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2011年11月 6日 (日)

■道標 -更新第727回-

いつの間にかTOKYOMXが受信出来るようになってたので、
前期に人気の声を聴きながらも見られなかった『TIGER & BUNNY』を見てます。
オイサンです。


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ファインダーというか、カメラのレンズを通して物を見ている時間は
ゆっくりに感じて落ち着きます。透明感と立体感。




■遅まきながらの『TIGER & BUNNY』




面白いじゃないの。
じわじわくるというか。
まだ4話目か5話目かその辺ですが、今の所、いわゆる「普通に面白い」という感じですね。
肉じゃがみたいな面白さです。

▼OP オリオンをなぞる

しかし、「言葉を紡ぐ」って表現は、いつからこんなに濫用されるようになったんですかね。
オイサンあんま好きじゃないんだけどな。昔から一般的なものだったのだろうか?


丁寧で、当たり前で、王道。
特別な感情がわきあがるわけでなく、
疲れずに、当たり前のことを当たり前に見ることが出来る。
オシゴトからくたびれて帰って来ても、
「ん、なんか録画されてる。
 ああ、『TIGER & BUNNY』か、それなら見られるわ、見よう」
と、まだ思える。
『HEROMAN』に近いものがありますね。
ゴールデンにでもやりゃあいいのに、こんなもん。
子供に見せろ!
『ウラシマン』ぽいですよね。ちょっと。

ただ、終盤になると結構な盛り上がりを見せていたようなので、
このまま「普通に」では終わらないのでしょう、恐らく。
楽しみです。

他でも何だかんだ見てるけど、これと『たまゆら』、
あと『WORKING!!』があれば結構イイ感じ。
次いで『アイマス』『はがない』『イカ』ですかね。

『ホライゾン』『真剣恋』『ベントー』『マケン姫』はオマケ。
『Fate』はそのスジの人たちにはもう鼻血が出るくらい面白がられているようですが
オイサンには縁がない感じです。



■またソーシャルげな話でアレですけども



あー、やっぱ似た様な感想・発想にをたどり着くもんなんだなあ、
という記事二編。

 ▼ソーシャルゲームの未来 ~ソーシャルと家庭用ゲーム機は融合する!~
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111018/223293/
 [ 日経ビジネス ]

 ▼ゲームもマンガやアニメのように「複数巻構成」にすべき?
 http://gadget.itmedia.co.jp/gg/articles/1111/02/news035.html
 [ ITmedia ]


上の記事は
「作り手との意識しては、ソーシャルの方式はゲーセン時代に似る」
という点において、
下の記事は、
「売り手も買い手も、お金を小分けに制御出来ることにメリットがあるのでは」
という発想で、やっぱ似たようなことを考えるんだなあ、と思いました。

オイサンはソーシャルゲームには、
マどっぷりとプレイ出来ていないってのはあるんだけども、
基本的にあまり良いイメージは持ってないんですね。
ただしそれは「作品」としてのゲームの完成度としてであって、
「作品」の成分を持ったモノを、
「商品」として売るための仕組みとしては優秀だなあと感心はしております。
そこには、立ち行かなくなりつつあるコンシューマゲームビジネスを救うだけの
何かしらヒントがあるに違いない。

買う側が出費を小分けに制御できて、
売る側が売るものなりの稼ぎを得ることが出来る
(ただし、どこかに必ず、泣いてるというか、
見合わない出費を(納得づくで)している人がいるから
成立している循環なのだとは思いますが)というのは、
お互いにとって理想的だと思う。

  レースゲームとかでも、
  オイサンは箱○の『リッジ6』とか喜んでやってたんですけど、
  レースのレベルが

   NORMAL → EXPERT → MASTER → なんかもっとすごいの

  みたいな、レベル分けが後から後から出てきて
  「これ半分くらいでいいな」と思ってしまったので、個別に買えたら良かった。

  とはいえ、レースゲームなんかは基幹システム部分が制作の手間の大半でしょうから、
  上で書いたみたいなレベルクラスを小分けにしたって
  ベースのソフトがそんなに安く出来るとも思えないんですよね。
  基本となるコースもNORMALで全部出てくるので、
  あとは上位マシンのデータと、各レベルでの難易度調整、BGM、
  そんなもんでしょうか。

  『リッジ6』は\6800だったと思いますが、
  NORMAL分だけでも\4800くらいは(或いはもっと)取られてしまうと思います。
  それを\6800にして、あまり手間かけずにボリューム感出すために
  上位クラスを追加した、という印象を受ける。
  その辺は難しいですね。
  閑話休題。

