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2010年6月 1日 (火)

■営みのフォーマット -更新第513回-

6月かー。

  ……そろそろ、結婚でもする?

オイサンです。


月初めだから、と言うワケでもないのですが、
早寝早起きに切り替えてみた。
このところ続いてしまっていた寝オチのサイクルを逆手にとり、
昨晩は23時過ぎには寝、今朝は4時前には起きる。

  マ勝手にオチるか、
  意識的に、風呂にも入って布団もちゃんとかぶって寝るか、
  という違いしかないんですけど。

デ早い時間に起き出して、
寝る前にやるはずだった筋トレをしたり、書き物をしたり。
殊更快適というわけでもありませんが、悪くも無い。

でも寝オチのときの方が、エンジンのかかりもいいし馬力も上がる気がするなー。
多分、眠さMAXのときに眠りに入り、寝が足りた時点で目が覚めるという
過不足の無い睡眠をとる事が出来るから、
オカラダさん的には一番心地よいのだろうけど。
……でもその分、環境をちゃんと揃えられるわけではないから
(風呂とかフトンとか)、そこは用心しないと。

何か、他にデメリットってあるんだろうか? > 寝オチ
なんかもう寝オチで良くね? って思うんだが。

ただ、筋トレは寝る前にした方が良いので、
その効果が下がるのは望ましいことではないけど。
あとは朝の書き物タイムをもっと集中できるものにしたい。
90分はキープしたいしなー。



■下痢



その朝から、オイサンの敬愛するある御方がTwitterにて、
大層な下痢だと結構なテンションで叫んでおられまして、
あー大丈夫かなーと心配すると同時に、
このヒト敬っててオイサンもちょっと大丈夫かなと
わが身をも省みてしまった次第なのですが、
その叫んでしまうお気持ちも、すっごいよく分かるんですよねー。

ものっすごい下痢のときとか、苦しいのは苦しいんですけど、
なんかちょっと嬉しいというか、誇らしい気持ちがちょっとあるの、
アレは一体、何なんでしょうね?

排泄って気持ち良いから、その延長なんかなー。
下が吼えた分上でも叫んどかんと釣り合いが取れん的な何かとか。
人間ってフッシギ。



■南無阿弥陀仏



……という話題と並列に書いてしまって良いものか
ちょっとためらいもあったのですが。

早朝、ぽちぽちとお知り合いの方の日記のページを拝見していてヒトツ、
そのうちのお一方に、身内のご不幸とご葬儀があったことを知りました。
その日記のおしまいにひとつ、


南無阿弥陀仏。


としたためられており、
本文を読んでも、人様の日記であること以上の実感を得られずにいたのだけれども、
そのお題目を目にした途端、
「何が起こったのか」ということが、オイサンには即座に理解することが出来た。
その、葬儀の場の風景、時間の重さ。
空気。
そんなものが一気に心に降りてきて、部屋の気温が一度ばかりさがった、
そんな風に錯覚した。

ああ、すげえなと。

その言葉には、死を心に受け容れることを促進して、
受け容れた心のその部分が、凹むのか、盛り上がるのかわかりませんが、
なんらかの変形を来たしたとしても、
その変形を「均す」力が備わっている、
……そんな風に感じたのです。

法然上人の提唱した
「この念仏、題目を唱えていさえすれば誰でも極楽浄土に行けますよ」
という教義とは異なるのかもしれませんが、
南無阿弥陀仏というお題目には、
その言葉がそこにあることで、死に日常性を与えたり、
どこか遠くで起こった死を実感に変えるなど、
死に備え、抗いうる、マルチパーパスな機能が備わっていることを実感しました。

そしてそれは多分、上記のようなある種イージーな間口を設けることで、
死や弔い、悼み、翻っては生の安息を求めるあらゆる場面で人口に膾炙し、
言葉そのものが経験値を蓄積することで実現したのでしょう。

  そういう感覚には恐らく、オイサンの実家も浄土宗で
  (つったって特に何をしてるわけでもないですけど。
   そのフォーマットでお弔いやら法事やらをしてるってくらいのモンです)、
  そのお題目に子供の頃から親しんでいたこと、
  またじーさんばーさんひーばーさんまでいる家庭で、
  余所よりも多めに、お弔い系のイベントに遭遇する機会が多かったことなども
  無縁ではないのでしょうが……。

  けれども、ガッチガチの宗教関係の方でもない限り、
  ナムアミダブツに死の影を感じない日本人というのは少数派なのではないでしょうか。

オイサンは、その日記の方とも直にお会いしたことがあるわけでなく、
日記の故人に至っては語るべくもないので
こうして話題に触れるのも迷った次第なのですが、
不思議とその一言に、故人の魂の安息を願う、
そのお知り合いの方の思いが滲み出ているように感じられたのでした。

  ……「故人の魂の安息」と書いておきながら、それは少し違うな、と思い直した。
  そこに願われているのは、
  既に世を去った故人の未来の安息ではなくて、
  過去、故人の生前と死が穏やかであったことを、遡って願う物なのかもしれません。
  既に旅立ってしまった人の気持ちは、
  まだそれを知らない我々には量り兼ねますものね。

  ならばせめて、自分たちの願える範囲でその安息を願おうという気持ちがあるように、
  凡俗なオイサンなんかは感じるのでした。

「南無阿弥陀仏」は言いだしっぺの法然さんも言うように、
「とりあえず言っとけあとは何とかしてやる」
的なニュアンス含みのシロモノですから、言う側としては特に意味も知らず、
決まり文句として、呪文として、引っ張り出されることもあるでしょう。

