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2011年1月14日 (金)

■だから、僕は下の句を詠んだ。 -更新第630回-

ただいまを言ったその日から、彼女は僕の家族になった。
オイサンです。


年が明けてからこっち、
オイサンがフラフラしているWeb界隈でまたぞろ
「blogの衰退」的なことが言われていたので、
久しぶりにちょっと反応してみようかなと思いました。

このblogを始めた頃なんかは、たまに考えていましたけどね。
blog。
ナニ書けばいいとか、どうあるべきかとか。



■blog衰退論~結論から言ってみる



言われていたのは、TwitterやらSNSやらが台頭して、
blogは役目を終え、あとは衰退する。し始めているんじゃね?
果たしてそーなのか、どーなのか。
……なんていう論調だったわけですけども。

珍しく、結論から話をしてみましょう。
そうしましょう。

オイサンの実感からいって、
日記性やニュース性のblogの代わりにTwitterを利用する人が増え、
今までほどたくさんの人がいわゆる
「blogサービス」なんてものを利用することはなくなるでしょうし、
既存のblogも更新が停滞したり、やめたりする人は増えるだろうなあ、と思います。

そういう意味での衰退は起こると思います。
増進の停滞と、有効な活動率の低減、そんな意味で。

  ていうか自分や自分の周りはそんな感じになってる、
  っていうだけですけど。

  また、その原因や代替がTwitterだけなのかと言われたらそれも分かりませんが、
  オイサンが実感としてあるのがそれだけなので、そう書いてしまいます。
  他のサービス……FacebookやらモバゲーやらのSNSは使ったこと無いですしね。

けど、blogが意義を失い役目を終えたとか、ごっそりと、事実上消滅するとか、
そういう風には思いません。



■blog~色々ある中で。



まずは、
「そもそもblogってなんなのか、どこまで指した話なのか」
について括ってしまいましょう。
ここでは
「いわゆる色んなプロバイダが提供しているblogサービスを利用したWebページ、
 もしくはそれに似たフォーマットで作成されているWebページ」
という、
「とりあえず中身は無視した、形式と、活字・文章主体のWebページ」
と括ってしまおうと思います。

その上で内容的に分類してみましょう。
内容的には、大きく

 ・ニュース性のもの
 ・日記性のもの
 ・ご意見性のもの


があるなあと思っています。或いはそれらのハイブリッド。
上でオイサンは、その中でも衰退の対象になるであろうと予測されるのは、
「ニュース性のもの」と「日記性のもの」だと書きました。

日記性のものは……まあ、言わずもがな。
今日はアレしてコレして、写真を貼って、みたいなところです。

「ニュース性のもの」は、その中にまた幾種類かあるわけですが、中でも
新聞みたいに一つの事件について自分の考えを述べるようなもの
(「ニュース性のもの」と「ご意見性のもの」のハイブリッドですね)ではなく、
Web上のホットなニュースや書き手の興味のあるニュースのURLのリンクを
集めているだけのサイトが影響を受けるでしょう。

  あ、「だけ」って書いちゃいましたけど、
  毎度のコトながら、それがダメとか全然思ってませんからね。
  有意義だと思います。
  実際オイサンは、そういうサイトさんの恩恵をたくさん浴してます。

 ▼140文字の逆襲

要するにアレだ、

 「形式的に、一行二行で済む文章の集合体だったページは、
  特にそのスタイルである意味や目的がないのであれば、
  140字の連続で済んじゃうでしょ」

ってことです。
さらには、Twilog( http://twilog.org/ikas2nd )とか、Twistar( http://twistar.cc/ikas2nd )とか、
ふぁぼったー( http://favstar.fm/users/ikas2nd )とか、Favstar( http://favotter.net/ )とかの
まとめアプリ的ページが充実しているものだから、
それをさらにあとでまとめ直す必要も無いわけで。

  「今日やったこと、見て回ったページはこれだけ」と、
  放っといてもやってくれるわけです。
  オイサンも重宝しております。

筋道立った文章を、たーくさん、書こうという人だとか、
フルオープンであることを望まないであるとか、
そういう制約が働かない限りは、Twitterで賄えてしまう。
オイサン自身も、ワリとそーですし。

