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2011年8月12日 (金)

■映像のスイッチ~シューティング小咄と書き物の話 -更新第697回-

「そんなのウソ!」
「気休めでしょ!?」

そんな風に言われる世間の風潮をだな、早急にどげんかせんといかん!!
何の話かって? それはねウフフ!!
オイサンです!





■妖精と魔女っ子



最近何となく気まぐれで、
過去にやろうとして挫折したSTGとかをやってます。


 ▼伝説の妖精、再臨。シェリルじゃない方。

特にXBOX360の『シルフィード』。
これまでも、ことあるごとにやりたくなってはリトライしてたんだけども上手くいかず。
けど今回はワリと開き直ってやってるせいか、
くじけずにそこそこ上手くやれておる。
難易度イージーで、最低限のことだけやる、っていう。

Project SYLPHEED



……でもそれって、3D空間でカッコ良く宇宙戦闘やりたい、っていう当初の目的とは
全然外れちゃってるんだけどねー……。
ままならぬのう。
結局、ターゲットを追って、ホーミングミサイル当てて、っていうだけだもんなあ。

ぼちぼちと、戦艦を落としたりパーツを狙い撃ったり、
ということも出来るようになってきたからこれから面白カッコ良くなってくるのかもしれないけど。
もっと直感的にコントローラをバチバチバチバチバチ! って操作して、
「え?今のどうやったの?」と言われる様な、
ゲームにしたってあり得ない様なマニューバで戦えるようになりたいです。
↑今は補給艦に全速で突っ込んで即死してる人 ← うるせえ

このゲーム、ターゲットマーカーが不親切というか、
「今目の前にいる敵に、ターゲットマーカーを即時切り替える」
ということが出来ないんですよね。
不便。
あと、パーツ破壊できる敵(戦艦の、ブリッジ・砲塔・バリアジェネレータ・推進器 とか)を、
パーツごとにロック出来ないとか、その辺不親切だと思われ。
『スカイガンナー』はその辺素晴らしく気が利いていたぞ。
それだけでも随分プレイアビリティが上がると思うのだが。
あとゼイタクをいうならバリアブルビューを搭載して欲しい。

どうでもいいけど、伝説の初代PC8801版とメガCD版って
どっかに完全移殖されないもんですかね。
いい加減、あったって良いと思うんだけどなー。
宮路さんも亡くなっちゃったしもうないかなー……。

あとこのゲームの主人公を「カタナ・ファラウェイ」っていう名前にしたヤツ出てこい。
カッコイイとでも思ったか。
時代が30世紀だろうと40世紀だろうと、DQNネームはDQNネームだからな。


 ▼まじょっこだいじけん

もう一個はやはり360の『とらぶるウィッチーズねお』。
いやあ、360はSTGが豊富で夢のようですな。
これも初見の印象があんまり良くなく、真面目に手をつけてなかったのですが、
小難しいスタイルにこだわらず、ガチャガチャと遊んでいると案外楽しいことに気付きました。

▼とらぶるウィッチーズねお


敵を倒すとお金がもらえて、
そのお金で道中出てくるショップで武器(最大同時に3つ・全て時限制)を購入出来るのですが。
その武器を、好きな順番では使えない・買った順にしか繰り出せないのですね。
それがちょっと……どうナンカナー? と思ってたんですが、
その先の面の構成を一度プレイしてアタマに入れておいて、
デッキを組むように買えばいいんだと発想が切り替わったとき、途端に面白く見えてきました。
現金なモンですね。

 ステージが、
  ・敵がワーッと出るシーン → ・弾幕シーン → ・ボス
 と展開するなら、
  ・7WAYショット → ・回転シールド → ・一点集中型ショット

の順で買っておけばいい、というようなことです。
なかなか、これは楽しい感覚です。
……しかしそれならそうと、「そういうんですよ!」と、
プレイ前に伝える努力があっても良かったのではないかとは思います。
マ作り手の意図を読み取る楽しみってのも、あるんですけどね。

