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2012年1月 4日 (水)

■a white day~ミューズの座布団・その四 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』 -更新第743回-

◆a white day~ミューズの座布団 SS『ひだまりスケッチ×☆☆☆』
  その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六 / あとがき 
 


     × ☆     ☆     ☆


 そこからの二時間あまりは、なずなにとって正に怒濤のような時間だ
った。
 公園に入るなり、宮子はところどころペンキの剥げ落ちた園内案内図
に駆け寄るや一頻り睨みつけたあと、中央広場と池、そして出入り口に
繋がる人通りの多そうな、けれど十分に広さもあって人の滞ることの無
さそうな唯一のポイントを指差すと
「ここだね!」
と宣言して一目散に走り去った。一度は背中を見失ったなずなが当の目
的地でどうにか追い付いた時には、彼女は既に肩と背中の荷物を下ろし
てイーゼルを組み立て終え、椅子を広げにかかっているところだった。
そして、何が始まるのか、息の弾むままに呆然と見守るだけだったなず
なを見つけると、
「じゃあじゃあなずな氏は、あ、荷物そこ置いといてー」
となずなから手提げを取り上げてしまって、
「で、あっち! 一回あっちまで行って、そっちの方へ、こーいう感じ
で歩いてきてね」
と、広場の方から池の方へ、道を指でなぞるように指し示したのだった。
「え? え? 歩く? 歩けばいいんですか?」
 思えばこのときことは既に始まっていたのだがなずなにはまだ何がな
にやら訳が分からず、うん、よろしくーと言われたままに油断丸出しで
歩いてくるとそこには、広げた椅子に腰を下ろし、その周りには準備万
端、持参した画具をざらりと広げてほとんど釣り人かアクセサリー売り
みたいな佇まいで、らっしゃえー、えー、らっしゃえー、と、早くも衆
目を集めながら妖しい呪文を小声で囁く宮子がいて、なずなは身震いが
するのを感じた。そして何のつもりなのだろうか、股の間には、件のボ
ンゴが試し打ちをして見せたときと同じ位置ですっぽりと収まっている。
 中でもひときわ目を引いたのはイーゼルの下の貼り紙で、らんぼうに
やぶりとったスケッチブックに一ページ、雑だが力強さのある字で大き
く「にがお絵 十五分 四百円」。値段のところはご丁寧に、一度「五
百円」と書いてから二重線で改めてあった。
 これは、声をかけて良いものか。あまりの怪しさに圧倒されて立ちす
くんだところを、
「ちょいと! そこ行くおじょうさんっ!」
「は、はいいっ!」
「にがお絵はいらんかねえ」
「にが……」
あちらから声をかけられ、動けなくなったのだった。
 否も応もない。
 次になずなが我に返ったときにはもう、向かい合った宮子の鉛筆がさ
らさらとよどみない音を立て始めていた。秋に身を装い道をゆく人々は、
まれに見る金髪美少女にがお絵描きの手元を覗き込んでは感嘆の息を漏
らし、それを聞いてようやくなずなも気付いたのだった。これは、サク
ラだと。
「はいおつかれさまー。出来ましたよー」
 きっかり十五分。見せ物にされて泣きたい気持ちのうえ、びびびびび
と無造作な音を立てて切り離されたスケッチブックの一ページが文句の
つけようのない出来映えだったから泣くに泣かれず、半分涙声で礼を告
げるや、
「はい、それじゃあなずな氏は、看板娘よろしくねー」
と、なずなは瞬きをする間ももらえずに、新しいお役目を頂戴した。
 そこからさらに、一時間あまり。
 なずなを描き終えたとき見物に立っていたカップルを最初の客として、
描き終えると次、そのまた次と、客足は数珠繋ぎに途絶えることがなく、
なずなはその間自分の似顔絵を首から下げるように手に持って立ち、興
味ありげな通行人に、いかがですかと繰り返すだけの仕事をこなした。
 はじめのなずなを除いて四組・六人を描き終えたとき、ぎんごーん、
ぎんごーんと、木立で隠すように建てられているポールに括り付けられ
たスピーカーから午後三時を告げる無粋な鐘の音が流れて、描いて欲し
そうにしていたもう一組のお客を残して、そんじゃあここいらで、と宮
子はあっさり店じまいを始めてしまった。
「それではなずな氏、参りましょうか」
「え? い、いいんですか?」
 えー、おしまいなの? と聞こえよがしなカップルに宮子は、ぼ、ぼ
ぼぼくたちはお腹が空いているんだなあ、とテレビで見た高名な貼り
絵画家の物まねで笑いをとって、あっさり追い返してしまった。
「あの、よ、良かったんでしょうか? お客さん……」
 がしゃん、と大きな音を立て、荷物を元来た通りに担ぎ直した宮子の
手にはボンゴの入った手提げも既にあって、なずなは何も言えないまま、
またも揚々と引き揚げんとするそのあとについていくしかなかった。
「うん。二千円もあったら、お昼には十分でしょー」
「えと、そうじゃなくて……」
 眩しく熱い、オレンジの濃くなり始めた光に影を伸ばして笑う宮子の
手には、百円と五十円玉ばかりで二千円、遠浅の、夕陽の海に沈んだ貝
殻のように、光の底で揺らいでいる。「カップルさんは、うらやましい
から二人で六百円でいいやー」と言った、宮子の理屈が未だによく分か
らない。

