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2012年7月22日 (日)

■稜・線・鼎・話 (後編) ~『アマガミ』SS・絢辻さん・薫・中多さん・~ -更新第789回-

 
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     ◆    £    ◇    ξ
 
 
 
「んーじゃあ、中多さんも、別にあたしに用事ってわけじゃない
のね?」
 棚町先輩は、うすぼんやりと黄色い蛍光灯の明かりの中でもき
びきびと、くせの強そうな髪の毛の一本一本まで輪郭をはっきり
させて、散らかった小間物を片付け片付け、帰りの身支度を整え
る。絢辻先輩はキャンバスのある一画からは離れて暗がりの中へ、
やっぱりその毛先や肩の縁を曖昧にしながら、窓や扉の鍵を確か
めて回っていた。
「はい、たまたまなんです。それで、素敵な絵ですねって、絢辻
先輩とお話をしてました……」
 改めて棚町先輩に尋ねられ、一人手持ち無沙汰な私はもう一度
キャンバスを眺めた。横長の画面に広く横たわる輝日東の峰の、
尾根筋の存在感はたっぷりと重厚感があって、奥から手前へと統
一された筆の流れが、なんだかそこから降りてくる風を表してい
るみたいに見えた。それは見ている私を導いてくれているようで
も、山の道のりの険しさから涼やかに私を守ってくれているよう
でもある。
「お? 嬉しいこと言ってくれんじゃないの。おだてたってなん
も出ないわよー」
 棚町先輩は、絢辻さんもてんきゅねーと、教室の殆ど対角線の
反対側にいた絢辻先輩の背中に向けて言った。暗くて遠くて背中
を向けて、様子はあまり分からなかったのだけれど、絢辻先輩は、
ガタガタッ! と、ちょっと乱暴なんじゃないかと思うくらいに
教室の前の扉に鍵がかかっていることを改めると、ううん、本当
のことだもの、と、いつもの鈴の鳴る様な透明な声で言った。そ
うして一通りの確認を済ませると明るい所に戻って来て、あっち
の扉、立てつけが少し悪くなってるみたいねと、やっぱり明るく
澄んだ声で言ったのだった。
「棚町さんの絵、見ていて、その……なんて言うか、ちょっとぐ
っときちゃった。よくは分からないんだけどね」
「そ。てんきゅ」
「分かりにくい感想でごめんなさいね」
「ううん、じゅーぶん。あたしだって、何を描いてるか言葉で上
手く説明出来るわけじゃないしね」
 ニカリと歯を見せて静かに笑った後、棚町先輩はすこし落ち着
いた調子で自分のキャンバスに目を移した。満足げでもありなが
ら、瞳を滑らせる先でところどころ厳しい表情になるのは、完成
が近いからだろうか。
「そういうものなんだ」
「まあね」
 絢辻先輩はそれにつられることもなく、もう改めてキャンバス
を見ることはしなかった。それってつまり、棚町先輩自身よく分
からずに絵に込めたものを、絢辻先輩がよく分からずに受け止め
たということなのだろうか。それとも、絢辻先輩はまったく違う
ものを掬い上げたのだろうか。少し静かな時間があった。窓ガラ
スに張り付いた外の冷気が、じわりと部屋の内側へと染み込んで
くるような間。絢辻先輩の繰り返した「分からない」という響き
は不思議とやさしくて、お二人のまなざしは別々の方を見ていた
けれど、ふたり丸い光の玉の中に収まって、同じように照らし出
され、同じように影を落としていた。
「案外さあ」
「うん?」
「あの、わた……あ、すみません」
 棚町先輩が切り出したのと、私が口を開いたのが殆ど同時で、
私は恐縮してしまった。棚町先輩は
「あ、ううん。中多さん、どぞ」
と優しく譲ってくれたけれど改まるとなかなかうまく言葉が出て
