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2013年6月 1日 (土)

■去りし日の美しさと思い出のかなしみを一杯の珈琲とともに。~OVA『ヨコハマ買い出し紀行』感想など -更新第868回-

先々週の週末のお話。
二人のツイッターフォロワーさんに連れられて、
三浦半島の方までクルッとロングドライブしてきました。
オイサンです。

なぜ三浦半島かというと……
『ヨコハマ買い出し紀行』という漫画の舞台になっておるからです。
そのお二人が、『ヨコハマ』の大ファンでおられる。

  マ大ファンという言葉で片付くのかどうか、ソウルフード的なアレです。
  恐らくは、彼らの「オタク」としての人格の根幹を成す礎と呼べるレベルのものだと
  オイサンは推測します。

オイサンは、確か兄貴がその漫画好きで、
実家には揃ってた筈なんですけれども手を付けたことはなく、
パパさん……あ、パパさんて言っちゃった、マいいや、
パパさんと知り合ってからお借りして読んだのですけれども、
さらに最近になって、そのOVA版のアニメをお借りして見たのです。


P5181326


なのでまあ、そのときのお写真を交えつつ、OVA版の感想を中心に、
『ヨコハマ買い出し紀行』全般についてちょろっと書いておこうかなあ、というのが
今夜の趣旨でございます。



■OVA『ヨコハマ買い出し紀行』の感想



先ず全体的な感想から述べると……
このOVA二作品を見たことで、
原作コミックスを一通り読んだ上であまり上手くつかめていなかった
『ヨコハマ買い出し紀行』という作品の姿をようやくつかめたような気がする。

  マそれが、世の『ヨコハマ』ファンの方々の考える像と一致するかは
  かなり自信がありませんが。
  なんかまた生粋の方々からは怒られそうな感想を抱いているような気がする。
  マその辺はしゃあねえ。ご容赦しやがれこのヤロウ。

かといって、このOVA二作品が原作になかったことを独自の解釈で描いていたり、
分かりにくかったことを噛み砕いて描いてくれたのか? というと、
ことさらそれもなかったと思う。
どちらのOVAも、原作に存在する要素に忠実に、
原作にはなかった音や動きや色という要素をうまくサンプリングして与えようとしている、
様に思えた。
オイサンの見る限り。

「自分以外の人が、原作をどういう風に読んだか?」
という二つの例が、言葉ではなく作品として再構成されるという形で提示されたことで、
「他の人(=このOVAを作った人たち)はこう読んだのか、そういう読み方か」
というコトが見えた、という感じです。

  競馬好きの人が作った競馬ゲームをプレイしてみて、
  ようやく競馬の面白さがわかった、みたいな、そんな話。

面白かったのか、面白くなかったのか……そういうきかれ方をすると困ります。
「原作のファンにはオススメ!」っていう、
某有名ゲーム雑誌のクロスレビューでおなじみのフレーズは出てくるけど、
オイサンがこの映像からことさら感動や喜びのようなものを得たかというと、
それはなかったです。
ただ、先に書いたような「あ、こういう作品だったのか」という発見はあったので、
今一度原作を読んでみよう、そしたらもっと楽しめるかも知れない、
という気にはなっている。



■何が分かっていなかったのか



サテ、のっけでイキナリ
「『ヨコハマ買い出し紀行』のことをつかめていなかった」と書いたのだけども、
ではこの『ヨコハマ』OVA版を見て、オイサンが一体何を分かったのか?
という話をする前に、
「何を分かっていなかったのか?」
ということからちゃんと書いておこう。そうしよう。
「作品が分からないって、ソレどういうことよ」
という疑問もあるでしょうから。

……まあぶっちゃけると、
「何を描こうとしている作品なのか」
「作者が一番見せたいものがなんだったのか」
が、先ず分かってなかった。

  それ全部じゃないですか、とか言わない。その通りだから。

別にね、テーマとかメッセージとか、そんな大袈裟なものとも考えてはないんです。
すべての作品にそんなモンが与えられていると思っているワケでもないですから。
ただ、作者が読者に、どういう楽しみ方をして欲しいと思って描いた作品であるのか、
読み手にどういう感情を起こさせることを考えたのか、
作者自身、このお話を思いついたときにどんな気持ちでいたのか……。
キレイな作品なのか、汚い作品なのか(=キレイさを伝えたいのか、汚さを伝えたいのか)?
うれしい作品なのか、悲しい作品なのか?
全編通して読んでみても、9割方、そんなことが分からない作品だったワケです。