       ×     × 

「風が出てきたねえ」
 公園の中をまたどこかへ向けて歩きながら、高い並木の梢がざかざか
と音を立てるのを聞いて宮子が呟いた途端、その風は地表にまでさっと
降りてきて、レンガ模様の石畳のすき間を埋めていた砂を舞い上げて走
らせ、噴水池の表面を白く波立たせた。緊張から解放されて油断してい
たなずなは足を取られそうになり、髪とスカートを押さえて小さく悲鳴
を上げた。
「だいじょぶー?」
 たくさんの荷物を担ぎ、ちょっとした旅人風情の宮子はびくともしな
い。
 ちょっとここで待ってて、と宮子が荷物を下ろしたベンチは、さっき
の場所から五分は歩かない、噴水池のある中央広場の片隅の、昔は自動
販売機か何かが置かれていたであろういびつに奥まったスペースに隠れ
るように置かれていて、後ろはせまい芝地をはさんですぐのところまで
雑木林が迫っている。広場と、管理事務所のような建物のある敷地を結
ぶ比較的細めの小径の近くで、人通りはなかった。
 なずなは、また行き先も告げずにどこかへと歩き去った宮子を見送り、
自分も荷物の一つのように腰を下ろしてベンチに背中を預けると、魂が
抜けて、背骨がゆるんだ。最後にはただでさえなだらかすぎる肩がはず
れたようになって、舌の付け根あたりから、どろりと熱い息が漏れた。
 くたびれた。
 ベンチの上で、一旦溶けてから冷えてまた固まりかかったチーズのよ
うになっていると、頭の中から瞼に重石が降りてきた。ぐらり、と眠り
に落ちそうになったところを、指のすき間にかろうじて挟んでいたスケ
ッチブックの一枚のページが滑って抜ける感触の一瞬のくすぐったさが
やけに長く感じられ、どうにか意識を繋ぎ止めた。
 改めて眺める宮子が看板用にと描いたなずなのにがお絵は、辻にがお
絵屋の看板としては申し分のない出来映えだった。
 目鼻に、顔立ち、自分でも結うのがあんなに面倒な髪の編み込みまで、
彫刻が木塊の中から彫り当てられて生まれてくると言われるように、ま
るでスケッチブックのそのページにはじめから眠っていたなずなをただ
探り当てたような自然さでなぞり出していた。
 描かれた表情は、笑うでも、しょげるでもなかった。毎朝の洗面台の
鏡に映る、まつげの先にかすんだ寝起きの曖昧さをしていて、あのとき、
自分は本当にこんな顔をしていたのかな? と不思議に思った。地突然
似顔絵を描かれることになって、もっと戸惑い、抵抗し、呆然としてい
たのではなかったか。
 それに、と強く疑問に思うのは、宮子の瞳から紙の上に写されたこの
女の子は、はっきり、きっぱりと勢いのある線を与えられていたことだ。
鏡のこちらの自分より、よっぽどしっかりしていそうなのが羨ましいの
と同時に、情けなく、癇に障った。描きつけられた線はひたりと静止し
ているはずなのに、既に次の動線を、頬や髪や、細すぎる首筋からなだ
らかに滑る肩のラインの輪郭に持っているようで、動くために力強く止
まっている……それは、人の座布団に腰をおろした、このにがお絵の書
き手の居住まいのようでもある。
 自分の顔がこれほどの意志をもっていないことを、なずなは言葉では
なく知っている。毎朝毎朝向かい合う鏡の中の面差しは、自信なさげに
揺らぐ曖昧な輪郭線と、やわらかな中間色の陰影に薄ぼんやりと浮かび
上がるだけだった。
 ──そんな風に、宮子のにがお絵はなずなを少し不安にさせた。