ごくフツーの話ですけど。



■実例・オイサンちの場合



今回の冒頭のゴアイサツだって、ホレ、
Twitterで既に呟いたものなんですよね。

それはネタの使い回しというワケではなくて(イヤ存分に使い回しですけどもだ)、
従来だったら「あ、なんか良い言い回しを思いついた」
と閃いて、それをメールにメモして家のPCに送っておいて、
イザ記事にする段にそこから引っ張り出して載っける、という流れであったものが、
「とりあえず人目にもついてしまうけれども、
 あとでも見やすく、
 人の反応もある程度ある場所にメモっておく」
という流れに変わっただけです。

この場合Twitterは、
オイサンにとって「小ネタのメモ & 発表装置」的な場所であるわけです。
幸か不幸か、今回の冒頭ゴアイサツはTwitter上でも
「とりあえず目に付いた」ことを表明して下さった方がおられるので、
その方がココを読んでいたら、もしかすると「あ、使い回したw」
と思ってるかもしれません。

  オイサンのお知り合いでTwitterしてない人も大勢いますから、
  そういう人にも見てもらいたいなー、という気持ちの上でやってることなので
  コレはアリだというか、やっときたいと思ってます。
  それを躊躇わずにやれる様になるにはちょっと時間がかかってしまいましたけど。
  やっぱり自分では「使い回しくさいなあ」と思ってしまいますし。
  どっちも見てくれる人のことを考えますとね。

  というか、オイサンはネタを発射するとき(事後の場合もありますが)、
  「ああ、このテのネタはあの人が喜ぶかな、反応するだろうな」
  という、そこそこ私信的な思いが籠っている場合が多いので、
  見てもらいたい人向けに変えることもありますね。

ただ、如何せん。
そうして何でもかんでも呟けてしまうと、
イザblogを書こうとした時に、以前ならポポンと思いつけたマクラを思いつかないとか、
なんなら良いリズムの記事のタイトルが浮かばないとか。
そういう弊害はあります。

  冒頭ご挨拶とか記事のマクラの話題なんてのは勢いが大事で、
  思いついた直後ならblogに載せることが出来ても、
  一端発表して間をおいてしまったネタは、やはり冷静に見られてしまうので、
  「……これは……ちょっとな」
  となってしまうこともしばしばなのです。
  要らんフルイに、自分でかけてしまってるんですね。

 ▼花鳥風月・五七五七七五五七七五七七

他にも、月が綺麗だの、花が咲いただの、風が気持ち良いだの。
そういう花鳥風月愛でる系のお話というのも、
……本来は一行で済んでしまうものなのかもしれないんですね。

それを、人様にお伝えする前に、自分の中でじっくりと向き合って、
ああかもしれないこうかもしれないと捏ね繰り回すから
blogで一くさり唸れるくらいの分量や情感が生まれるわけで。

コアの部分だけ、ぽーんと衆目の海に投げてしまったら、
捏ねれば広がるはずのその周辺の部分こそ実は主だとは言え
(土星は星の部分がメインですけど、輪っかの方が魅力的でしょ?)、
……話は、終わってしまうんですよね。



■短歌でいくのか、俳句にしよか? ~あのコに届けいろはにほへと



とはいえですねえ。

今オイサンが実際こうして書いてるように、
やっぱここでないと書けないコトはありますし、
Twitter上で済むようなことでもイザ書こうとしてみると、
「あ、やっぱblogでないとアカンわ」
ということもいっぱい出てくるのです。

タイムラインの上でなんだかんだと面白そうな話がされているのを見つけ、
あ、オイサンも混ざろうと思ってpostを打ちこみ始めるも、

「アレ、文字数足りないな。
 複数のpostに跨がっちゃえば良いんだけど、この書き方だと誤解生むかもな。
 そもそも見方が片面的になると良くないし、面白くもない類の話だなコレ」

などと、書いているうちに、書き始めには気が付かなかったコトに気付き始めて、
「ウム、これは帰ってからblogで書こう」
となることもしばしば。

  マ読んで戴いてる皆様にはおなじみですが、
  なにぶんオイサンの書きっぷりというのは、なにかと言い訳がましいので、
  それをやろうとすると難しくなる。

Twitterに適した話し方・書き方はあると思うのです。
いろんな面を諦めて、諦めた面については色んな突っ込みが入ることは覚悟して
(そこに光を当てられたらスルーを決め込む。
Twitterのゆるさではそれも許容される(と、これまた勝手に決め込む))、
自分が光を当てたいところについてだけ話す、とか。
オイサンはそこにも言い訳をはさみはさみ書きたい(突っ込まれるのに弱い)タイプなので、
なかなかそうもイカン。
それ故、真面目な事を書こうとすると、どうしてもblog率が上がってしまいます。