ですが、長い歴史の中でそういうシーンで使い続けられてきた事実によってか、
人の死への、恐れや、敬いに似た感情、
過ぎ去った生の時間を大切に思う気持ちが染み込んでいるようで、
その一言があることによって、
送る方も、送られる方も、多少なりとも救われるんではないかなあと、
そんな風に思いました。

本当に、それを口にするだけでもどうにかなってしまいそうな、
染み込んだものが自分の気持ちを後押ししてくれそうな。
やるなあ、法然(超僭越)。

言葉そのものに染み込んだ、……こういうのを言霊って言うんですかね、
なにか、そこから滲み漂ってくる、
場を作り、且つ和らげる力のようなものを感じたのです。
なかなかこう……特定の場面で使い込まれたことばというのは
大したものだなと、おかしな感じ入り方をしてしまった次第です。


……。


特に面識のあるでなく、
あまりいい加減な気持ちでお唱えして良いものでもないのでしょうが、
これもひとつの縁と思って、故人の魂が安らかに眠られますよう
オイサンからもお祈り申し上げたいと思います。
南無阿弥陀仏。



■Twitterでのご挨拶について



話は切り替わって、最後に一つ、またTwitterの話題。

朝とかね、夜とか。
家を出る時、戻ってきたとき。
一応、オイサンの住むタイムラインの上では、皆さんわりとキチンと挨拶をする習慣があるのですが、
これがなかなか……自然にやるのが難しい。

「おはよう」
「いってきます・いってらっしゃい」
「ただいま」
「おやすみ」

まあそんなところなのですが、たとえば「おはよう」。
大抵自分が起き出した時「起きた」とか「おはよう」とか、
タイムライン上に流すのですけども、
そうするとそれを見たタイムライン上の方々が
「おはよう」と返して下さる。

普通の挨拶ならここでお終いなのですが、
……やっぱり、言ってもらった側としては
そのまま放置するのは居心地が宜しくないのでしょうな。
返して下さった方々にもうひと手間

「おはあり」(おはようを返してくれてありがとう、の意)

などのフレーズがもう一ターン返されて、そこでようやく挨拶終わり。
フツーの挨拶よりも一手多いワケです。

寝る時も同じで、翌朝目覚めたときに、タイムラインを見直して、
「おやすみ」を返してくれた方をチェックして
「おやあり」を個別に返すわけです。
これは結構ね……こういう言い方をしてはいけませんが、手間がかかる。
良い習慣だとは思うのですが、
なんとなく、不自然な感じが、オイサンなんかは致すわけです。

オイサンにとっては、
自分の住まうタイムラインというのは「教室」のようなもので、
朝起きてそれを覗くことは教室に入るようなもの。
ドアをガラッと開け、
誰にともなくその「場」全体に向け「おはよーっす」とやると、
周りも、特にこちらを意識するでなく、
めいめいに
「はよー」「ーっす」「おー」
みたいな、適当な声を上げる。

  そのめいめいに帰ってくる、ある種適当な返事は、
  勿論主たるターゲットは今新たに入ってきた者への返信なのですが、
  それに加えてやはり、うち何割かは「場」に向けられているように思うのです。

デ席に着いてだべっていればまた他の誰かがやってきて、
入口で「ちーっす」とやるので、
今度は自分がそれを返す番、みたいな、

なんかその、
「入口で場に向けて一発撃てばそれでOK」
「かつ、返信もピンポイントではなく、散漫でOK」
みたいに、鮮やかにシンプルに出来ないものかと考えるのですが、
教室は、流れない「空間」であり、
タイムラインは読んで字のごとく流れていく「時間」ですから、
そのまま上手く、馴染むわけも無く。

昨日はちょっと試しに、朝、誰かが「おはよう」といらしたときに
その方をピンポイントには指定せずに、返事として散漫に
「おはよー」
とやってみたところ、
オイサンはずっと前からそこにいたにも関わらず、今入ってきたと思った御方々から、
ピンポイントな返信を改めて戴いてしまい
ちょっと申し訳ないことをしてしまいました。


うーむ、やっぱり上手くいかん。


まツールとしても、場としても、まだまだ新しい在り方のものですから、
そうそう上手くはまとまらないものでしょうけども。
そういう場に立ち会えるのも、なかなか楽しいものですね。



……。



などと、今日も今日とて散漫に。
オイサンでした。



 

 絢 辻 「ん?
      ……うん、まあ……。
      ……いいんじゃないかしら?」

 



……とは、言ってくれないんだろうな。
案外その辺は、劇的なものを求めてきそうな気がするな、あの人は。



 

 絢 辻 「大事なことなんだから、もうちょっと考えなさいよ。
      はい、じゃあやり直し。
      練り直して、ひと月以内に再提出ね」

 



とか言われるんだろうな。





……。





ありゃ?





でもそれは、実質上のOKサインだな?
なんか、随分アジのあるやりとりじゃないか。
ウム、これで良い気がしてきたぞ。





やるなあ。

 

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コメント

祖父が存命だった頃は毎夜お仏壇にお経をあげるのが常だったんで、今じゃ正信偈(浄土真宗)をそらんずることもできちゃうんですが。
祖父母の葬式でも涙ひとつ出なかったのは『人はいつか死ぬ』という無常観を会得できたのか、死からは逃れられないという只の諦観なのか、あるいはそれらのふりをして死から目を背けているだけなのか。自分でも解りません。

せめて故人の生と死が穏やかであったように。
とともに、自分の死が穏やかであるようにという利己的な思いも込めて。
ナンマンダ。

投稿: 編集まそ | 2010年6月 7日 (月) 02時52分

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