 無造作に置かれた荷物の一画に例のボンゴが入った袋を見つけて、「
これを持ってついて来て」と言われた最初の言いつけを思い出し、なず
なはその手提げだけ自分の左脇に取り除けて、風に飛ばされないように
とにがお絵の重し代わりにして置いた。
 ところで、当の宮子はどこへ行ったのだろう……そう考えた矢先、宮
子が両手に、同じ銘柄の缶入りのお茶を持って弾むように戻ってきた。
「お待たせー。あったかいのと冷たいの、どっちがいい?」
「あ、ありがとうございます。宮子先輩は……」
「あたしは、どっちでも」
「じゃあ、えと……冷たいので」
 日が傾き、木立の陰が、もうどこにいても届く。手先は少しずつ冷え
てきていたが、今あたたかい物を体に入れるとそのまま眠ってしまいそ
うだった。
「はい、じゃあこれね」
 宮子はなずなと同じベンチに、荷物の山を挟んで飛び乗るように座る
と、勢いよく缶の封を切った。アルミのこすれる乾いた音が、木立の幹
と幹で跳ね返って土に吸い込まれていった。
 なずなもそのあとを追って封を切った。寄越された缶は見たことのな
いデザインで、知らないメーカーと商品の名前が印刷してある。がんば
っても遠慮がちにしか開かない口をちびりと当てると、いつも近場のド
ラッグストアで買っているペットボトルのお茶よりも強いいがらっぽさ
が舌を刺した。緑の匂いが濃い。けれど、それはそれで新鮮で、そうい
うおいしさなのだと思えた。
「ふー、生き返るー」
「おいしいです」
 不意に宮子が荷物の陰から「疲れた?」と顔を覗かせて尋ねかけてき
たから、なずなはお茶を喉に詰まらせそうになった。それもどうにか落
ち着かせ、ゆっくりと、口の中にあったお茶を舌になじませてから飲み
下した。
「えと、……はい」
「そっか。へへへ。あたしももう、右手ぐらぐらー」
 ごめんとも、ありがとうとも、だらしないとも言わず、宮子はただ嬉
しそうに笑い、幽霊のように垂れさせた右手をぶらぶらと揺すって見せ
た。自分のにがお絵をただ持って立っていただけのなずなでさえこうな
のだから、その間ほぼ休むことなく、鉛筆を走らせ、時には客と言葉を
交わして怒ったり笑ったりしていた宮子の疲れはその比ではないはずだ
った。
「でも、楽しかったあー。労働のあとの一杯は格別ですなあー」
 宮子は腰を下ろしたまま、胸を反らせて大きく伸び上がった。まるで
熱い湯に浸かった時と同じ調子で、気持ちの良さそうな長い息を吐いた
──。
 なずなは──一時間以上も立ち通しだったから、だろうか、忘れてい
た爪の痛みが鈍く、また足の甲から脛、膝へと、血管を遡ってくる感触
が不意に意識の下ではっきりとし始めて、靴の中でもじもじと、親指と
人差し指をこすり合わせてみた。血と肉のわだかまる感触で、腰とこめ
かみに鈍い重みを感じ、自然と慣れた角度へとうつむいた視界に、袋か
らはみ出したボンゴと、あのにがお絵が見え隠れする。ともすれば冷た
さを感じても不思議の無いようなそのにがお絵の瞳にはしかし、そんな
翳りはなく、何とも丹念に、長い時間の間にそこに映り込んだ光の粒が
……それがいつの物なのかはわからなかったけれど、描き込められてい
るのがそのとき見えた。宮子が自分の中に見出したその光に背中を後押
しされるように、なずはな「……わたし」と、ゆっくり口を開いた。
「ん?」
「わたし、びっくりしました。こんなことするって、思ってなかったか
ら……」