  ……え、これで真面目なの? という驚きはサテおきますよ。

それはもう、議論に限らず、日記もそうです。

そうして辿っていくと、「気楽に手軽にやる」という観点からは、
blogの、有効に活動する絶対数の伸び悩みや減衰はやはり起こるのでしょうけれど、
存在意義だとか、活躍のステージというのは
まーあそうそうなくなってはいかないだろうな、とは思います。



■Closing~電子書籍は弾けない



先日、隣町のヨドバシカメラをブラついていたときに
一緒にいた友人と(って、ちびすけ父さんさんなんだけど)電子書籍リーダのコーナーで、
もっとこうだと良いねえ、こういう機能が欲しいねえ、なんて話になりました。

  たとえばページがめくられるときのアクションであったり、
  めくるときに何か、ゆび先で薄いものをぺらぺらと弾く感触であったり、
  「ページが曲がる」ということであったり。

それらの機能(というか「振る舞い」に近い様々のこと)はある意味ニッチかも知れず、
「本を読むという行為の本懐のために必須」
の機能とは言えないものだったかも知れませんが、
誰かが「本を(紙で)読む」ときに求める何かと直結した、
他では得がたい体験を再現するために不可欠な話ばかりでした。

「本を読むコト」と「それらの振る舞いから受ける刺激」を一括りにして
ノーミソにしまいこんでいる人たちからしてみれば、
それらの振る舞いからの刺激が失われた読書は
全く意味合いやアウトプットの異なるものになると思います。

その刺激があれば思いついた筈のことも思いつかない、であるとか。
結構な損失が起こってしまうような気がする。

  余談ですが、
  その理由の見つけがたさ・言葉にし辛さが
  人をして「味気ない」と言葉にせしめるのでしょうけれど、
  この「味気ない」という言葉、
  本質から考えたら一見意味の薄い言葉のように響きますけど
  (電子書籍リーダ開発プロジェクトのエライサンにぶつけたら
   「好き嫌いの問題でしょ? 慣れだよ慣れ」って言われそうなコト)、
  こうして考えると、
  「すごく大事なことが失われたときに発せられる言葉」
  なんだな、と、今書いていて思いました。
  侮れない。
  蔑ろに出来ない。
  閑話休題。

ただ「文字を読み内容を吸収する」という行為だけが
読書のコア機能と位置づけられて電子書籍リーダが設計され、
周辺に位置するこれらの振る舞いが人間の社会から消滅してしまったら、
……「紙の本を読む」行為にまつわる周辺の出来事が消滅してしまったら、
それらの「振る舞い」が生みだす感触や、
その刺激によって生み出されるはずのものたちは、
二度と人間のヨノナカにはお目見えしないんじゃないだろうか?



……そんな風に思いました。



ですんで、そういう感触とか風合いとか……
それに伴う隠れた機能が求められる限り、紙の本がなくなることは、
……イヤ、紙の本自体はエライ人たちの都合でなくなってしまうかも知れませんが、
「紙で本を読むという行為が持つ独自の意義」がなくなることは、
まあないだろうなあ、と薄ボンヤリと思っていたのですけども。



それを思えばね。
blogがなくなるってことも……まあなさそうだなあと、思ってしまうオイサンですよ。



日記性のページにせよ、ニュース性のページにせよ。
今のスタイルに意義を感じつつblogでやっているのであればオイソレとやめはしないでしょうし、
逆にTwitterで書くこと・発信することを覚えた人がそこに不自由を感じ始めたら、
もっと「良く」書ける場所を求めてblogを始める、なんていうフィードバックも……
マやっぱり絶対数こそ多くはないでしょうが、起こるんじゃないですかね。

その場はblogじゃなくて、もっと新しいサービスかもしれませんけど。
数は減るけど、なくならないし、意味はなくない。
そんな感じ。

  数が減ることは、今のヨノナカ……痛手ですけどね。
  オカネになりがたくなっちゃうから。

コワイコワイ。



オイサンでした。



 

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コメント

■第4先輩さん
HEY毎度。
 
 ですね。畢竟、道具としての特性が違うのだから、目的別に使い分けることがフツーだと思いますね。多分今回のことを言い出したのは、記事中で書いた「影響を受ける」位置での使い方をしていた人なんだろうなあと思っています。
 
