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2013年3月 8日 (金)

■ひがしの最果てにて -更新第845回-

絢辻さん、おみそ汁をあっため直してくれないのは構わないけど、
出すときに「ヴィシソワーズよ」って言うのはやめてくれない?
オイサンです。
素直じゃないんだからまったく( ← そういう問題でもない)。

最近、書く頻度が下がっておる。
マここ見てももらってればわかると思うけど。
申し訳ない。

書くのがイヤなわけでも面倒なわけでもないけど、
手を付けようとすると踏み出すのに時間がかかり、
気が付くと余計なことをして時間が過ぎて書かずに終わっている。
そんな感じ。

普段もあまりハリがなく、元気が出ない。
けど、書き始めるとワーッと気分が上がってくることがある。
みるみる気分が高揚していく。
マ状態にもよるけど、大体、
何も考えずに書けることを書いてるときには上がることこの上ない。

やっぱ中身はともかく、
とりあえず書くのが好き、書くことで足腰に力が入る、
そういう人間なんだなあ自分はとしみじみ思う。

うーん、週に一回くらい、
何も考えない、テーマらしいテーマもない、まとめもしないで
ワーッとただひたすら書く時間というか、回があってもいいかも知れんな。

  この場合「良い」っていうのは自分にとって、ってことになるけど。

「げんき」を、「元気」ではなく真っ先に「衒奇」に変換する様な辞書を育ててるから
おかしな方に行くんだろうが!
これゾまさしく「元気」が「出ない」状態ってやかましいわ(ズビー ← ツッコミ

「衒奇症」なんて病気? があるのか……
ってまた「衒奇省」とか変換しやがるし。
どんな官庁だよそれは。
まあ日本の省庁なんてみんな衒奇症みたいなもんだけど ← てきとう



■東京物語



小津安二郎の映画、『東京物語』を見た。
小津作品は初めて。

▼東京物語


きっかけは、以前から興味はあったのと、
オイサンの書き物を読んで「小津作品みたい」と言ってくれた方がおられたからなのだけど、
まあさすがにそれは上等過ぎるというか、
多分にサービスが含まれたお言葉だということは了解しております。
相手は世界の小津ですからね。

  関係ないけど、この間の『ひだまりラジオ』で
  「褒められたときどうしてる?」と訊かれたあすみんが、
  「頭の中で自分をなぐってます」
  と答えたのが、すごくよく分かるし印象的だったw
  「ちょうしのんな!」「お世辞だかんな!」ってw
  分かるけど、それ言っちゃうんだw
  けどまあ、オイサンなんかは自分の殴り方が足らんのだろうな。
  閑話休題。

あらすじなんかはWikipediaでも見てもらった方が早いと思います。


 ▼東京物語 - wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%A9%E8%AA%9E
 ▼小津安二郎 - wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E


尾道に住む老夫婦が東京に住んでいる息子・娘夫婦を訪ねるんだけども
あまりよくかまわれず、
唯一義理の娘(戦争で死んだ息子の妻・未亡人のまま)だけがよくしてくれる。
東京から尾道に戻るや夫婦の妻は死んでしまい
葬儀にやってきた息子たちはやはりドライな対応で、
あーなんかやりきれねー、みたいな話です(ざっくり)。

まあ、目に見えるお話としてはホントそれだけ。
素晴らしく面白かったです。
だてに世界で評価されてない……というか、
「へー、こういうテーマや映像やリズムは、
 世界でも普遍的に理解されるものなんだなー」
という、ちょっと逆向きの感心をしてしまった。
世界のフトコロを知らないオイサンとしては。
どちらかといえば、お話や心情よりも、
世界のクロサワがチャンバラ映画として評価されていた(らしい?)ように、
カットやシーンの絵画としての美しさや完成度が、
海の向こうでは主に評価されていたのではないか? と推測しますが。

オイサンの書き物を「小津に似ている」と言って下さった御仁のお気持ちは、
僭越ながら、ちょっとわかる気がしました。

それは
「物語を進めテーマへ誘導するプロセスを、
 人為的に起こる出来事に委ねてしまうことを出来るだけ避ける
 (出来るだけそう見えないように下準備をする)」
「シーンなりカットなりを一枚絵としてとらえる」
という二点に関してで、
この時代のほかの映画監督の作風をあまり存じ上げないので
この2点が小津独特のものなのか、
これらはワリと一般的な手法であって、
評価される『小津らしさ』がもっと別のところに特徴的であるのかは、
スンマセンちょっとわかりませんでした。

一点目は、簡単に言ってしまえば
「人の意図でなく、在るもので済ませたい」ということで。
風車が回るのを見て主人公が何かを感じるなら、
都合のいいタイミングで誰かがやってきて風車を回すのではなく、
また都合のいいタイミングで理由もなく風が吹くのではなく、
物語が始まるずっと前からどこか遠くで気圧に差が生まれていたことをほのめかし、
そこで生まれた風が届く場所と時間へ主人公が立つように仕向けること、
そしてそれらはどこかで(出来うるなら必然でなく)繋がっていた、
と感じさせることに心を砕きたい、とオイサンは思う。

その時空で一致したさまざまの運命的な出来事は、
あくまで偶然そこで重なったにすぎず、人の目にも偶然として映る、
けれども人がそれを勝手に必然として捉える、
それをそのまま描きたい。