「あれ。言ってなかったっけ?」
「教えてもらってないです……。せ、先輩は、……あ、そうだ」
 渇いた喉に張り付いて一度つっかえかけた言葉を初めて飲むお茶でぐ
っと押し込んだ、そのときにふっと思い出すことがあって、なずなはス
カートのポケットから、小さくて、淡いピンクのがま口を取り出した。
 その中から一つ、百円玉をつまんで差し出す一連の所作を見て、今度
は宮子が目を丸くした。
「お茶のお金……どうしたんですか?」
「なずな氏。お金、持ってるじゃん」
 信じ難い物を見た、とでも言いたげだ。なずなの白魚のようなゆび先
と、それとはほんのりと温度の異なる白さの頬を、宮子は驚きをもって
交互に見比べた。
「え、はい。えと、……。あ」
 一切れのカニカマで空腹をやりすごそうとしたことが、あらぬ誤解を
生んだのだろう。最後に目と目の合う瞬間に思いの到った先をなずなが
口にするより早く、
「なあんだ。なずな氏もお金無いのかと思ってた。お代はいいよ、さっ
きのお金から出したんだから」
と宮子は、遠慮がちな距離で硬貨をしまおうとしないなずなをたしなめ
てお茶の残りをあおった。
 自分は何もしていませんから、とへりくだることも出来たけれど、そ
れも傲慢な気がした。ゆび先にかかる硬貨の軽さに堪えかねたこともあ
って、なずなは静かに百円をがま口もどした。
「それじゃあ、すみません。戴きます」
「可愛いガマだねー」
「ありがとうございます……」
 また、少し強めの風が吹いて、なずなのとなりで、にがお絵と、重し
代わりに置いたボンゴの手提げ袋がばたばたとなびいて音を立てた。つ
いでに宮子の腹が、蛙のようにグウと鳴く。
「まだかなー」
「ぼんご……使いませんでしたね」
 持って来て、と頼まれたボンゴだったが、にがお絵を描いている間ず
っと宮子の膝の間におさまったきりで、打たれることはとうとう無かっ
た。あれには何か別の意味があったのだろうかとも思ったが、宮子の返
事も
「そうだねー、要らなかったねー」
とそっけなく、使うつもりでいたアテが外れたのだとわかった。部屋で
の宮子の見事な演奏を思い出して、あのまろやかな類を見ない高音を、
空と木々の間に弾ませることの出来なかった、誰かを踊らせる機会を失
ったこの野生の打楽器のことをなずなは哀れに思った。ボンゴのため息
が聞こえるようだった。
「お客さんが来なかったら、なずな氏にそれ叩いて呼んでもらおうと思
ってたんだけど、要らなかったねー」
「そっ……!? そんなこと、考えてたんですかっ!!?」
「うん」
 恐るべき計画。一筆描きで描けそうな顔で目論見をケロリと知らされ
た瞬間、宮子の言葉どおりの風景がそのまま頭に思い浮かびそうになっ
たが、そこにリズミカルにボンゴを打つ自分の姿がどうしても当てはま
らなくて、景色に黒く穴が空いた。
「そんな……」
 何か言おうとして口を開いた途端、ただでも太くないなずなの胸に、
下から詰まる物があった。息がうまく吸えない。そのまましゃべり続け
れば、その固まりが涙腺から何かを押し出してしまいそうだったから、
一度ぐっと空気の塊を飲み込んで、鼻をすすった。
「なずな氏?」
 宮子からの呼びかけにも答えず、なずなはこっそり震える息を吐くと、
また一口お茶を飲み込んだ。
「わ、私、そんな……。宮子先輩みたいに、出来ません……」
 ボンゴで押さえたにがお絵の紙の端が、風にあおられてばたばたと小
