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2011年5月29日 (日)

■青春として。~『げんしけん』は如何にしてその魂を生贄に捧げたか -更新第677回-

先日、『げんしけん』の新シリーズの単行本第一巻が発売されました。
オイサンです。

げんしけん 二代目の壱(10) (アフタヌーンKC) げんしけん 二代目の壱(10)
(アフタヌーンKC)


著者:木尾 士目
販売元:講談社
発売日:2011/05/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

オイサンは第一期の『げんしけん』は一巻目の雰囲気が大好きで、
遊びに行った高校時代のオタクな友人の社員寮でそれを紹介されるやほれ込んでしまい、
帰りのアシで購入して帰るほどでした。

そのくらい、あの一巻・第一話の印象は鮮烈だった。
当時徐々にはびこり始めていた、
オタク文化を自虐的に縮小再生産したマンガとは一線を画した、
社会の片隅に息づくオタクの本当の姿がそこにあったように、オイサンには思えます。

けれども以降、お話が派手になり、
自虐的縮小再生産のエッセンスも混じっていくに従ってオイサンはどんどん興味を失って、
最終巻に至ってはもうすっかりどうでも良くなっていました。
今回発刊された『げんしけん 二代目』はその延長線上にあって、
また随分ナナメ上向いてテンションをあげていますが、
うむ、
なかなか楽しめました。

一巻一話の雰囲気を諦めさえすれば、面白いお話だと思います。
少なくとも、先の展開は全然読めない。

  マ大体がして、あの一巻一話の空気をまとったオタクさんも、
  世の中の、少なくとも普通に日の光の届く範囲からは随分減ったように思われます。
  それが、メディアが世間に阿っていったからなのか、
  はたまた世間がメディアに引き寄せられていったからなのか……
  どっちなのかは分かりません。
  多分、どっちも。ワリと五分に近い割合じゃないかな。
  メディアって怖いぜ。

デ、その勢いで、もはやすっかり忘れていた
アニメの方のOPがハテどんなんやったかいなと気になって漁ってみたところ……
OVA版のOPに行き当たりました。
ははあ、OVAになんてなっていたんですね。
知らなかった。


▼青春として。げんしけんOVA OP

映像がまた良いんですよ。泣ける。
眩しいほどのクッチーの笑顔。CD-Rの裏面。この画を作った人はホント分かってると思う。




これがまた……


素晴らしく良い曲だな!




ただし、必ずしも『げんしけん』のOPとしてマッチしているとは思わないけどもだ。
そしてそれは初代アニメ版『げんしけん』のOPにも感じていたことなのでした。
ナニが違うかって……オイサンの持っている「オタク」という人種の面影に、
そこそこマッチはするのだけれど、
肝心なところでずれている……そんな気がするのです。
良いところまで接近しているがゆえに、
その少しのズレが気にかかる、
CGの世界で言うところの「不気味の谷」に陥っているように、放映当初から感じておりました。



……。



ちなみに、この先の文章の随所に「オタクとは」みたいな、
オタク論、あるべき・ありうべきオタク像の話が出て参りますが、
それはあくまでも、オイサンがこの三十年あまり、
……いわゆる「オタク」としてのキャリアはうち二十年そこそこですが……
そういう期間、オタクというものを内から外から眺めてきた上での
あくまでも見た目的統計論に過ぎませんので、そこんトコは一つヨロシクです。

共感も反論もウェルカムですが、絶対でも正義でもないので、誤解のなきよう。



……。



 ▼などという、ですね。

モノワカリの良いことを書いてしまうと安全ではあるんだけど刺激的ではなくなるので
書かない方が旨味はあったりするんですけどね。
でもまあ、ホントのことなので書いときますけど。


 ▼ソシテマタ!(Hacking to the Gate風に)

そんな風に、客観的なオイサンは書いていながらも、
主観的なオイサン自身は心のどこかで

  「ケッ!どいつもこいつも良い子ちゃんぶりやがって、
   オタクなんてのは↓こういうモンなんだよ! わかってねえな!」

と、吉野家コピペ然として考えているとコトもまた事実だ、
というコトも合わせて分かっておくと世の中ってヤツがちょっとだけ楽しくなるよ!
どれもこれも、全て矛盾せずに本当のことですからね、エエ。