来ず、また少ししどろもどろを繰り返し、もう一度、どーぞ、と
棚町先輩に、そして絢辻先輩が「中多さん」と笑いかけてくれて、
私はようやく一つ深呼吸をすることが出来た。
「あの、私も……その、よくは分からないんですけど……広々と
して、涼しげで……厳しいけど、やさしい。なんだか、そんな風
に思います」
 棚町先輩の絵に感じるところは、最初に感じたことからそう変
わってはいなかった。素敵だけど結構普通で、その素敵さを言葉
にするとさっき見たまま、そんな感じだった。棚町先輩が何を込
めたのか、絢辻先輩が何を読み解いたのか、それは多分私には感
じ取れていないのだと思う。でも絢辻先輩が「分からない」と言
ったのを聞いて、自分も、何か少しでも言葉にしないと失礼なん
じゃないか……そんな風に思ったのだった。
「頼りがいがあるっていうか、あ……」
 自分の頭にあるぼんやりとした形をなんとかがんばって言葉で
くり抜いてみよう、そう一所懸命になってしまって、気が付くと、
絢辻先輩と棚町先輩がびっくりしたみたいに私のことを見ていた
から、私は慌てて体を二つに折った。
「あ、えっとあの、す、すみませんっ……」
「へえーっ」
 けれど、棚町先輩は楽しそうに、寒くて、細いのに、袖を捲っ
たすごく強そうな腕をぎゅっと組むと、イーゼルの上の自分の絵
を見て嬉しそうに何度も頷いた。そっかそっか。そうね。うん、
当たってる。独り言みたいに……もしかしたらそうだったのかも
知れないけど、繰り返して、その最後に私に向けて、グッと親指
を立てて見せてくれた。
「なんか、何描いてんのか、自分でも分かったような気がしてき
た。中多さん、やるじゃん」
 そうして窓の向こう、日も落ちてしまって峰のほんの縁だけを
かろうじてオレンジ色に光らせている、絵の中心にもなっている
のであろう山の方を、もう真っ暗なのにまぶしそうに見つめた。
「えと、はい……」
 私はただ、自分でもすごく間が抜けてるなあと思う返事しか出
来なくて、再び目を爛々と輝かせ始めた棚町先輩の横顔に置き去
りにされた。何か続きの言葉をかけようと、あ、えっと、とゆび
先を出したり引っ込めたりしていたらまた、隣の絢辻先輩がまた
一つ、長くて深い息をした。窓からすっと最後の光が引いてお日
様は完全に隠れ、ガラスがきりりと青黒い影を深めると、耳たぶ
や爪先に染み入る寒さが一段増した。
「良かったわね、中多さん」
 棚町先輩はいすに腰を下ろし、もうすっかりキャンバスの向こ
うの世界に行ってしまった。戸惑っていた私に絢辻先輩はとても
優しく微笑みかけてくれて、私が返事をするより早く、やれやれ
と一歩棚町先輩に歩み寄った。こんなとき、先輩の微笑みの、目
や唇の輪郭はとても滑らかで、昔パパと美術館へ見に行った、有
名な作家の切り絵を思い出す。ひたり、まるでそうなることが決
まっていたみたいでとても綺麗だと思う。
「それで棚町さん。案外、何?」
「え? ああ」
 棚町先輩はもう、半分面倒くさそうだった。
「あたしたち、好みは案外似てるのかもねーって。それだけよ」
「案外?」
「そ。それだけ」
 前のめりだった体を一旦起こしてそう言うと、棚町先輩はまた
深く、自分からキャンバスに飲み込まれにいった。絢辻先輩はそ
の後しばらく黙っていたのだけれど、両肘を抱える見慣れた立ち
姿で、こつ、こつ、こつと、棚町先輩の背中から、絵に描かれた
山をじっと覗き込んだ。しばらくの間、棚町先輩が鼻で息をする
音と、蛍光灯のかすかなうなりだけが聞こえていた。
「……そうね。そうかもね。そういう絵は好き。だから、そうい
う絵を描ける棚町さんのことは、すごく羨ましいと思う」
「ふーん? ……あたしはさ。絢辻さんの、その髪。羨ましいよ。
すっごく羨ましい」