さくはためく。自分以外の誰を描いたものでもないのに、自分の決定的
な欠片を見つけられない不安なにがお絵の人物は、ぽこぽこぽことボン
ゴを打つのだろうか。
 宮子は、いつものほえーと言う音を口からこぼして、うーんと唸った。
「別に、あたしみたい、とかじゃなくてもいいのに」
 部屋で見たままだった。宮子の描く渦は大き過ぎて、なずなの中には
それに見合う歯車が見当たらない。ヒロや沙英でさえも持ち合わせない
その巨大な歯車は、春の始業式に途方もないパフォーマンスで講堂を沸
かせたあのおかしな女教師だけが持っていて、どこまで行っても、誰も
噛み合わないのかも知れない。
「でーん」
 宮子は、何が「でーん」なのか、靴を脱いで裸の足をぶらぶらさせ始
める。足の爪は、手入れをしているわけでも無かろうに、せせらぎに洗
われた小砂利の丸さでつるりと自然の光を含んでいた。足の甲には無駄
な肉がなくて浅く骨が浮き、女性らしさこそ希薄だったが、野性味とい
う一風変わった美しさで満たされていた。
「そう、ですか……」
 その足で力強く踏み抜かれるペダルの力が伝わって、宮子の歯車が一
つ動く度、一体自分は何回転させられてしまうのだろう? 天地を失っ
たすさまじい遠心力の中で、ふっと立ち眩みのように意識が遠のくと、
真っ白なのか真っ暗なのかわからないくらい溢れた光の先に、一瞬だけ、
全く違う景色が見えた。風に揺らいだみかん色のカーテンの向こう、ぽ
つんと、秋の空の雲の座布団の上にイーゼルを構えて笑う宮子は、傍ら
のビニールプールにしっかり水も張り、ひとりそれでも笑っているのだ
った。
「ゆの先輩……!」
「ん? ゆのっち?」
 宮子の声で、なずなははっと我に返った。瞳に風景が戻ってくる。自
分は手にお茶の缶を持ち、公園のベンチに腰掛けていた。ほんのわずか
な時間、眠りに落ちたのかも知れない。影がまた少し色を濃くした気が
した。今日、一人で行方をくらませているゆののことが、自分で思うよ
りも心に引っかかっていたらしかった。一瞬の夢の世界で、雲上のなだ
らかな凹凸の上に彼女の影が落ちて、我知らず名前を呼んでしまった。
「どうかしたー?」
 宮子の声がする。
 宮子が雲の上に一人でいるのなら、あの人はどうなってしまうのだろ
う? 時刻は三時を回った。「なるべく早く帰るから」と言っていた乃
莉は、もしかしてもうアパートに帰っているだろうか。それとも自分の
ことは忘れ、日が落ちても戻らないかも知れない。慣れているはずだっ
た一人の休日。誰と、何を見に、何を買いに出掛けたのだろう? 一人
だけ違うにおいの部屋に住む自分には、見当も付かない──。
 寝言のように口にしてしまった先輩の名前のわけを、どうにもうまく
説明出来ずになずなが慌てていると、
「ゆのっちには、叱られちゃうんだよね」
と、宮子がまた、違う話を切り出した。
 やはり以前、今日と同じように宮子の手持ちが無くなった折に、ゆの
を連れて今日と同じことを試みた、という話だった。
「ま、前にもやったこと、あったんですか……」
「うん。そしたら終わってから『おまわりさんとかに見つかったら怒ら
れちゃうよ!』って、怒られちゃった。だから、ゆのっちにはなーいし
ょ」
 なるほど、公園の注意書きなど真面目に読んだことは無かったけれど、
許諾無き営業行為は禁止されていそうなものだ。二時間も派手にやって、