なので最近は、ソーシャル系の記事のことを取り上げることが多いんですけどね。
目に付くってのもありますが。

アニメにしても、
「面白い」と思った作品に実を伴った応援を届けようと思っても、
それをするには結局BD・DVDを買うくらいしか選択肢はなく、
ちょっと、そこまではせんなあ、と思ってしまうことが多々ある。
それは出費がでかすぎる。

もっと小額の応援を、たくさんの人から集められるようにした方がいいんじゃないかと
思いはします。
5000円とか6000円とかするBDを10人が買うところを、
300円400円の、何か小さな物を、200人300人が買うような仕組みに出来たら
いいんじゃないかと。

イマドキ、そっちの方が確実なんじゃないかという気はいたします。
……マとはいえ、
そうなるとモノ自体は最大公約数的である必要が自然と出てきてしまうので、
あまり尖がったものは出てこなくなってしまうかも知れません。
そこはまあ、売りモノと売り方のご相談でしょうねえ。



■昔の人は言いました。



定期的にこういうまとめ記事が紹介されますが。

 ▼名言を教えてくれ
 http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51674710.html


Webの時代になって、
過去にはその著作やらに触れないと知りえなかった名言なんかが
つまみ食いのように知ることが出来るようになりまして、
ありがたいと同時に、陳腐化はするし、消費はされるしで
エライひとも大変だなあと思います。
言葉そのものが放つ威力も、やはり下がってしまう気が致しますしね。
情報化コワイ。
どんどんどんどん、色んなものが均されていく世の中です。

  ……て言うか、
  その前後や流れを味わわないままに美味しいところだけつまみ食いするから、
  受け手の意識として衝撃が小さくなってしまうだけなのでしょうけどね。
  良くないというか、もったいないのかも知れないな。

デ、オイサンのやってみた遊びとして、
この中から、自分が「ああうまいこと言うな」と思うものだけ選んでいくと、
やっぱり傾向があって面白いなあと思う。
あと、昔のエライひとたちも、
ああだこうだと格好のいいことを言いながら、
結局死ぬのは怖かったんだなー、
人生に、未練や不満がいっぱいあったんだなー、と、思った。
当たり前だけど。


上の記事に上がっていた中で、オイサンが選んで残したのは、この辺↓。



 ▼とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ。
                          --太宰治
 

必ずしもそうだとは思わないけども、マ9割方はそうなのでしょうね。
大なり、小なり。


 ▼わたしの人生をわたしはコーヒースプーンで測ってきた。
                          --エリオット


粋だねえ。
オイサンはAボタンと十字キーのストロークの深さですかね。


 ▼智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。
  兎角にこの世は住みにくい。
                          --夏目漱石


まあ、その通りでさあな。
多少見渡せる範囲が変わったところで、今も昔も変わらないんだね。
それをこう、したり顔で論ってくれたスカタンがいたな。
バーカバーカ!


 ▼自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧きでる。
                          --ニーチェ


腑に落ちる。
何かが出るかどうかは別として、人は皆等しく
そこをしか掘ることを許されていないように思われます。


 ▼こころが開いている時、この世は美しい
                          --ゲーテ


言葉の中身よりも、端的な表現力がやっぱすげえなと。
やるじゃんゲーテ。詩人だねえ。 ← 何言ってんだ


 ▼薔薇はなぜという理由もなく咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。
  薔薇は自分自身を気にしない。人が見ているかどうかも問題にしない。
                          --シレジウス


腑に落ちた、というか常々そのように感じております。
二行目よりも一行目。
何かや誰かのためでなく、地球が回る、その遠心力に振り回されて生まれてきて、
回転によって生きるのです。そんな感じ。
その地球も、広い宇宙の何かと引き寄せ合って回るのです。
最初に紐を引いたのが誰なのかわかりませんが、
もう誰にも止められやせんのでしょう。

常世は大きな永久ピタゴラスイッチ。


 ▼レストランで何を注文しても、人が頼んだもののほうが絶対によく見える。
                          --ポーリーナ・ボース―ク


これは「ああそんなことはねえな」と、すごく思ったので逆に残した。
羨まれることは多いですが、人の頼んだものを羨むことはあまりないです。
シェアは申し入れますけどね。
断られたとしても、自分の頼んだものが、今の自分には一番うめえと思ってます大抵。
一人の時はイランこと考えて、失敗した……と思うこともありますが。
人といるときの方がそういうことシンプルに考えてる気がする。


 ▼インタビュアー「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」
  「家に帰って家族を大切にしてあげてください」
                          --マザー・テレサ