まオイサンのSTG好きなんてのはヘタの横好き以外の何者でもないわけですが、
それでも。
STGってのは楽しいもんですよ。
もっとドラマを主体としたゲームを作ることが出来れば、
この楽しさはもっと受け入れられると思うんだけどなー。
撃って壊してかっこよく! という快感は、根源的なものだと思いますからね。


……。


て、別に今回はSTGのことを書こうと思ったんじゃないのよ!
前置き・近況のつもりがワリと長めになってしまった。



■文章中の「映像」表現・カメラワーク的な演出について



本日の本題はこちら。文章による表現のお話です。
上のSTG小噺とはなんら関連ありません。

コレといって具体的な例や思うところがあったワケではないのですが、
ジョギングをしながら書き物のことを考えていて、フッと考えたことです。
その時Twitterに投げた文句をそのまま引用すると、

 ・小説の視覚表現に、
  映像作品のような演出的な意味でのカメラワークというかフレームやその大きさ、
  角度というものを持ち込むことは、基本的に是や非や。

 ・具体例というと難しいですが、
  人間の視線を文章化したものなら当然ありなのですけど、
  映像技術として進化したカメラワーク、映像作品から生まれてきた視点の技術を、
  それが読み手の頭の中にあることを前提として文章でそれを再生させることは、
  どうなんかなあと。

ということ……らしい(笑)。
このままだと分かりにくいですし誤解も生みそうですのでちょっと整形すると、


映像表現においては、場面を演出するために、ある程度定まったカメラの使い方
(そうしなければいけないワケではないだろうが、
「こう撮っておけばとりあえず間違いない」というパターン化された定石・
 セオリーのようなもの)
がある……だろう。あるはずです。
多分。

「こういう風に撮れば緊張感を演出できる」
「こういう風に撮れば不安感を表現できる」
「    〃    楽しさを強調できる」
そんなことです。

上の「こういう風に」の部分には、
たとえば画面の切り取り方であったり、カメラの傾け方であったり、
近くから撮るのか、遠くから取るのか、
遠くからの近付き方・近くからの遠のき方(早く/ゆっくり)、
まっすぐに撮るか、間に何かものを介して撮るか、
どこに焦点を合わせるか、ぼやかすか……
そんな無数のファクターと、それらを組み合わせた方法論が当てはまります。

デ、文章で場面の視覚的な部分を描き出すときに、
その場面というのは(基本的に)人の目に映ることでありますから、
ある程度視覚的な、風景・光景・イメージというものは書き手にあるでしょう。
その視覚情報の上に、場面の雰囲気・心情的な情報を重ね合わせて描写していくわけですが、
その描写を、例えば
「緊張感を出すために、あるときどこかの映像で見た、
 緊張感を煽るようなカメラワークを再現する」
ような書き方をするのは、果たしてアリ……どのくらい意味のあることだろうか?
というのが、オイサンの抱いたギモンです。

  つまり「心象も含めた視覚表現」が映像技術として既にあるので、
  それを借り受ける形で文章に取り込む、といった感じです。
  カメラワークそのものをそのまま描くのではないにせよ、
  「読み手の頭の中にその定石的な映像表現が刷り込まれていることを前提として、
   それが喚起される(再生されるスイッチを押す)ような書き方をする」
  としてもらっても良いでしょう。

  アタマの中で映像の再生スイッチを押すような文章だけを書く、
  それをにおわす枠組みだけを書く、
  のようなことだと思ってください。

それはオマージュとかではなく他分野のライブラリの二次利用であって、
それはなんか……二次創作的だな、と思った次第。
自分がウッカリ無意識に、それをやってしまっていないだろうかということが、
とてもとても気になった。

文章で視覚的表現をすることはもちろんあるのでそれが問題だと言ってるわけではなくて、
そのやろうとする視覚的表現を、映像表現の教科書を読みながらやってしまうことを、
問題視……とまでは言わないまでも、引っ掛かりを感じた、ということです。