 言葉のこぼれるぽろぽろという音が、そのときの切り絵の絢辻
先輩からは聞こえてくるようだった。棚町先輩は姿勢を変えなか
ったし、瞳も動いていなかったと思うけれど、真剣に結ばれてい
た唇は少しだけ、曲線の形を変えた。
「髪……」
「真っ黒なストレート。あたしってほら、くせっ毛だから」
 棚町先輩は後ろに立つ絢辻先輩を、肩越しに振り仰いで笑った。
 面喰らい、髪先を手のひらにさらりと掬い上げて、絢辻先輩も
それに応えて「そうね」と仕方なさそうに笑った。私にしてくれ
るときとは雰囲気の違う複雑な笑い。体の内側と外側から、細や
かなたくさんの繊維が引き攣れ合って、行き着いた先の面差しが
ほかにどうしようもなく笑顔だった……そんな戸惑い含みの下が
り方をした眉だった。髪を切るのにそれだけのための鋏がたくさ
んあるみたいに、切り絵にもそれ専用の鋏があるのだそうだ。パ
パと行った美術展にはその有名な切り絵作家が使っていた鋏も一
緒に展示されていて、そうなんだと感心したことを、頭の隅で思
い出していた。
「でも、棚町さんだって色は綺麗な黒じゃない。染めたりはしな
いのね」
「まあね。いじるつもりはないかな。それに、絢辻さんくらいま
とまって量があると迫力が違うじゃない?」
 ただでさえくるくる踊る毛先を追いかけて弄ぶ、棚町先輩のま
だ少し絵の具が残ったゆび先を見ていると、そのいたずらな感触
がなんだか私の指の節にも伝わってくるみたいでこそばゆい。な
あにそれ? 「迫力」と言う言葉がおかしかったのか、絢辻先輩
がクスリと笑って掬ったままだった髪の毛を手のひらの中で揺す
ると、その一本一本の隙間に蛍光灯の光が滑って黒が白に変わっ
ていく。黒は全部の光を吸い込むから黒く見えて、白は、全部跳
ね返すから白くなる。棚町先輩のキャンバスは白い。景色の絵な
のに、ところどころ、色を載せずに白いまま残してあるのは、ま
だ描きかけだからだろうか。それとも、何か意味があるのだろう
か。
「でも、これはこれでね」
「うん」
「面倒なのよ。結構」
 絢辻先輩が掌を傾けると、掬った髪はさらりと掌からこぼれる
ように、本当に水のこぼれるみたいに流れ落ちて、はらはらと、
まるで重さを感じさせずに静かに背中に帰って行った。そしてぴ
たりとまとまって、先輩の背中を覆い隠した。思わず拍手をした
くなるくらいに。
「面倒……ああ」
「うん。ケアとかね。これだけ長くて量もあると、放っておくわ
けにはいかないでしょう?」
「そっかもね。大変そう。あたしのだって、決して楽なワケじゃ
ないと思うけどさ」
 それは女の子なら誰だって思い当たる節のあることだ。棚町先
輩も上目遣いに何かを想像したあと、いっくらでもゴマカシはき
くし、と波打つ髪に掌をくぐらせて苦笑した。
「それは、そうかもだわ」
「それじゃあ、あたしはこれで退散するわね。中多さんはどうす
る?」
 絢辻先輩が、くるりと出口へ踵を返したのを見て私は慌てた。
二人は一緒に出るつもりだったんじゃなかったんだろうか。
「棚町さん、まだやっていくことにしたみたいだから」
 いつの間にそんな合意が得られていたんだろう? かわるがわ
る二人を見ていると絢辻先輩は丁寧に教えてくれて、棚町先輩は
ひらひらと、キャンバスの影から手だけを振って見せてくれた。
「そう……なんですか?」
「そういうこと。じゃね絢辻さん。また明日ー」
「はい。戸締まり、しっかりよろしくね」
「はいはい、がっちゃがっちゃ」
 傍らに置いてあった黒い当直日誌を抱え直し、絢辻先輩がもう
一度、今度は目で「どうする?」と問いかけてきたから、
「あ、か、帰ります」
私は小走りに駆け寄って、そのまま、絢辻先輩も、棚町先輩も、
互いを見ることはなくて、部屋の扉はあっけなくカラカラパシン
と音を立てた。