真理ですな。
「でかいことは俺たちに任せて、庶民はすっこんでろ!」ってことですね。
わかります。


 ▼自分を憐れむという贅沢がなければ、
  人生なんていうものには耐えられない場合がかなりあると私は思う。
                          --ギッシング


私も思う。
自分を嘲笑ったり憐れんだり、そういうドライバーは大事だ。
話が合うな、ギッシングさん。誰だか知らんけど。


 ▼眠い人が眠るように、瀕死の人は死を必要としているのです。
  抵抗が間違いで無駄だというときが、いずれきますよ。
                          --サルバドール・ダリ


私も思う。
話が合うな、サルバドールさん。
ダリだか知らんけど。 ← どや顔 ← お前ホンマ怒られろ


 ▼花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ
                          --井伏鱒二


悲観的に見えるけど、強く生きようとする姿勢の一つではあるように思う。
ふくらはぎの強そうな人だ。


 ▼命とは、セックスで感染した病気である。
                          --ガイ・べラミイ


シニカルだとは思いますが、面白い視点だなと思いました。
健康を正常とするのではなく、
命は病がデフォルトで、健康も病の状態の一つだ、というくくり方が。

……などと、分かったようなコメントを並べてはみましたけど、
本当はピンポイントにつまみ食いするのでは
すべての正しい意味は伝わってこないのでしょうね。
上っ面だけではありますが、そんな感じ。



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長いのでここいらで甘いものでも。
宮越屋珈琲のエスプレッソフローズンのフロート(アイス)アリです。
これが美味しいんだわ。




■昭和中期のWWW



先日、オシゴトで珍しく外出をしまして、
お昼もいつも買ってる会社近くのお弁当ではなく出先のお店で戴くことになりました。

そのお店がまあ、都心の街なかでは時々見かけるような、
戦前戦後の頃を模したとおぼしき、古めかしい雰囲気のお店だったのです。
ブリキのおもちゃだとか、デカいラジオだとか、
ボンカレーの看板とか石原勇次郎の映画のポスターとかめんことか、
そんな「イカニモ」なアイテムを店内にちりばめておられるわけです。
あざとい。
オイサン一人だったら、先ず入らないタイプのお店です。

  ちなみに、出てくるゴハンは普通です。
  別に「米兵の焼夷弾焼き(ミネソタ風)」とかは出ません。
  オイサンはさば味噌を、
  同行したお仲間はソースかつ丼とステーキ丼を頼んでました。
  特段、変わった味のするでなし。
  マお肉は、国産米兵の肉を使っているかも知れませんが。
  カベに貼ってあった夜の居酒屋メニューの、鯨ベーコンが魅力的でしたな。
  閑話休題。

そのお店の壁に、なんと申しましょうや、
その当時の暮らしを描いたレトロ調のイラストが貼られていたのですが……
あー、ちょっと違いますけど大体こんな感じですかね。


  ▼パンダにティアドロップサングラス by 昭和レトロはいから館
  http://ameblo.jp/haikara/theme-10015882545.html


デそういう「古い」暮らしぶりを見ていると勘違いしてしまいそうなのですが、
すごく失礼を承知で言うと、
「当時の大人は、今の大人よりも頭が悪そうに見えた」んですね。

  あの、いいですか。
  正しくないことは分かった上で申し上げてますよ。

理不尽で乱暴(物理的な意味ばかりでなく)で、
狭い視野と固定化した主観的な価値観に基づいて
日々の判断を行っている大人が多かったに違いない。
……ように、見える。
それは、一面では間違ってもいないと思います。

ただ、今と当時では社会環境も違いますし、
地域の大人に求められるものも違うので、
「頭がいいとはどういうことか」というものさしも、また違ったと思うんですね。

今の大人には、何よりも
「冷静に、広範な情報から、合理的で客観的な判断が出来ること」
が求められているように、オイサンは思います。
出来るだけ多くの、信頼性の高い情報を集め、分析して決断する。

  ……オイサンは全然そうじゃないですけども。

デ昭和中期に関してですが、
上で申し上げた様な現代的な要素が全くなかったとは言いませんし、
オイサンの知る限りのイメージに過ぎないんですけども、
もっと違うモノサシで、大人であることの価値が量られていたように思います。

それは恐らく、もっと近距離的な、自分の手の届く範囲……
それはコミュニティであったり、職能的なものであったりに特化した
知識や経験、そして思い切りの良いその運用だったのではないかと思います。
無意味に決断力があるとか。
論理的ではないけれども機転が利くとか。
人よりも広い行動範囲を持っていて、コミュニティ間を行き来できるとか。