映像技術としてのカメラワークも、もともとは人間の視覚と心象的なことから抽出され
それを模式的に再現することで生まれたやり方であって、
人間の五感を基礎とした表現でしょうから(ていうかそうじゃないモンなんてないだろ)、
別段それを模倣することに問題はないようにも思われますが、
なんというか、
映像でやっていることを借りるのではなくて、同じ目的のことをやるにしても、
一度文章表現に最適化した落とし込み方をする必要があるんじゃないかと
思ったのでした。

  言葉で、読み手のアタマの中にある映像の再生スイッチを押すんではなく、
  言葉を視覚情報に最適合成する回路を読み手の頭の中に育てるように、
  文章屋としては仕向けていく必要があるんじゃないか。
  そんな話です。

当然、結果的に読み手が得られる風景も違ってくることでしょう。
映像を借りてきたのでは、過剰な部分・不足している部分が多々含まれているでしょう。
自分のしたい表現に本当に要るトコだけを作り出せるようにした方が、
伝えたいことがより伝わる。
そう思うので。

  恐らくは文章の方がフォーカス出来る領域が狭く、被写界深度が浅い。

ただ、そういうライブラリを転用した方が、
恐らくは読者の脳への処理負担も軽くて済むでしょうし、文章量自体も少なくて済む。
オイサンの敬愛して止まないラノベ作品、
『撲殺天使ドクロちゃん』はその集大成みたいなものでして、
オタク的情景のライブラリがこちらにフルインストールされていることを前提に描かれています。
その速さ・分かりやすさで無駄を省きつつ、独自の筆力でも楽しませてくれる。

典型となっている映像のソースを持たない人間を無視した書き方だ、
という批判もあるかもですが、
それはもう……もちろんゼロではないでしょうが、対象の数の大小の問題でしかないでしょう。
少なくとも現代の日本で、動画・静止画問わず、
そうした映像表現に触れずに育つ人間が果たしてどれだけいることか。
人の手の全く加えられない視覚の情景だけを見て育つ人間です。
それに、それを持たなくても同じように人に感じさせることができるからこそ、
そうした典型は典型たりえている訳です。



……ねえ。



言葉というものが、
脳内で発生するあらゆる刺激の電気信号をサンプリングして置換圧縮し伝達するための、
マルチパーパスな、かつ最大公約数的な表現方法だとすれば、
別に、圧縮され、他者に伝達されたあとで、
最終的に伝達相手の脳内に展開・解凍されるものが、映像であろうとなんだろうと
伝わりゃいいんですけども。

まあそこが、絵を描こうとか、文章書こうとかいう人間のエゴいところ、なんですけどね。
言いたいコトだけ、言いたい様に、伝えたい、と、思う。
なんというか、それが研ぎ澄ますということであったり、
「美しい」ということだと思うので。
出来るコトなら、そうしたい。
  
  ……あの、言っときますけど、伝わらないよりは全然いいんですからね。

マ勿論、ラクもしたいわけですけどね。
どうでもいいところはラクにやってしまって、
キメどころでだけビシッとキメる、というメリハリが、
一番「面白い作品」に近いのでしょう。
多分。

そんな自分のエゴが、どれ程用を成してるかも分かりませんが。
どうだろうな、やっちゃってないかな、やっちゃってるだろうな、
やっちゃってるつもりはなくてもそうなっちゃってるところも一杯あるんだろうなと、
朝、
ゴハンを買いに行くついでのジョギングの道すがらで思ってしまったので。

  一番厄介なのは、自分が再生スイッチを押す気がないところでも、
  押されてしまう人もきっといるだろうというところで、
  さすがにそれを避けるというのはまた、難しいですね。

こんなことを、考えて書いてみたのでした。
ツイートしたときに書き物系の方からは、2、3反応もいただけましたのでね。


マそんなことで。
オイサンでした。


 

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