▼Hacking to the Gate

全然関係ないけど、Hacking to the Gateを略すとH to G、
つまりアルファベット一個分の逆行とか、
そういう意図もあるのかなとか、不毛なことも考えてみたが強引だな。




■第一期OP 「マイペース大王」



タイトルを聞いた時点で、
「あ、失敗したな」
とストンと思ったのを覚えています。

オタクってね。
別に、マイペースなワケじゃないんですよ。

世間の流れに流されず、自分の好きなほうへ向いて、思うところへのみ向かう。
その印象はまあ間違っていないと思いますけど、
決して、世間に対してマイペースを保っているわけではないんです。

皆、常に世間の目を気にして、
流行を羨み、けれどもそこに馴染めない自分を責め蔑んでいる、
少なからずそういうところがあって、
周りからの流れを気にしてビクビクしているもんです。
どうしたってその流れに合わせて歩調を変える、
気にして気にして、流されて、でも流そうとする流れがあるから踏ん張れる、
そんなところにある人たちだと、オイサンは思います。

  そこを越えて突き抜けちゃった人たちはもう、ちょっと「オタク」ではくくれない世界にいる人たちだと、
  オイサン思いますよ。
  オカダトシオとか、アンノヒデアキとかさ。
  彼らはオタクであった以降に、学者さんであり芸術家にちかいところにいるでしょう。
  無論、それらである以前にオタクではあるんだけど。
  「オタクである以前に学者」では決してないと思いますけどね。
  でも今では、オタク以上の地殻が、彼らを覆っていることは事実だと、
  少なくともオイサンのケチな目には映ります。

そもそもマイペースというのは、
最後には自分の歩調が周囲の歩調に対してどこかでキレイに合流する、
どういう結末であれ自分は無事で済むという
(無意識の上であっても)自負があるから貫き通せるわけで。

オタクは……そうではないと思います。
下手をするとその流れのギャップや軋轢にすりつぶされて死んでしまうという
怯えがどこかにある。
だから世のフツーのオタクさんたちは、
「マイペース」という言葉の示すほど、ふてぶてしくもなければ自信もないのです。

そりゃあね。
ある程度「ケッ」って言いますよ、世間様に対しては。
その流れが強くあればあるほど、自分達の存在は際立つし、自分たち自身も強くあれるのですから。
精一杯の強がりで、「世間なんてよっ!」って言います。

でも本当に世間がどうでもいい人は、そんな言葉もクチにしないはずです。
だからそれがある限り、オタクはマイペースではいられない。
そういう意味で、大きく『マイペース大王』を主題歌においてしまった
アニメ『げんしけん』第一期は、オイサンにとっては余り興味のもてる作品ではなくなりました。

アタマ何話かは見ましたが、途中で切ってしまいましたね。
確か。


  だから「自虐」と「縮小再生産」を売り物にしてしまった時点で、
  オタクの世界は変わらずにはおられなかったのでしょうね。



■そして今回の「青春として。」



▼青春として。げんしけんOVA OP フルバージョン



上でも書きましたけど、このお歌、オイサンは大好きです。
ベースとなる色は大好き。
そしてまた、基本線としては合ってると思うんです。
青春ドラマとしての『げんしけん』(一風変わってはいますが)にはマッチするお歌であると。

けれどもね。
青春の各論として、オタクのメンタリティに触れようとしたとき、
このお歌の持つあまりに前向きなアドバンスな力は、
やっぱりちょっと馴染まんなあとオイサンは思います。

まあそもそも、オイサンの思い描くオタクの姿は
『げんしけん』の世界ではマイノリティに追いやられてしまっているので
主題歌に登場するのは不適当なのかもしれませんが。

オタクって……初期のクガピーやクッチーが、
その代表選手だと思うんですよね。
あとはハラグーロに、イイトコ最初の頃の荻上ちゃん。

彼らは、なかなかこう、お日様の下で「ボリューム」や「スピード」を上げる人種ではない。
「輝く未来に羽ばたく」ことを夢見たりはそうそうしない。
もっともっと、流れをきちんと見ていて、聡明な諦めを身に付けていると思うんです、
彼らは。
「今日というシナリオも、明日というアドリブも」
という言い回しも、オイサンは大好きなんだけど、
やっぱり彼らにはおしゃれがすぎると思う。