■分かったこと



『ヨコハマ買い出し紀行』、
あらすじなんかは省きますけれども、
この作品の世界には大きく二つの層が存在する、とオイサンは考えている。

一つは、過去に起こった「終末の始まり」という大きな変化によって
多くのものが失われたという意識の層。つまり、破壊による喪失感の層。

もう一つは、世界が終わり始めて結構な時間が経過し、
諦観によって安定し始めている意識の層。
いわゆる、作中で「とろとろ」とか「てろてろ」とか表現される、
比較的穏やかな意識の層。

  それはフツーに読んでおって伝わってくるハナシで。

この二層のうち、オイサンは前者こそがこの「作品の」根底、
作者が表現しようとするものの根底であって、
後者は表層や上澄み、
前者を伝達するための媒介でしかないと思っていたのだけれども。
実はそれがそうではなかったことに、今回のOVA2作品を見ていて気が付いた。

  実際、作品の中の「世界」では、前者の空気が大勢を占めているのだと思う。
  あの世界に暮らす「人々」の心の底には、
  終末の訪れという大きな衝撃によってなぎ倒された、
  心という木の幹の切り株がどすんと居座っているのだろうし、
  その根も少しずつ腐っていってはいるはずだ。

すなわち、原作においてほぼ語られない「終わりゆく」ということそのものの方は
表現の上では実はうわべであってあくまでも「設え」或いは「下拵え」に過ぎず、
この破壊と喪失のあとの世界の風景を、
もっと純粋に美しいと受容する感性をこそ、
この作品において提示したかったんだな、と今回改めて理解した。

「終わりゆく」という大きな時間の流れの中の、
「今」という時間に一瞬現れる純粋な「美しさ」を創り出し、描こう、
大きな喪失を伴って生まれたはずの終末の風景と時間のありようを、
それらは背後に膨大なかなしみを背負っているけれども、
ただ肯定的に描こうという目論見のものだったんだ……と。

  ……いや、実際合ってっかどうか、知んねえよ?
  そう考えた方がオイサンの「心の理屈に合う」ってだけのことで、
  もし作者がそうではないようにどこかで明確に語っていたのであれば、
  オイサンは
  「うーん、じゃあその目論見は上手くいってないですね」
  とおそらく言ってしまうくらい、前述のように感じた。

表現の実体としては、その二層のどちらか一方だけではなくブレンドで、
下位階層に「喪失感・かなしみ」がドッシリと構えているからこそ
上位層の「美しさ・穏やかさ」が下位階層からの照り返しを受けて
ただ美しいだけではない色を帯びるのだけども、
主として描きたいのがどちらなのか、
最終的にカメラのフォーカスが合っている(というかフレームに入っている)のがどちらか?
といえば、上位層である美しさ・穏やかさの方だということだ。

P5181497



■アルファさん



そんな風に理解したのも、この物語の主人公であり、
世界を受け止めて解釈を与える役どころにいるロボットのアルファさんが
この終末が始まった後の世界を、常に肯定的に捉えているからだ。
そのことが、OVAではクッキリと描かれていたし、
記憶を振りかえる限り、原作でもそうであったように思う。

  どーして今まで、そのことに素直に気付けなかったのか不思議だが。
  さんざん初っぱなからそういう風に描いてあったはずなのに。
  正直こうして書きながら、「なんでいまさら」と思わないではない。

色々語弊はありそうだけども、先ずはズバッと言ってしまうと……
ロボットのアルファさんは、この作品世界に生きる人間たちとは異質な存在だ。

オイサンは、基本的には、
この世界に生きて住まっている人間が心に持っている感情というのは
先に述べた二つの意識の層で言えば、前者──喪失のかなしみだと捉えている。

  何なら、またいつ激しさを増すとも知れない終末への畏れや怯えであるかも知れない。

少なくとも、世界の終末が始まる前からこの世界に生きていて、
終末の始まりを目の当たりにした世代であるところのオジサンや先生といった年寄り、
あるいは終末が今のような落ち着きを見せる前に生まれ育った世代はそうだと思う。
世界が今の状態に落ち着いてからこの世に誕生した
タカヒロやマッキのような子供たちはその限りではないだろう。