  なんかアレですね。
  要はこないだ書いた、イヌイットの親子の話とおんなじ様なことですね。

  マ最終的には、その知識や経験でもって、
  生きるためのより正しい結論へと判断をすることが目的なので、
  最後に求められるものは同じっちゃあ同じなのですが、
  集める情報が近距離的なもの重視・経験値重視であるのか、
  グローバルな未知の情報に対して、収集・分析ができるのか、
  という差があるのかなあという気がします。

その時期でも、大人のする思考や判断の根っこの根っこには
根拠があるに違いないのですが、その保存のされ方や伝え方が
言語化や数値化などの定量化・客観化がされないままか、
されるにしても不足しがちであったので、
今の視点で見ると「考えのたらない」大人が多かったように見えるのでしょう。

  恐らくはそれを指して、蔑視的に「前時代的」と呼ぶのでしょうが。

つまるところ、
引っぱたいて「やりゃあ分かるからつべこべ言わずに黙ってやってみろ!」
っていう伝え方・保存の仕方が大半だった、ということですね。
それで許されたのが何故だったのかはワカリマセンが。

今だってそういう部分が残っていないわけではないですが、
そればかりやってると若い人に
「あのオッサン意味ワカンネエ」
といわれてしまうでしょうし、我々世代も上を見て
「ついていき難い」
という感想を抱くことが多いです。

大人に求められるものが、何故そんな風に変化したのか、というのは、
言わずもがな、合理化やらグローバル化というものの影響なのでしょう。
そして「変化の波」が、一定の方向と速度でやってくるものではなくなり、
加速度的に速まり、またどちらからやって来るか分からなくなったから、
なのだろうなあ、と思います。

今と昔で、目に見える範囲で何がそんなに違うかといわれても、
大した違いはないように思うんですよね。
モノがあるかないか
(量的にたくさん・豊富にあるという意味と、特定の何かがあるという意味の両面で)
くらいで。

お店で、その昭和の生活風景を、
ゴハンが運ばれてくるのを待つ間ボンヤリ眺めながら
「……この時代に、携帯電話はともかく、
 テレビのような感覚でWebが存在していたらどうだったろうか」
と想像してみたりしたのですが、
それはイキオイ、広範で多種多様な情報の一般的な頒布に他ならないので、
ただ今のような時代の到来を早めるに過ぎないのだろうなあ、
という結論に至りました。

だから結局は、情報量・速度・それをもたらすシステム、
それらが異なって今のように変化したのだと思います。
たくさんのことが速いスピードでやってくることが、
今の時代と、そこで求められる大人像を生んだのでしょうから。

ただ、今の時代の風潮として
「堂々とした振舞いをする大人が、昔に比べて減ったなあ」と思ったりもするのですが、
……マそりゃそうですよね。
昔は自分の手の届く範囲で習熟していれば、ある程度実感を持って胸を張れたので。
それが今は、未知なるものに対して上手く対応出来ないといけないワケで、
それをうまくやれる人ってのは……割合としては、減るんじゃなかろうかというのは、
まオイサンのこれまたイメージに過ぎないのですが。
そんな気がしますよ。

ですから、大人が大人として、力強く振舞えたのは、
おそらく過去の方……だと、オイサンなんかは思うんですよね。
あー、えーと。
それもちょっと違うのですが、
「大人全体の、大人力の総量が高かった」のは、多分過去の方だ、と。
今はトシをとっても、単純な蓄積では勝負がしにくいと、そういうことですね。

「過去の遺産だけで威張ろうなんてムシがいいんだよ!」
と言われればそれまでなんですけど。
でも、やっぱつらいよねえ。
トシ取ってまでずーっと勉強続けろってのはさ。
いい加減、トシ食ったらあとはラクに暮らしたいと思うと、思いますよ。
ラクさせてあげたいと思うしさ。


 ▼結論というか、一区切りのようなこと

別にどっちが良くてどっちが悪いと言いたいわけではなく、
ふっと
「どうしてそう(昔の大人は頭が悪そうに)見えるのだろう?」
と思ったので、つらつらと思いをめぐらせてみた始末。

今の立場で考えると、
「昔は、今ほどたくさんの情報を参照して、
 何が正しくて何が間違っているのか、正確性を求められずに済んだろうから
 ラクそうでいいなあ」
と、思ってしまいます。

自分の手の届く範囲……コミュニティの外の情報で拾えるものといったら、
いいとこ、新聞・テレビ・ラジオ。
その程度でしょう。
そしてそれらも、基本的には隔絶された社会の外側にある出来事なので
「よそはよそ! うちはうち!」
という論理で排除することが可能です。