どこからもお咎めを受けずに済んだのは幸運だったのかも知れない。そ
う思うと尚のこと、この計画が恐ろしくなってきた。恐らくゆのも自分
と同様、予想外の展開に押し切られて、流れが去るまででそのことを言
い出せずにいたのだろう。
「ないしょですか……。あ、『せっかく』って、そういうことですか?」
「うん。そう」
 出がけに宮子の口走った、「今日はせっかくゆのがいない」という少
しおかしくて、少し不穏な言い方が、なずなの心にこうまでゆのの影を
ひっかけていた。
 なずなは、看板用にと宮子が描いてくれた自分のにがお絵を、もう一
度ぺらりと取り上げて眺めてみた。宮子には自分がこんな風に見えてい
ると思うと不思議ながらも合点がいき、乃莉が描けばまた違い、ゆのが
描けばまた違う自分が浮かび上がるのだろうと考えた。どんな角度から、
どんな思いで。ただ単純に、普段右に座ることが多いのか、それとも左
か、そんなことでもきっと変わってくる。それを思うと、秋色のスカー
トの裾からはみ出したひざ小僧に、むずむずとした衝動が芽生えた。
「ゆの先輩……今頃、どこでなにをしてるんでしょうか」
「さあねえ」
「気に、ならないんですか?」
「うん、あんまり。怪我したりしてなきゃいいな、とは思うけど」
「そう……なんですか」
「夜には帰ってくるでしょ。ひだまり荘に。聞いたらきっと、教えてく
れるし」
「でも……」
 自身の歯切れが悪いのはいつものことだけれど、ぶつぶつと、言葉と
気持ちは伸びたうどんをすするみたいにいつまでたって終わりを見せな
い。十五分と言い切った時間で、出会ってからの半年というなずなの時
間をずばりと選んで束ねた宮子の業には申し分がなかった。美術科には
こういう訓練があって、誰もがこれをやれるのだろうか。ヒロにも沙英
にも乃莉にも、ゆのにも? 出会ったばかりの頃乃莉が言っていた、「
皆そのためにここに来る」のだという言葉が、今、なずなの中に深い反
響を伴って、宮子とゆの、昨日の教室に何があったのか、何故宮子は今
日ここにいて、ゆのがいるのがここではないのか、その反響と疑問はや
がて、初めからにおいを持たない自分にはその畔で佇むことしか出来な
い目の前の大きくて早い渦に飲み込まれていく。その回転に目奪われる
と、どんどん、どんどん、目眩がひどくなって天地を失い、体の外側の
ことがわからなくなっていくような気がした。頼れるものは、体の中に
あるものだけだった。
「でも、ゆの先輩……何か悩んでらしたんですよね……」
「うーん。そだねえ」
「私、私は……そういうのよく分からないし、ヒロさんたちも忙しそう
だし、乃莉ちゃんは、まだ多分……あの、だから……」
 訥々と、自分のどこかから湧いてあふれ出す澄み切った液体は、さら
さらと自分でもとらえどころが分からず、その向こうに見える景色をゆ
らゆらと歪めてしまう。源流が分からないから、いつものように石で蓋
をすることも出来ない。
「宮子先輩は」
 にがお絵をまた、ボンゴの手提げの下に滑り込ませる。居住まいを正
して座り直すと、体が自然と、少しだけ宮子の方を向いた。宮子は大き
な目をぱっちりと見開いて、不思議な物を見る目でなずなの話を聞いて
いる。
「ひ、ひとりで色んなことが出来るから、その、そういうの……そうい
う……」
 気持、ち……とまた、心が逸って一つの言葉を一息で言えなくなって
きたそのとき、どこからか、奇妙な呼び声が空を渡って響いてきた。