その大人や老人たちにしても、
今なお泣いて喚いてかきむしるような感情を残してはいないだろうし、
かなしみに暮れてただ立ち止まってもいないのだろう
(中にはそういう人間も当然いるのだろうと思う)けれども、
さまざまなものが失われた世界の姿を見るにつけ、
100%穏やかな気持ちでおられる筈は、フツーは、まあ、ない。……と、思う。
それがあるのはすっかり壊れてしまった人間くらいでしょう。
諦め・吹っ切れもあるだろうが、諦めるのも、吹っ切るのも、
根底にかなしみがあるからだ。

そうした中で、やはり大人の姿・知性を有してしていながら、
世界の記憶については子供と同じで、今の世界の姿をほぼフラットに、
終末前の、世界・記憶との対比なしに評価することの出来るアルファさんの存在は
異質だと思った。

  それが単純に「過去を知る者とそうでない者」の差でしかないのか、
  或いは「ロボットだから」ということも幾らかは関係するのか?
  という疑問もある。
  後者は原因ではなさそうだし、作中に言及もなかったと思うけども、
  ただ、ロマンとしてはそれも多少あるんじゃないかと希望として持っておきたい。

  もしかしたら、ロボットのアルファさんは、
  記憶では記録……感情の寄り添わないデータベースとして過去の風景を
  体内に持っているのかも知れないけど。
  そんな設定はあったかな、覚えてないけど。

世界観としては、ロボットは人の暮らしに溶け込んでいる、ことになっている。
その看板に偽りはないし、キチンとそのようにも描かれている。
ただ、だからといって、ロボットが「他者」でなくなったわけではない。
このかなしみの有無の差異が生じるのは、
「自分なのか、他者なのか」レベル
(つまりは経験と環境にはぐくまれた感性のレベル)の話で、
たぶん、「ロボットが異質」なのではなく、
アルファさんの個性がロボットの中でもある程度異質なのだろう。

  確かアルファさんも
  「ロボット的にはかなり初期型的な位置づけにある」みたいな設定だったと思うので、
  アルファさんの個性・異質さにはそういうことが作用している部分もあるのではなかろか。

  人間が世界の変貌を見て悲しむのを汲み取り、今の世界はかなしいのだな、と
  シンパシーを(強く)獲得するロボットもいて、
  アルファさんにもそういう機能は当然のごとくあるのだろうけども、
  それよりも「美しさ」に素直に反応してしまうパーソナリティを
  有しているのではなかろうか。

P5181502

なのでここで言う「世界におけるアルファさんの異質さ」は、
ロボットが世界に溶け込んでいるという設定に相反するものではないと思うし、
それよりもむしろ、
「他者として異質なパーソナリティを有し更にロボットでもあるアルファさんが、
 オジサンや先生と境目なく、摩擦なく暮らしている」
ことが、ロボットが世界に溶け込んでいることの象徴でもあるのかも知れない。
アルファさんは人間とロボットの境界面、エッジとしての役割も
負っているのかもしれない。

 ▼美しいのか、かなしいのか。

そんなアルファさんの、こわれゆく世界を見つめる視線の中には、
過去へのかなしみがないし、遠慮もない。
壊れたあとの世界を傍観者として見ていて、美しさへのその純粋さには容赦がない。
キホン無味乾燥ないわゆるロボット然としたロボットでなく
人間臭い揺らぎを目いっぱい持った存在のアルファさんだから、
その美しさに向かいあう時の迷いのなさは、
彼女の中でもかえって際立っている様に、オイサンには思える。

  ただし、原作の方で時折登場する終末世界のもののけのような存在たちに関しては、
  アルファさんにせよ誰にせよ、
  それらをただ観測する立場にとどめられて作品の内側からの解釈は与えられず、
  読み手にゆだねられているけれども。
  そのあたり、この作品は「物言わぬ終末の博物記」でもあるなあと思う。

終末のおとずれはアルファさんにとっては他人事……というと言い過ぎなので、
それでも「あずかりもの」ぐらいの距離感が、おそらく正しかろう。
あの世界の終わりは、おそらくアルファさんにとって……
或いはロボット全体にとって、人間ほど地続きの感覚ではないのだろう。