マその分、不自由といえば不自由なのでしょうから、
それは不幸といえば不幸でしょう。
たくさんのモノが選べる自由があることは多分無条件に幸せで、
それを拒否するのは愚か者か怠け者の考えなのでしょうけれども。

でもなー。

フツーは、限界あるような気がするんですよね。
今の情報の量と流速は、少なくともオイサンなんかには限界に近いものがある。
不得意な分野では特にね。

取捨背選択のウマイヘタだけでもあるのでしょうけど。
そこでは多分、昭和中期に花開いた才能……「思い切りの良い決断の運用」が、
モノを言ったりするんでしょうね。
オトナとして。



■不惑について惑うという本末転倒な大技



えー、上の話と関係があるようなないような。

近年、不惑という言葉をやたらと耳に致します。
まオイサンがそれに近いトシになったので
身の回りで言われるようになっただけかもしれませんけども。

デこの不惑、何かと言うと、つまりは「四十歳」の別な言い方です。
「四十にもなったら、自分の生き方や考えに迷わない」
ということでして
(それが「そういうものでそれが普通」という論調なのか、
理想論なのかは存じませんけど)、
「だから我々の年代もしっかりしよう」というような、
「言葉の利用」のされ方をしています。

  けど、ちょっと待って下さいよ。

その言いっぷりがいつ頃言われたことなのか知りませんけども、
ここまで書いてきたみたいに、たかだかこの50年ほどの間でも
人を取り巻く環境がそんだけ変わってるわけです。

  マこの50年は、環境という意味じゃ特に激動だったとは思いますけど。

その中で、「40歳の在り方」だけが固定化されてて、
それは普遍的に通ずる(べき)ものなのかしら、という……
またどーでもいい疑問がわいた次第。

それが80だとか90だとか、
ある意味一定の閾値を超えてしまって、もう他にすることのなくなる時期なら
100年経とうが200年経とうが変わらないと思いますけど
(人の寿命が200歳300歳になったら知りませんよ)、
40なんて、それこそゲージの右側なのか左側なのか真ん中なのか、
すげえ微妙な位置にある年代じゃないですか。

ある時代においてはもう完全にロートル、ジジイに属するでしょうし、
またある時代においては、中堅かそこらだったりするでしょう。
……なんかね、その扱いが「昔」と同じであることに、すごく納得がいかない。
いえね、そら生まれてからそこにたどり着くまでの時間は同じでしょうけども。

そんな疑問もあって、その「不惑」、
出展を調べてみたら、論語でございました。
孔子さんですよ。

  すげえなオイサンは。
  とうとう孔子さんにケチつけ始めましたね。
  「お前は古い」と。
  孔子さんは言うでしょう。
  「わかっとるわ」と。

論語の成立年代についてもざらっと調べてみましたが、
春秋時代の末期頃らしく、つまりは紀元前400年頃。
……いつだよ!
想像も付かんわ。
日本でもねえし。

当時の平均寿命は一体いくつだったんでしょうか。
50歳とかだったら……そら死ぬまで十年切ったら、不惑にもなりましょう。
でも、その頃の平均寿命なんて、そのくらいじゃね?

マそんなことで。

いえ、確かにね。
四十にもなったらば、足元身元固めて、どっしり構えてたいとは思いますよ。
身体の衰え具合は、2000年前だろうが今だろうが、そうそう変わらないんじゃないかという気はしますよ。
耳が少しずつ遠く、目もちょっとずつ見えにくくなる、
精力も減衰するでしょうし、
女性だったれば子供を生むのが体力的に辛くなる頃合だと。
ハードウェアとしての人間のピークを過ぎて、
迷ってる場合じゃねえ、さっさとなんだかんだ済ませちゃわないと出来ることどんどん限られてくるよ!
……っていう頃なのでしょう。

けどその、ソフトウェア的に考えるとねえ。
まだまだ。
残り時間もまだそこそこあって、入ってくる情報もたくさんある、
となりの芝生情報も超潤沢ですよ。
そりゃあ……四十やそこらの小僧っ子は、まだまだ迷いもしますって。

マそんなことでね。
果たして、このまま真に受けてていいんでしょうかね。
不惑。
と、思ってしまった秋の宵でしたよ。


以上、
あんまし細かい心配しないでいい世の中にならないかしら。
「とりあえず死なないから大丈夫」くらいの線引きで。
などと考える面倒くさがりのオイサンでした。


R0045780
エエい面倒くさいからごはんにしようぜ!


面倒くさがりのくせに、
面倒くさいことばっか考えてますよねコノヒト。



 

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