  ──SunFlowerノ オ嬢サん、どコでスカー!?


 大人の男の声だった。
 なずなも宮子も、めいめい声のしたと思った方へ顔を上げたが、その
方向はちぐはぐだった。その声は夕暮れの町を巡るチリガミ交換の呼び
声のように、ぜんたい何処から聞こえてくるのか分からない、反響の迷
路の中にあった。前方の、池の向こうで呼んでいるようにも、背後の雑
木林の奥からのようにも聞こえる。
 外国の人間なのだろうか、ところどころで舌が口の中で持て余し気味
になっている。肺の底からまっすぐに上がって抜けていく太みのある声
で、出所こそ分からないがよく透り、なめらかで、独特の丸い甘みがあ
った。それよりも問題は、言葉の中身の方だった。


  ──オ嬢サん、SunFlowerノ、オ嬢サーん……


「……さんふらわあ……。何なんでしょう?」
 サンフラワー。ひまわり。公園の中に花売りでもいるのだろうか。呼
び声の不可思議さに心がすっと落ち着きを取り戻し、なずなは移動式ス
タンド売りの花屋を思い浮かべながら宮子に視線を戻した。そのとき、
当の宮子が反応した。
「焼けたー!!」
と、耳をぴくりと跳ねさせたかと思うと、ベンチをひっくり返しかねな
い勢いで飛び出すように立ち上がり、
「ちょっと行ってくる!」
と、なずなに声もかけさせず、走っていってしまった。方角はさっきお
茶を買って戻ってきた方だったように思う。池の畔から花壇のある角を
曲がり、その姿は雑木林に隠れてすぐに見えなくなった。
「え? み、宮……」
 言いそびれた言葉の続きを、上げかけた手と一緒にだらりと無かった
ことにして、なずなはため息をついた。
 ひとりに戻ってみると、暮れかけた秋の陽は思いの外冷たく、肌の下
に一枚、水の膜が張っているように感じる。忘れかけていた空腹も、寒
さに一役買っていた。やはり温かい方にすれば良かったと宮子が残して
いった空の缶を横目に眺め、ゆび先の軋む手のひらをこすり合わせて開
いてみると、いつもよりも小さく縮んで、白く見えた。
「ふう。よいしょ……」
 じっと座って待っていても、今度宮子がいつ戻ってくるか分からない。
これだけの荷物を盗もうという者もいないだろう。なずなはベンチを立
った。
 改めて眺め渡す、ぐるりと外周が四百メートルほどの大きな池の周り
には、犬を連れた大学生らしき男や、お年寄りの夫婦や、二、三人の子
供や、カメラを持った自分と同い年くらいの女の子らがいて、それぞれ
に長くなり始めた影を気にしていた。
 なんとはなしに池の畔を目指して歩いてみると、薄いクツの底越しに、
ごろんとした痛みとくすぐったさを覚えた。足を上げてみるとそこには
親指の先ほどの小石があって、なずなはそれを拾い上げ、軽いケンケン
で爪先を整えるとまた歩き出した。朝から切りそびれたままの爪と肉と
のわだかまりは消えなかったが、随分と歩いてなじんできたのか、もう
あまり気にならない。
 池の淵までたどり着くと、池は空色から紫へ、濃さを増した空を映し
て大きな鏡のようだ。手の中の小石が何か生意気なことを言ったような
気がして、なずなはころころとそれをたなごころの上でもてあそんだ後、
控えめな投球フォームを取った。
「えいっ」
 けれど、やっぱりやめた。またさっきと同じように、手にした石の分
重みの増した手のひらをたらんと垂らすとしゃがみこみ、石はそのまま
池のはたの植え込みにころんと転がした。
 それに合わせるように、水面から一匹小さな鯉が跳ねてとび、その鱗
に夕日にもならない光を受けて、一瞬だけオレンジ色の光の塊みたいに
なった。魚の形をした光の塊は、とぷん、と独特のやさしい深みのある
音をたてて水の中へ帰って行った。
 なずなは、なんとなくホッとした心持ちでその鯉の落とした波紋の広
がっていくのを見送った。波紋は歪みもよどみも無い真円で、多分、無
粋な石塊を投げ込んだのではこうはいかない、あるべきかたちと速度を
たもってゆるゆると池全体を覆っていく。
 聞こえなくなった呼び声の主と、彼の探していたひまわりの女性が何
者なのかは分からなかったけれど、二人の存在に密かにちいさく感謝を
して、なずなはため息とは違う、短くてあたたかな息を一つもらした。




     × ☆     ☆     ☆




                            (続く)

|

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