オイサンはこれまで、
この「アルファさん=傍観者である」ということをキチンと捉え切れていなくて、
アルファさんの中にもイカれてしまった世界へのシンパシーが幾分かはあるものだと、
何でかはわからないけど思いこんでしまっていた。
つまり、アルファさんも終わりゆく世界のことを根底ではかなしみのあるものと捉えていて、
「美しさ」をその下にひっついてくるかなしみごとすくい取っているのだと思っていた。
けれども実はどうやらそうではなく、
そこに存在する美しさに関しては、純粋に、おおむね肯定的にただ「美しい」と捉え、
そこにかなしみが内包されていることを、
周囲の人間の様子から理解してはいるのだが、意識はしていない様に思える。
彼女が終末世界を眺めて発する「キレイ」の根っこに、かなしさは見受けられない。
かなしさへの意識は、どこか別の箱にしまってある。



  そして、そのことは、
  (普通に考えたら)作者の意志や意図、メッセージだとも考えられる。



つまりアルファさんは、終末後の世界の肯定者の立場で世界を見つめ、
言葉(言外だったり行間だったりはするけども)にすることを作中において課されている
……様に見えた。
そのことにオイサンは、
最後の最後、OVA二巻目の壊れた富士山のラストシーンに至るまで、
ほんとにまったく、気付けずにおったのです。

OVA一巻で、アルファさんは、
水没したかつての町を高台から見下ろし、水底に灯る街灯の美しさに感涙し、
二巻では、同様に欠け落ちてもとの姿を失った富士山を見上げて
「昔の完璧な姿もいいけど、リラックスした今の形の方が好き」
とひとりごちる。
後者に関しては心にとどめた言葉のように描かれていたが、
前者は、原作にもあったように、世界の当事者である先生を伴って言葉にされる。

P5181519


異なる人間が手掛けたOVA一巻、二巻ともにそういうシーンが盛り込まれるということは、
やはり作品としてそういう感覚があるのは確かなんだろう、
と感じます。

  色々と見落としていたのだけど、
  もしかするとあの世界には水没都市や壊れた富士山を見て「キレイ」などと言ったら
  烈火のごとく怒り出す人間や泣き出す人間もまだまだいるのかも知れない。
  もちろんそれを描く必要も意識する必要も(そういう作品ではないから)ないのだけれども、
  その要素を排して、そうではないオジサンや先生たちだけを描くこと自体が、
  作者の著したい思いなのだろう。
  こんな世界だったら、もしかすると場所によっては変な宗教とか
  蔓延ってたりするんだろうなー、などという妄想も広がったりする。
  閑話休題。

しかしそうした「終末後の世界の美しさ」を主として謳うからといって、
文明批判的なのかと言われたらそれも違って、
先にも少し述べた、原作で時折描かれる「もののけのような者たち」の存在の
優しいながらも不気味な感じ・少し不安にさせる感じは、
実に絶妙に「美しさだけに終わってしまう気配」に釘を刺している様に感じる。
たくさん壊れ、喪われ、かなしみに満ちた世界を美しいとは何事か、と
言葉にすることなく、それとなく押し黙らせるチカラがある。
それは、アルファさんというキャラクターから引き去った
「かなしみへの配慮」という機能を独立させたものなのかなあ、と考えている。
基本的にそれらの存在は言葉を発しないので、とても淡い主張ではあるのだけれども。

オイサンにとっては、
この作品の下地に敷かれたかなしみの層の深さ・大きさ・重さというのは、
ちょっとどうしてもインパクトとして看過出来ない大きさを持っている。
下拵えに過ぎないにしても、物言わぬその地層の存在感は、
それだけで畏れに値するものなので……
そんなのほっときゃいいんだよ、と言われて無視できるサイズのものではなく、
この作品に触れるとき、どうしてもそちらに軸足がよってしまうことは
申し上げておこうと思う。
無粋なのかも知れないけど。

オイサンにとって、未だ『ヨコハマ買い出し紀行』は
あくまでもアルファさんが見つめた世界の美しさ以上に、
そうした不気味さや、
夏の西日の様な、世界の底から照り返す琥珀色のかなしみが主張する
ドラマの物語ではある。
世界をただ美しいと解釈するアルファさんが自ら求め、
瞳や舌から記憶したたくさんの風景から抽出されたかなしみを以て
終わりゆく世界をどうにかしようというお話なのだと思うのだけれども。