      ◆    £    ◇    ξ



『……切ろうかしら』
 半ば出し抜けな絢辻先輩の一言が、また私を驚かせる。
『中多さんは、どう思う──?』


 部屋を出てから、十歩も歩いたかどうか。
「──先輩は、いつから伸ばしてるんですか?」
 下りの階段へ向かいながら、自分でもびっくりするくらい自然
にそんな言葉が出てきた。私から話し掛けてきたことに絢辻先輩
もびっくりしたみたいで、何か考え事をしていたのか、えっ、と
珍しくすぐには答えが返ってこなかった。
「あ。えと。髪……です」
「そうね、いつからだったかしら」
 どうして、そんなことを訊こうと思ったのだろう? 我ながら、
当たり前の流れでなんとなくなのだろうけど、先輩の髪には不思
議と惹きつけられるものがあったのかも知れない。
 小学校に上がる前から、もう大体今と同じ髪形をしていたかな
あ、と普段の調子に戻って先輩は答えてくれた。それ以上、私も
何も考えていなかったから、そうなんですか、と返したらその先
には何もなくなってしまった。
「本当に、すっごく面倒なのよ?」
「先輩が言うんですから、相当ですね」
 煩わしさを強調するのが先輩らしくなくて可笑しくて、思わず
私がフフフと笑うと、先輩も合わせて笑ってくれた。
「でも、ずっと続けてるっていうことは、やっぱり気に入ってる
ってことですよね」
「それは……」
 私は至極当たり前のことを言ったつもりだったのだけれど、絢
辻先輩はハッと息をのむように言葉を詰まらせて、珍しく、一度
開いた口を閉ざしてから言い直した。
「そういうわけでも、ないんだけどね」
 何か、事情があったのだろうか。言葉に出来ないこと、しては
いけないこと、そんな筈ではなかったこと。たとえば私の髪だっ
て、この色この長さこの形に理由があったわけではないけれど、
理由はどうあれ一度そうしてしまったものは気が付くと自分をそ
こに置くための目印になってしまっていて、そこから離れるため
には何か新しい目印が、ないよりあった方が良い。思い描いた完
成形はいつも思わぬところが寸足らずで、立ったり座ったり、些
細に変わるバランスにふらつくことにも、その理由を人に説くこ
とにも、涙が出そうなくらいくたびれることがある。心臓の小さ
な私と違って絢辻先輩がそれを怖がるとは思えないけれど、ただ
先輩を映し出す切り絵の画面の多くを占める黒髪は、しゃきんと
ひとたび鋏を入れて落としてしまうと、二度と再び取り返しがつ
かない、そんな気がする。
「羨ましい、か」
 ポツンと繰り返したのが先輩自身の言葉だったのか……それと
も棚町先輩が言ったことだったのかは分からない。
 と突然、先輩が首を大きくぶんぶん! と左右に振ると、首す
じからほどけた髪は一度大きくらせん状にねじれて広がって、そ
してまた……ゆっくりと静かに、先輩の背中に集まった。それも
また、びっくりするくらい静かに、規則正しく。
「もう、切ろうかしら」
「え?」
「中多さんはどう思う?」
 髪を、ですか? 当たり前すぎて、私は飛び出しそうになった
言葉を慌てて飲み込んだ──。