 ▼お日様の下の『げんしけん』

『げんしけん』の世界は、なぜか二巻以降、
彼らの生活圏であるオタクの世界にのみカメラをフォーカスするようになりました。
彼らがイキイキと躍動するその分野での出来事を追うようになった。

オタクって、今でこそ秋葉原という「聖地」を社会に生け贄として差し出すことで、
その存在を一般社会にある程度認知せしめることに成功してはいますが、
『げんしけん』の連載が始まる丁度その前後まではまだまだ日陰者で、
お日様の下にいるときはすっごいしょぼくれていたように思います。

そんな彼ら(本当は「我ら」なんですけどね)の姿を描くのに、
彼らだけがいる世界を描いてもしょうがなかったんじゃないかなあと、
オイサンは今でも思います。

勢い、原作は結局、オタクなエッセンスをふりかけただけの、
ワリと普通の恋愛物語として幕を閉じていかざるを得なくなっていたように思います。

彼ら・我らオタクは、別に日陰でのみ生きてる訳じゃなくて、
むしろ生活の大部分は普通の人たちと同じ、お日様の下で生きてるわけで、
やはりそこにも、ある程度舞台を持つべきだったんじゃないか。

ああいうフツーの世界にしたからこそ、
『げんしけん』が最終的に今のサイズの成功を収めたことは確かだと思います。
オイサンの望んだ姿の『げんしけん』は、
数字の上では、きっともっと小さなサイズでしか成功しないでしょう。
それでも、やっぱり作品として今の『げんしけん』は不完全で……
もっと高みへ上れる作品だった。

オタク世界にカメラをフォーカスしたことが、
『げんしけん』の成功と失敗両方の原因だったと思うし、
フォーカスするにしても、咲さんはあの世界には、かたくなに染まるべきではなかった。
彼女は外界の代表として、もっと彼らに辛辣であるべきだったと思えます。

  逆に考えると、彼女が態度を軟化させて少しずつ融和を図る姿は、
  当時のオタク文化圏と世の中の距離を、
  なかなか見事に象徴していたともいえるかもですが。


 ▼日陰者の花

チョイと話はそれましたが、まあそんな意味で、
『青春として』に用いられる旋律と歌詞の力強さは、
かげり、しめった世界でのみ花開く我ら・彼らの青春には今一つマッチしないと思えます。

幸せや悲しみを分かち合う青春の仲間、という観点では、
『げんしけん』のドラマにこの歌は正しい。
それはオタクに限った話ではないと思うけど、
このアニメの主題歌に据えられた時点で、この歌はこの作品のものだと思うし。

だからこそ、そこに主旋律としてあてがわれるべき感情の言葉は、
喜びはもっとジトッとして、悲しみはもっとアッケラカンとして、
くすんだ、しなびた、けれどもしなかやであっていい気がする。

それこそ、「すれちがうさみしさ」や「ゆれまどうかなしみ」を、
「今日のところは一休み」するんじゃなくて、それらをこそ強く打ち出して、
メインに描いて欲しかった……んだけどねえ。
オイサン的には。
オタクの日常って、どちらかといえばそっちが大部分だと思うんだけど。

それに、オタクというのは
「ささやかな喜びを分かち合う幸せ」に耽溺して、
「すれちがうさみしさ」や「ゆれまどうかなしみ」を
「今日のところは」と一休みしたまま、ずーっと来てしまったようなところがある人種でもあると、
オイサンは思います。
日々直面するさみしさかなしさを、

  「マママママ、まあ、それは一先ずいいじゃない。
  これからアニメ始まるから」


みたいなことでね。
やっぱし、そこを逃げずに真っ正面から、説教臭くなく、面白く、
描いて欲しかったというのはあります。
丸めた自分の背中を、しっかりと描いて欲しかった。
TPSのようにね。

  「この作品の中にはこういうオマイラの仲間がいるから、
   今はそういう感情はしまっておけ」
  という開幕のメッセージだったのかも知れないけど。

そういう意味で、『マイペース~』のときもそうだったけど、
この作詞作曲のMANZOさんはオタクってものを分かってない……というと傲慢なので、
オイサンの見てきたのとはちがうオタクを見てきたんだな、と思う。