そうあることで「ひとはそんなにえらくない」ということを、
まあ、自分で確かめたい。

二点目はもうそのままです。
『ファイナルファンタジーⅦ』とか『Ⅷ』とかです。
固定した一枚絵の中をてくてく歩く。
ときどきそれが、ぐりんっと回って角度を変えたりもするけども、
文字が流れるとき、絵の中のどこを見るかは変わるかもしれませんが
画角は変わらない。出来るだけ変えない。
まあそんなので、タイクツになったり、単調になったりしがちなのが
オイサンの書き物なんですけども、
さすがの小津カントクはそんなこと屁ほどもなかったですね。
一つ一つのカットが、それぞれ一枚の絵みたいで
非常に見ごたえがあったと思います。
役者さんと美術をつかって描いた膨大な量の絵を連続させる演し物だったと、
そんな風に思いました。
うーむ。

小津作品について勉強したわけでもなんでもないんで
Wikipediaに書いてあることの丸呑みなんだけど、
小津カントクは、役者への演技指導にせよ舞台づくりにせよ、
表情ひとつ、抑揚ひとつ、小道具ひとつとっても
全部自分の思った通りの完全を要求したのだそうで。

びしっと「美」で固めた映像づくりを追及された……らしいです。

  床の間に飾る掛け軸や器ひとつとっても、
  いい加減な拵えものではなく、
  いわゆる名画・名筆・名器を求めたのだそうな。
  当然、場面に適している、という大前提のもとでしょうが。
  その方が響く、その方が伝わると。

そんな小津作品を見ていてふっと思いついたのですが、
上でも「『ファイナルファンタジーⅦ』です」と書いたように……
このCG時代に小津監督が生きていたら、
その自分の試行する美を実現するために、
CGを如何様に使い、如何様に撮ったであろうかと。

まあ「まがい物と断じてバッサリ使わなかった」というお答えもカンタンですが、
使わずにはおれなかったんじゃなかろうか、とオイサンは思うし、
使うならどのように使い、何を実現しただろうかと、
そう考えるとちょっとワクワクしてしまいます。
ボートクですかね? 違うと思うけど。

以前読んだ、押井"パトレイバー"守カントクの著書に、
「デジタルの地平ですべての映画はアニメになる」という言葉がありました。
そのアオリ文句を見た同僚は「イミわかんねえ」と一笑に付しておりましたが
なるほどコレは非常に的を射たお言葉でして、
すなわちデジタルに落とし込めばあらゆるシーンを人為的に意図通りに改変出来る、
ということです。
それまではいじり用のなかった、相手が生身の人間や自然の場合であっても、
目の色を変え、肌の色を変え、曇り空を青空に、出来てしまう。
本来手を加えられない世界にまで手が及ぶということで、
それはすなわちアニメーションの世界だと、押井カントクは言っていた。

そんな現実をアニメする力を手に入れた時に
理想世界の鬼がどんな金棒を振るっただろうかと。


……マそんな妄想もさしはさみつつ。


珍しくオイサンにしてはお話のことを書かず、
ほとんど映像に関することばかり書いてきましたが。
だってお話に関しては、書くことないんだもん。
あらすじがすべて。
ド真ん中で、何も足せない、何も引けない世界でした。
ごろん、と石がいっこ置かれていた感じ。

  現在放映中の某まっすーぐなー思ーいがーみんーなを結ぶーアニメの筋を
  「王道だ」と評する話を聞きましたが、
  マそれも間違いではないんでしょうけども、
  ただ、他に何もなかったから省いたものが
  結果「王道」と似た姿に落ち着いたとしても、
  それはひとえに雑なだけで王道とは呼ばれへんのとちがうかなー、と感じます。
  かつての王道からぶっこ抜いてきただけの部品、
  わかりやすい記号だけをガチャガチャ並べくっつけて
  「はい王道!」っていうのは、やっぱどっか違う気がする。
  アレ、『アイマス』のアカンかった回ばっかり繋げただけみたいになってません?
  そんなことない?
  それぞれが好ーきなーこーとーでー頑張れーるならー別にイイですけど。
  なんであんなに雑に見えるんだろう。不思議だ。

  まあ、オイサン自身が見てきた「王道」も、
  過去の遺物の出涸らしだったんじゃないの?てハナシも否定できませぬが。
  そのヘンの歴史も勉強したわけじゃありませんから。
  王道には時代性もあるんじゃないのかしら。
  となると、今の王道の時代性を、ジジイであるオイサンが感じ取れていないだけなのかも知れんなー。
  ジジイは退場するべきなのかもなー。
  閑話休題。

ただ、当時の文化や風俗に明るくないので、
人同士の関係や感情をどう理解していいのか? 自分の読み方であっているのか?
という不安と疑問は見始めにあったのですが。
話のテーマが普遍的なものであると分かってからは何も困るコトはなかったです。

どう申しましょうか。
映像に説得力があるし、映像であることに意味がある。
オイサンが普段見ているようなアニメ作品とは、
映像に、視覚的な刺激に負わされた役割が違うものであるようにすごく感じました。

映像も、物語も、音響も、そのどれもが作品のあるじではなく、
それらの要素が支え合う頂点にもの言わぬあるじが存在している……
すごく鋭利にテーマが表現されたものだった。
緻密とはこういうことを言うのだろうなと。



マそんな感じで。



今現在書いているものにも、分からない所や迷いが一杯出てきてしまい、
サテどうしたもんかと筆の止まることも多いのですが、
丁度良いタイミングでこの『東京物語』に出会えたような気がしております。

マこれに限らず、ちょっと他の小津作品にも手を出してみようかなと、
また面倒くさいことのヒトツも考え始めるオイサンでした。



ほなまた。



P3020267



あーつれーわー尾道いきてーわー。




 

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