 ──そうして、今に至っているのだけど。
「あの……きっと、似合うと思います」
 私は、さっきまでやっていたお芝居の衣装合わせみたいに髪を
短くした先輩を思い描き、そこにいくつかの小物や場面を当ては
めてみる。合うもの、合わないもの、棚町先輩の絵の景色はどう
しても背景に合わなかったけれど、あっと思える一つが思い浮か
んだときにそう答えてしまっていた。
「そう。ありがとう」
 さっぱりとした先輩の笑顔は多分、世間話のひとかけらを聞き
流すためのものだったと思うのだけど……自分の想像が間違って
いたら、どうしよう。私は急に怖くなってしまって、
「え、あの……。切るん、ですか?」
と、先輩の顔を覗き込みながら確かめてしまった。あまり軽々し
くそういうことを言ってはいけないと分かってはいたのだけれど、
そのとき自然に思い描かれた、今より少し年をとり、誰かの隣で
髪を短くした絢辻先輩の横顔が、シルエットが、とても穏やかに
笑っていた気がして、大した確信もなしに口走ってしまったのだ。
絢辻先輩は私なんかが言うまでもなく慎重で頭のいい人だから、
私の話なんかをそうそう真に受けたりはしないとは思ったのだけ
れど。
「そうね。もしかしたら、そのうちね」
「……そうですか」
 ああ、良かった。返ってきた答えが、自分が期待していたのと
そう変わらなかったからほっとする。
「いい時期がきたらね」
 ぽろりと継ぎ足された言の葉は、また、誰かに話しかけると言
うよりも言葉のメモを自分の胸の内側にピンで留めておくような
言い方で、そこに私の影はない。はあ、と相槌を打つことくらい
しか出来なかった。
「中多さんの」
「はい?」
「中多さんのハンカチは」
「あ、はい」
「とっても素敵だったけど、いつ頃から使ってるの?」
 スカートのポケットの中でこそこそ揺れるパパからもらったハ
ンカチは小学校の頃のおみやげだ。
「もうずっと、子供の頃からです」
 後から聞いた話では、そのときの出張は何か新しいお仕事を始
めるとかで、私はあまり覚えていないのだけれどとても長かった
らしい。その長かった分、このハンカチの他に洋服やおもちゃ、
おみやげではなく現地から送ってきた物もたくさんあったのだけ
ど、殆どは着られなくなったり遊ばなくなったりで、捨てるか、
どこかにしまい込むかしてしまった。今も元気で残っているのは
このハンカチと、部屋に飾った人形やぬいぐるみくらいだ。
「そう。大事にしてるのね。部屋が暗かったからかも知れないけ
ど、色が少しくすんで見えたから」
「そうなんです。だから、マ……お母さんもそろそろお払いにし
たらって言うんですけど、なかなかいい代わりが見つけられなく
て」
 自分の真横で揺れる二つのテールの穂先が気になって、ゆび先
で捕まえようとしてみても、ヒョコヒョコ弾んでうまく行かない。
「じゃあ、お父さんにまた、出張に行ってもらわなきゃね」
「そうですね。……あ、それもいいんですけど……」
 先輩の冗談に二人でクスリと微笑みあい、思い浮かべたことを
私が言葉に換えあぐねていると、先輩は私の考えていることを、
まるで全部分かっているみたいに
「そうね」
と頷いてくれた。
 行き着いた下り階段の下り口で、絢辻先輩はすっと明かりの落
ちた廊下の奥をゆび差した。
「それじゃあ私、まだこっちに用があるから」
「え? あ、はい……。しつれい、します……。暗いから気を付
けて下さいね……」
 そうして別れたのはいいけれど、背中を向けて気が付いた。先
輩の向かって行った方、その先には階段も曲がり角もなくて。あ
るのは既に明かりの消えた幾つかの教室と……開かずの扉、開か
ずの教室。あれっと思って振り返ってみても、絢辻先輩の姿はも
う、暗くて見えないだけなのか、それともどこか近くの部屋に入
ってしまったのか、サラサラほつれた髪の先から闇に編み込まれ
てしまったみたいに、消えてなくなっていた。
 そして翌朝、
「おはよう、中多さん」
「あ、おはようございます。何を見ていたんですか?」
桜坂の途中で会った先輩は、いつもの滑らかな笑顔で
「ううん、何も。先に行くわね」
と行ってしまったのだけれど、かすかに残った視線の跡を辿って
みるとその先には、小さく冠雪を頂いて、白と黒、昨日の夜には
見つけられなかった陰影を、ドレスのドレープのように細やかに
纏う、あの山の姿があった。
 
 
 
                        (おわり)
 
 
 

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