マ、オイサンの偏見だけどね。
オイサンはオタクだけど、オタクに偏見があるんだ。
そしてその偏見にマッチするオタクをいとおしいと思う。
突き抜けて、強い輝きを放ち、

  「お前まぶしいんだよ消せ!!」

と疎んじられる、ギリギリのセンで役立たずな強い光。
役には立って欲しくないんですよね。
どこかで邪魔くさくあって欲しい。
そこにかなしみとさみしさが生じるわけで。
理想のオタク像に近いものがある。

オイサンも、大学時代にそうやって同じ仲間と過ごしていれば、
こうは考えなかったのかもしれない。
こないだの記事でも書いたみたいに、オイサンはここまでコアなオタクの世界には浸れずに、
本来その世界の住人でありながら、外からその世界を眺めて来た人間なので……
だからこそ中立に見られているという若干の自負もあるのだけれど、
見えていない部分も一杯あると思うので。

中に入っちゃうと、楽しい・気持ち良い、世界は全てそれで出来ている、
みたいに思えてしまうものですしね。
オイサンが大学時代に少しだけ浸っていた、演劇の世界もそれに近いものでした。
浸ったがゆえのドロドロも勿論あるわけですが、それは楽しみの裏返しで、
それはそれでやはり、オタク暮らしに固有のものではないでしょう。

だから、今の、明るくて、おしゃれで、
アウトゴーイングな若オタ諸氏を前にすると、
果たして彼らをオタクと呼んでも失礼じゃないのかな? と身じろいだりもするけれど。
これが時代というものなんだろうと、飲み込むことにしています。



■「n%3」の希望



とは言うものの。
やっぱりこの歌、ポップスとしてすごくいい。

……そう、上でも書きましたけど、聴き様によってはこの歌、
もっと全然ゼネラルに使えそうな歌なんですよね。
フツーの青春モノのドラマとか、恋愛ドラマとかにも全然合わせられる。
そんな、売り出しようによっちゃもっとメジャーに売れたかもしれないものを、
こんなニッチな世界に、よくぞつれてやって来てくれたと……
お歌としては、紛れもない「すごくいいうた」だとオイサンは思うので。

両手を広げて歓迎したいと思うのです、



ようこそ!!



  ……今更、ではありますけどね。
  けど不思議と、聴いていると、どうも「アニメの主題歌」以外には
  ピッタリこないような気もしてくるんですよね。
  なんでだろ。
  ちょっとダサイのかしら。イマドキでないというか。
  アニメっぽさ、みたいなものってどこから来るんだろう。

特に

  「人生は3で割る。割り切れないことだらけ。
   だからせめて、その余りに大事なことをギュッと詰め込んで生きていこう」


とは、まさに言い得て妙だと思う。
ここはまさに、理想と偏見のオタク像を見事に言い表してくれていて、
本当に。
うれしくて。
涙がでましたよ。
そだよな。
割り切れなさのあまりなんだよ。
結果論だけど。

けど、3で割るということは人生の1/3は割り切れることだということで、
それはかなり打率のいい人生なんじゃないかな、という気がする。

無限に(?)存在する素数、そのどれを分母において生きていくか。
でも「自分が日陰者だ」と自覚することに成功したオタクは、
案外割り切るのはうまいかもしれない。
諦めとか、開き直りともいうけど。
3か、5か、7か。
案外、表舞台に立って色んなものと戦う人のほうが、
その分母は大きい様な気がするね。
相手にする物の数が多いから、あたりまえか。



■Closing



まあ……そんなことでしてね。
若い人がこんなコトを言われても、全部はピンとこないかも知れないな。
ちょっと特殊な視点も入ってるだろうし。

案外この歌は、
ローソンなんかで『けいおん!』やら『レールガン』やらが大々的に売り出される
今に育った人たちならば、
すべてにぴったりと合点が行く歌なのかも知れません。
分母も、ホント3くらいで。

今オタさんには今オタさんのかなしみ、さみしさ、苦しさがあるのだろうし、
「おまいらはラクしてる、けしからん、わしらが若かった頃は……!」
なんて言うつもりは毛頭ありません。
今には今のあり方を謳歌して欲しいと思います。
それは時代性を伴わないオイサンには到底理解できないことでしょうから。
まかせた。



