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2014年3月 8日 (土)

■春、はらはらと。 -更新第911回の3-

つづき。


◆三の段 読むことと書くことの不親和について



あたしは大学を出るまでほとんど活字の本なんか読まない人で、
それでも中学の頃からまあおもちゃみたいなものではあるけど文章を書くことをやっていて、
それを見た読書家の兄などには、読みもしないのによく書けるな、と
揶揄気味に言われてきたものだけれども、これには二面の話が隠されている。


一面は「読まなくても書くことは出来る」であって、
もう一面は「読まなければ書けない」である。


書きたい題材、内容、物語、テーマさえあれば、
書くこと自体は(少なくとも日本の義務教育を卒業する程度の日本語の理解があれば)出来る。
これはもう、動機、衝動の問題でしかないと思っている。
書きたいと思う主題を見つけることの出来る耳目とこころ、
それらを持ち合わせることが出来るか、育むことが出来るかという問題。
細い視線と、張りつめた鼓膜、
それと、そうして拾い上げたものを染み込ませ挟み込んでおくための、
こころに大事に残しておいた亀裂、隙間があるかというだけだ。

同時に、その「表したさ」が、文字・言葉・文章へ向くか? という問題。
別に文章でなくとも、絵画や音楽、スポーツ、料理、さらにダイレクトになるならば性行為に暴力、
媒体はいくらでもあるわけで、それらの中で文章でなければならない理由に、
如何にシンプルなものであれ、たどり着くことが出来るか。

以上の様な面においては、兄が口にしたような「読まなければ書けない」という思い込みは的外れで、
書くことと読むことはあまり関係のない事柄であるわけだ。
無論、どういう人物を登場させるかとか、どういう流れで書くかというような、
基本的な骨子の作り方は「書きたい」だけでは手の中には生まれてこないけれども、
それは活字の本を読んだからといって身に付くものでもない。
テレビだろうが漫画だろうが絵本だろうが、
物語のあるものに触れていれば、ある程度は衝動とセットで芽生えているものではなかろうか。

  むしろ、そういうノウハウさえ、不必要というか
  そういう衝動の前では不純物である場合もあると思うが。
  衝動そのものが形を成すことが魅力になる場合もあるので。

ただし、書きたいように、伝えたいことが伝わるように、
頭の中で思い描いていることが、納得のいく形で表に出るように書けるかは別だ。
これが二面目の問題、「読まなければ書けない」方の問題だ。

上で書いた一面目の問題では、
その気さえあれば、不完全ではあるかも知れないけれども、
画に例えるなら初期の頃のテレビゲームの画像の様な大きなドットで
人間らしきものがヒョコヒョコと動く絵を描くように文章を書くことは出来る、
ということだ。

ところが、
自分が頭の中で思い描いている事柄をその通りに(それに近付けて)表現することが出来、
且つそれが他者に伝わるように(伝わっている手応えの得られるように)書き著すことが出来るか、
ということになって来ると、「読まずに書く」ことは難しくなってくる。
単純な語彙の量……知識の蓄積に始まり、
文章の構成、文脈の引きかた、リズムの構成の仕方などなど、
読みやすく、
面白く、
且つ美しく、と、
自分の理想や欲望が膨張していくほどに、必要な「経験」も増大していく。
これはもう……「経験」するしかない。
ここでいう「経験」は読むことと同義で、より多くの文章のかたちに触れて経験していく、
ということだ。
表現の引き出しを増やす。

もちろん本来の意味の経験も重要で、皮膚に触れたその感覚を如何に言葉に置換していくか、
言葉一つの問題でもなく、
言葉同士のつなげ方、格闘ゲームで言うところのコンボの構成みたいなものが大事で、
かつその置換の方程式がより多くの(或いは自分の文章が標的とする)人間にとっても幸せなものであるかの精度は
経験の濃さにも依ってくる。

ただ、表現の内容によっては経験のしようのないもの、
たとえば架空の世界での出来事などは想像力で生み出すしかないので、
想像上の感覚をいかに皮膚の上に再現するかという力がそれに置き換わる場合もある。

話が逸れた。

上で「表現の引出し」と書いたけども、それも大づかみすぎるので、
「文房具」くらいまで細かくした方が良いかもしれない。
土台となる台紙の大きさ、風合い、色合い、柄、
そこに貼り付ける紙の種類、書き込む筆の太さに筆運びの力加減。
その選び出せる、各段階でのパーツの種類(あるいはパーツのカテゴリそのもの)を増やすのに必要なのが
「読む」ことだと思っている。


とまあ、分かり切ったようなことを書き連ねてきたのだけれども、
やはり一面目の問題にしても、本当に書ければ何でもよい、ぐちゃぐちゃで良い訳はなくて、
最低限自分を満足させる程度の表現力や技量は必要になってくる。
その段階で
「自分が理想とするところの表現のかたち」と
「その時点での自分が描き出せる文章の実際」とに乖離があり過ぎると、
その時点で経験の積み上げを行う必要が出て来てしまうし、
見えているのに書けないことはやはり大きなストレスではあるので、
そこで諦めてしまうこともあるだろう。

「とりあえず書き始める」ためには、
書き始めの時点でその二つのバランスが取れていることが重要なのだろう。

とここまで書いてみて、なるほど、
「自分も書きたい」という欲求を持ち合わせる読書家の多くが
書けずに読書家で終わってしまうことの仕組みが、なんとなくわかったような気がしてきた。
多くを読み、多彩な表現のアイテムをコレクションしてきているにもかかわらず、
それは自分で使うための「道具」としてではなく「鑑賞の記録」としてであるが故に、
いざ自分で書こうとしても理想の姿ばかりが先に立って書きたいものの姿に近付かれず、
悶々として終わってしまう、のではなかろうか。
集めたアイテムを使いこなせないのか、使うことを思いつかないのかはわからないけれども。

幸運にも、自分はその段階で躓くことがなかった。
ほとんどまともな文章など読んだことがなく自分の拙さ
(拙いと表すのもおこがましいくらい体裁すらなしていないものだった筈だが)に気付かずに済んでいたか、
よしんばそれがあったにせよ、高いものを自分に課さなかったか、そのいずれかで。
自分では後者の割合が高いように思う。


なんでまたこんな面倒くさいことを言い出したかというと、
一つの言葉を説明しようとして、本当にその説明であっているかなあ?
と疑問に思って調べ直したときに、
なんというか、自分には日本語使いとしての下地というか、
バックボーンが非常に希薄なんだよなあとうかねてからの寄る辺なさがのたりと鎌首をもたげたからなのでした。
古典の名作とかも全然読んでないしね。

今からでも大学に入り直して、文学研究とか。
美術としての日本語を勉強したいとか。
思わないではない。
思わないではないんだ。


つづく。
 
 
 


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