それはそれとして、どこかにしまっておいた方が良い話らしい。

 ▼いきるひとびとが語ること

しかしまあ、こうして考えれば考えるほど、
「人間不在の」作品であることだなあ、という思いを強くいたします。
人間ドラマがほぼ皆無なのでそう感じるのでしょうけれども。
人のドラマらしいドラマと言ったら、タカヒロの成長と出立くらいなものか。

世界が終わる、そこに人が生き残る、というモチーフからは、
一発目にやはり人間賛歌的なことを安易に連想してしまうのだけれども、
そういうことでもないと思うのですよ。
「終わりつつある世界の中でもたくましく生きる人々」という見方は、
言葉の問題でしかないけれど、彼らの姿になじまないようにオイサンは感じる。

作中で主として登場する、アルファさんの美観を受け入れる優しい人々は
基本的に「折れてしまった」あとの人たちであるように映る。
キホン、すっかりやられてしまった人たち。

死んでしまったワケでも、はかなんで自ら死のうとする人たちでもないけれども、
立ち向かったり、掘り起こしたり、そういうわけでもない。
彼らのスタンスは、せいぜい、折れた切り株の脇に鉢植えを置く程度のことで、
へし折れたあとの木々を、いかなその残り株が巨大であったにしても
それをたくましいと呼ぶことには抵抗があるし、
たくましさというものは、「時代の夕凪」であったか、「てろてろ」であったか、
その空気感にそぐわないなあと思うのです。

たくましさがあるとするなら、
タカヒロやマッキといった、まだてろてろの時間の中でしか生きていない
子供たちのものだろうなあ。



■小道具と、世界と。



ここまでのことをちょっとまとめる。

・作中には、
 「世界の終末」による喪失感とかなしみの意識の層と、
 「世界の終末」によって強制的にもたらされた穏やかで緩やかな時間と風景がある。

・作中の時代の背景として、
 人々の心には前者の意識が依然深く横たわってはいるが、
 後者の意識を受け入れ、穏やかに生きる諦観も現れている。
 終末が始まった以降に生まれた者には、その区別はない
 (前者の意識がそもそもない)。

・作中で主として描かれるのは、「後者の美しさ」である。
 その伝え手であるアルファさんは、前者のかなしみの存在に気付いていなかったり、
 無視したりするわけではないが、
 そのうつくしさの前に立つとき、かなしみの存在は別勘定である
 (「かなしみがあるから」「かなしみはあるけど」などとは考えない)。

そんな風に、作品の成り立ちがややこしいものだから、
作中の表現についても考えが二転三転してしまった。

たとえば、小道具。
OVA1巻目の冒頭で、アルファさんがピストルを携えていることが示される。
これが、終末が始まった世界のブッソウさの象徴であることは理解できる。
作中の現在において日常的に必要なものであるかどうかはわからない。
見る限り出番はないし、「美しさ」を描くことが主旨であることを考えると、
これは終末世界を演出し、背景を説明する小道具である。

また先にも述べた、
OVAにはあまり登場しないが原作の方で登場するモノノケ然とした者たち……
その出自が一切明らかでない、終末期突入前の建造物であるとか、
終末の過程で生まれたと思われる、不吉だったり不気味だったりする者たちも
ある意味では小道具なのだけれど、これが結構強烈で、
オイサンはやはりこれを見た時点ではその印象に引きずられ、
「根底に流れるかなしみを描く作品なんだな」
と改めて考えてしまった。
存在感がありすぎたわけです。

それでオイサンはその罠にはまってしまって、
OVA第一巻目の方は原作同様すっかり混乱してしまい
「ああ、このわからなさは確かに『ヨコハマ』なんだけど
 やっぱりわかんねえな」
と思ったのである。

OVA二巻目の方では、そのテの喪失感や終末世界を予感させる小道具は、
その存在感の強さ・大きさを嫌ったのか出てこなかった(と思う)ので、
素直に鑑賞することが出来……今回得た結論に達することが出来たわけだ。

ついでに言うと、
「合間合間にオサレ表現が加わって、より軸がブレてきておる」
とも思った。
なんか、合間に挟まるミュージッククリップ(一巻か二巻か忘れたけど)なんかは
「こういうマンガ好きなヤツは、こういうオサレ表現好きだろ?」
って言われているみたいで、オイサンは若干癇に障る感じです。
その辺には、媚びというか、狙い澄まして作られている癇は否めなかった。