ただね。



芸人の有吉さんがね。
言ってましたよ。
「ブレイクするってコトは、バカに見つかるってコトなんですよ」と。
それまで役に立たずとされていたものが、
金になりそうだと嗅ぎつけられて、祭り上げられることなんだと。

オタク文化は、芸術だとか、産業だとか、もてはやされてはいますけど、
やっぱねー。
役に立っちゃ、だめだ。

テレビゲームが良い例ですよ。
子供のおもちゃだった物が、株主の都合にまきあげられて、
決算期に間に合わせるために駆け込みで悪質ゲームがリリースされ、
短期利益の追求のために、長期スパンでの開発や投資が認められづらくなって、
有名どころのクリエイターは軒並み独立していったでしょ。

お日様の下に出るってコトは、そういうことなんだよやっぱり。
そこで胸を張って輝き続けるにはそういうコトが求められるし、
コツがいる。

そうじゃないだろ。

「そうじゃないだろ」を叫び続けることはモラトリアムでしかないんだけど。
「あまり」にしか出せないアジを、オタクには出せると思うんだよな。

オタクはロックンローラーじゃないから叫ぶ必要はないし、
明らかな敵意や反骨精神を示す必要もなくて。

  「いやあまた役立たず呼ばわりされちゃったよ参ったねへっへっへ俺キメェ」

って、タフな薄ら笑いでアニカラでも歌っていて欲しいと思いますけどw

ずいぶんと物わかりの良くなってきた感も垣間見えるオタクの世界ですけど、
ちょっとこう、今更ではあるんですけど『げんしけん』発刊のタイミングで
この良いお歌を発掘出来、
いくらかの人にでも聞いていただけたらいいなあと思いましてね。
ご紹介してみました。

  ……Youtubeで紹介すんのもキミそれはどうなのよってのはあるけど。
  オイサン買ったよ。
  ぽちったよ。

皆さんがこのお歌を聞いた時、
自分の中のスピリッツと重ね合わせ……
果たして、残るのが素直な感動なのか、違和感なのか。

別段ワザワザお聞かせ願えなくとも、いいので。
残った物を胸にしまって……
今日も明日も明後日も、
元気に、どうしようもなくオタクでいて欲しいと願うオイサンでした。



……。



うーん。



この記事、ワリと非難轟々の様な気がするな。
どうしよう。
まあいいや。



 

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コメント

■JKPさん
やはりこう……ある程度、世間との相容れなさを感じてしまった者に
独特の感覚でもあるのでしょうね。
これを感じない人もまた、当然いると思います。
或いは、感じていても前向きに感じる人もいるでしょう。
 
幸か不幸か、オイサンは偏見を自らに課しつつも、
開き直れてしまったケースでした。
自分としては、なかなか幸せなケースだなと思っています。
  
そして最近のオタ文化の一般層への浸透ぶりを見るにつけ、
もうそういうイメージはある程度偏見でしかなく……
「オタクだから」ダメなのではなくて、ダメは個人の、もっと個人たる部分にあると、
キチンと認知される様になってきたってことなんでしょうね。
 
……まあ、「オタクだから」変な奴も、変わらず多かったりはしますけどね。
 
オタクだから変になったのか、
変なヤツがオタクになるのか分かりませんけども。

投稿: ikas2nd | 2011年6月 7日 (火) 01時12分

なんだかんだでお久しぶりです。

なんか、とても共感できました……のは私が同じ年代だからでしょうか?
私はオタクっていうと負のオーラを纏っている偏見があるんですが、それは世間と相いれない自分への諦観から来るものだと思っているんですよねぇ。
私なんかは開き直れないオタクでしたから、職場でも結構ビクビクしていたり。
オタク故に世間の動きには敏感になる。
で、やっぱり世間とのズレを再認識する、もしくは敏感になるポイントがズレてしまって、負のオーラが消えない、みたいな、ね。

し・か・し。
今の中学生のオタクは実に明け透けなんですよ。
自分がオタクであることを逆に喧伝して、周りを自分側へ引きずり込みますからね。
あれを見ていると”マイペース”という言葉には非常に納得がいったり。
やはり時代なんですかねぇ。

投稿: JKP | 2011年5月31日 (火) 03時09分

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