 ただTwitterはそのスタイルが新しく、誰も使いこなれるまではどういう使い方になるか想像し難いものだと思うので、先輩さんはじめ始めから用途を限定して使い始められた人はそうそういなかったんじゃないか、と思いますし、なればこそ、これだけたくさんの人が公共の場で「ひとそれぞれ」を曝け出すアイテムになったというのもあるんでしょう。「緩さ」というものの恐ろしさを、ちょっと感じます。
 
 電子書籍に関しては……紙の本じゃなきゃヤだという人と、中身さえ、字と文章と意味さえあれば良いという人、オイサンはどちらの言い分もよく分かってしまいます。
 
 ただ、電子書籍NG派の人たちは、怯えとか慣れとか、そういうのが大部分だろうな、と思っていたのがこれまでで、今回新たに気付いたのは「読みながら何か振舞う、付随した刺激をうける」ことの効能の部分です。やっぱりその、重みを感じながら読むだとか、ページをゆび先に感じながら読むだとか、そういう刺激が、読みながら何事かを想起するのに全くの無関係だとは思えないな、というところに行きついた。
 
 例えばそれは音楽を聴く際に「圧縮音声をヘッドホンで聴く」のと「生演奏をホールで聴く」のの違いみたいなもんで、人の耳で聴き取れる部分だけを「(人間にとっての)音」だと割り切るのか、そーじゃない周波数も取り込んで全身に振動を当てるのかというところで、音として耳からは入ってこなくても振動は感じることが出来る、そこから生まれる感動は「ホール」「生」という記号性や雰囲気(もちろん整った設備によって耳から入ってくる音もちがうでしょうけど)、それ以上に、耳では分解されない刺激によって働く脳もあるんじゃないか、ということです。
 
 書きなれたペンで文章を書くってのも、多分似たようなことがあるんじゃないのかなあと……マ半分オカルトまじりなのでしょうけど。
 
 そして紙の本の去就に関しては、出版社のこと含めてすっかり同意ですわ。電子出版は、消費者として、選択肢として、大歓迎。紙の本で持ちたい本はもてばいいし、そうじゃないものは電子で持てばいい。こちらの意志で使い分けられる環境が整ってくれたらいいと思いますけども。……買うときに、データで買うかそれを製本して買うか(または両方か)選択出来るシステムになれば良いですね。でも紙で買う場合はスケールメリットが出なくなって一冊が高くなるんでしょうね。
 ままならぬのう。
 
 ではまた。

投稿: ikas2nd@オイサン | 2011年1月16日 (日) 06時11分

 お世話になります。
 ふむふむと思いながら読んでいました。
 僕の中では、blogとtwitterは、目的意識の違いとして分けています。先に目的があって、それを達成する手段としてblogがあった。目的が何なのか分からないまま使い出して、使っているうちに目的意識が見えてきたのがtwitterだった。「人それぞれ」なんでしょうけどね。でも。twitterのよりすごい所は、「人それぞれなんだよ」ということを、より露骨にユーザーに知らしめた点にあるのかもしれない。

 電子書籍の話。まず僕は前提条件として、本嫌いです。あの重さと、部屋を占有するスペースが嫌いなんです。反面、活字は大好きで、大体四六時中何かを読んでいるわけですが。

 それを前提として、本が好きで電子書籍はイマイチと言っている人は、どうも、怯えているというか。本の優位性を語ってはいるのに、それを信じ切れていない人が多いような、そんな印象を受けます。本のもつ情緒を、言葉にして表すためには何が必要なんだろうなぁ、と思いながらオイサンの文章を読んでいました。

 僕の感覚では、何を気にすることもなく、本はなくならない。それはそれとして電子書籍は今後より便利になっていって、それは「本の方が優れているから伸展しない」ものでも、「伸展の結果として本を駆逐していくものでも」ないと気軽に思っています(※)。冷たい言い方をすれば、両者の間にははっきりとした断絶があって、それは片側からどんなに声を出していても、相手にとっては何の価値もないと思っている、ということかもしれません。

 多分僕は、新しい物好きで、同時に古い物好きなんだなろうな。

 ※もちろん、出版社の理屈では完全に別の議論が必要で、そして、出版社の理屈の方が、今後の行く末をより左右するものだとは思いますけど。

 では、いつものごとく長文失礼しました。今後ともよろしくどうぞ

投稿: 第4先輩 | 2011年1月15日 (土) 12時57分

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