  ……。
  ところで、オイサンが今こうして生きている、
  オイサンの目で見る世界を代弁する小道具とは、果たして如何なるものなんだろうかね?
  オイサンの生きる世界は一体どんな形をしてるんだろう。
  自分では分からないから、すごく気になる。

 ▼世界を背負うBGM

BGMはゴンチチで、完全に穏やか・のんびり方面。
OVA2巻目は違う人だったと思いますが、こちらも穏やか・ふんわりな音楽で
傾向としては一緒。

いずれにしてもOVA見始めたタイミングではまだ、
これまで述べてきたように『ヨコハマ』世界の本質はかなしみにあると思っていたので、
「『ヨコハマ』にゴンチチかー……。とりあえず体裁繕った感じだなあ」
と思っておりましたけど、
まあ、今となっては正しいアサインだったんだなあと思う。

とはいえ、冒頭でピストル突きつけられてかーらーのーゴンチチだったので、
やはり混乱は必至。
最終的には落ち着くとはいえチグハグな感は否めない。
もしかすると、このチグハグな感じ、
土台と上澄みが完全に分離した不安定な感じこそが、
あの世界に実際に足を踏み入れたときに漂っている空気なのかも知れない。

 ▼椎名ヘきる as アルファさん

そこで椎名へきるですよ。
最初「アルファさん椎名ヘきるですよ」と聴かされたときは、
えー、と思いましたけれども、今となっては別にアリかな、という感じ。
ベストかと問われたらそれは分かりませんけれども、
駄目では全然ない、と思ってます。

もう少し落ち着いた感じとか、低めの声だとか、
しっとりした感じがするべきなのかなーと思いもしましたけれども、
自然にメカっぽいという印象で良かったような気がする。
ちょっと無邪気すぎて、
落ち着いた表情になったときのお芝居の重量感が若干不足していたな、
という不満は残る。


どーなんだろ。


結構おっちょこちょいな人だし、ふんわりしてるし、
そもそもオイサンの中でアルファさんの中心にある感情がなんなのか分からないので
他のどんなキャラに似ているのか分からない。
今だと、案外シンタスなんかは(椎名へきると似たセンでという意味で)良いのかも知れない。
梨穂子と沙英さん、4:6くらいでどうだろうか。

ただ、声質としてはもう少し声の表面が滑らかな人が良いと思わないではない。

P5181560



■Closing



とまあそんな感じで……
原作の内容を具に覚えているワケでもなく、OVAの方も詳らかなわけではないので、
まだ色々とすっぽ抜けているコトが多々あると思うのだけれども、
ひとまず、この作品への自分なりの確信を得るためには、今のこの感触を持った上で
今一度原作を読み返してみる必要があるなあと考えておる次第。

今回お借りしたOVAは、
『ヨコハマ買い出し紀行』という作品ががどういう作品かというと
実は(少なくともオイサンにとっては)そういう作品だったということに気付く、
良いきっかけになりました。

……あのー、まあ、ね。
そもそもこのOVA自体が、アリなのかナシなのかという点において、
原作ファンの間ではほどほど未満のモノの様ですので、
「いやいやいや、そんなモンから引っ張って来てテキトウな解釈するなよ、
 もっと原作の方をしっかり読めよ」
という向きも、多分あるとは思うんですよ。

そういう外伝的というか、メディアミックスっぽく生まれてくるものを
どこまで原作世界の解釈に加味して良いかというのは
個々のスタンスに依ってきてしまうと思います。

オイサンは、
「そうした方が面白かったり分かりやすかったり、
 受け手として広がったりするなら、そうしたらいい」
と思う派なので、そうしてます。
OVAはOVA、原作は原作と、個別にルールを設けて解釈を進めるなら
また違う結論が出てしまうと思います。

けど、まあ、「OVA版から生じた感想」という意味では、こんな感じになりました。
どうなんでしょうねw
自分的には、よくわからなかったものに手ごたえがついて、
実りのある考え事だったし、腑にも落ちた感じで一応満足。

所詮ニワカの戯れ事なんで、穴ぼこだらけであるとは思いますけども、
癇に障ったり、いやいやここはこうだべよ、というツッコミ等々ございましたら
『ヨコハマ』エクストリームな方々のご意見も戴けるとありがたいかなあと思います。


マそんな感じでヒトツ。
オイサンでした。

P6010045
※これは全然関係ないトコで食べたスコーンヌです。



 

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