られる」ような方向性で、
受容の仕方を考えた方が、あとあと、色々嬉しいんじゃないかな?
という風に思うわけです。

ただ、あの、先に言っておくと、だからといって
「多少気に食わねえ表現があるからっつってガタガタ抜かすんじゃねえ
 大義のためにはそんくらいガマンしろよしみったれヤロウ」
とか言う気はないのでご安心下さい。
耐え難い不快感を感じるものまで、権利の保護のために我慢して許容せえ、
なんてのはおかしな話で。

ただその『出来るだけ』が曲者で、まあ、それはもう匙かげんでしかなくて。
別にね、自分がイヤなものをものすごくガマンしてまで「クッ……表現の自由のためだ!」
って、キライなニンジンをゴックンするような顔をしてまで
することではないとは思う。

  それはなんていうか……「権利」が「人」の上に立つ結末ですから。
  本末が転倒している。

なんていうのかなあ。

たとえば自分の中で、許容:不許容=49:49で迷った時に、残った2票をどっちに入れるか、
っていう話で、
「自分にとってどちらでも良い話なら、守られ、広がる方向に働きかけよう」
くらいの気持ちで良いと思うのですけども。
マもし出来ることなら、49:51とかの、
「まあ……あんまり見たくはないけど、こういうのも必要だよね」
っていうものに対しても「アリ」のボタンを押して上げてくれるといいと思うけど。
その辺の線引き・さじ加減は程度とキャパの問題。

例によって何が言いたいのかわかりにくい話になったけど、
あまりにも「表現の自由」が「表現者のためだけ」みたいに捉えられて
悪者にされているように見える瞬間がポチポチあったから、
そうじゃないでしょってことを言いたかった。

大きく言えば「文化の・表現の多様性」を守るために当然あるのだけど、
その書き方でもやはり「表現する人」のことしか守ってないように見えがちだから、
ハッキリと「その権利によって見る人にも嬉しいことがある!」っていうことを言いたかった。

マ繰り返しみたいになるけど、
だからと言ってそれをカサに着て受け手に忍耐を要求するのはアレなので、
お互い広い心を持ちたいものですね、っていう話でしかないんだけど。

毎度、玉虫色のツマラン結論ですね。
はいはい、退散退散。
つるかめつるかめ。
 
 
 
マそんな感じで一つ。
オイサンでした。
 
 
 

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