« ■輝く時間 ~第4先輩さんと行く名古屋 -更新第489回- | トップページ | ■死に神の手ごころ -更新第491回- »

2010年5月 7日 (金)

■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・6-3> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第490回-

前編 / 後編1 5-1 5-2 5-3 5-4 6-1 6-2
『アマガミ』絢辻さんSS 目次
『アマガミ』絢辻さんシナリオ解読「手帳の中のダイヤモンド」目次


               ・
               ・
               ・


 絢辻さんはしばらく、路地の出口に背を向けてじっとこちらを睨みつけて
いたのだけれど。珍しく、それでも僕が怖じもせず見つめ続けたものだから
……くるりと背を向けて歩き出した。黙ってばかりもいられない、と考え直
してくれたんだろう、
「……考えてたのよ。どうしてあなたからのお祝いばっかり、こんなに嬉し
いのかって」
 その点々と落ちる呟きの後を、僕も追いかけた。
 絢辻さんは、先ずは差し障りのなさそうなところからカードを切ってきた
みたいで、僕の質問の答えにはまだまるで触れていなかったけど、いつかそ
こに繋がるものだと見越して、僕は黙った。
「ちなみに、これが三つ目だったんだけどね」
「え?」
「『三つ目』よ。引っかかりの。さっき、二つ目で止まっちゃったでしょ」
 絢辻さんは自分の手の甲を見つめ、何かに気付いて薬指の、爪の先を撫で
た。
 それは、絢辻さんが自分の誕生日の喜びに感じる三つの引っかかりの話の
続きだった。一つ目は、その喜びの元凶……それはつまり僕との時間のこと
なのだけど……がやってくるのが、誕生日に限ったことではない、というこ
とだった。二つ目は、祝われるほど自分が何かをしたわけではないというこ
と。祝われることにも何か確固とした理由を求めてしまう絢辻さんを僕はい
じらしいと思うし、ちょっとかなしいと思った。
「忘れてたわね?」
「ああ、ははっ……」
「もう」
 二つ目が、あんまり強烈だったものだから。絢辻さんは曖昧に笑った僕を
目で咎めはしたものの、瞬きを一つした後には、もう元に戻っていた。
「最初に言ったじゃない? 誕生日を、こんなに楽しいと思ったこと無かっ
たって。それは間違いなくあなたのおかげだし、昨日今日に始まったことじ
ゃないと思うの」
 袋小路の裏路地を抜けて表通りへ出ても、もう賑わいなんて残っていなか
った。ほとんどの店は機能を停止して、まだやっている所でも、その光や熱
を内側にぴたりと閉ざして表に漏れさせることをしない。スナックだとか、
バーだとか。紫や臙脂の、ぼんやりした色の看板を光らせて、来る者だけを
その小さな扉から迎え入れる佇まいを崩さない。大々的にヘイラッシャイと
やっているのは、カラオケ屋か焼肉屋、コンビニ、ファミレス、そのくらい
だ。長く続くまっすぐな僕らの針路上に、それらがぽつぽつと光源となって
揺らめいているのが見えていた。
「……どういうこと?」
 ちょっとの揺らぎと静まりの中、僕の問いはシャボン玉のように弱々しか
ったけれどそれを阻む雑音もなくて、絢辻さんの背中の真ん中にしっかり命
中してぱちんと消えた。
 絢辻さんの言うことも、実は半分は分かっていた。一年前に僕とああいう
ことがあったから、今日こうしている。でもそんな簡単な理屈だけを、今わ
ざわざここで披露するとも思えなかったから聞き返したのだ。
「びっくりしないでちょうだいね」
「う、うん」
 歩きながら肩越しに振り返り、用心深く、絢辻さんは前置きをした。その
ときの不安げな表情から、かなりな大砲を撃つつもりなのだと僕も自然と背
筋が伸びた。
「今にして思えば」
 ひとまず冒頭まで口にして、絢辻さんは今一度、僕の表情を確かめた。そ
して続けた。
「確かに、始まりがあなたじゃないといけなかったかどうかって、分からな
いわ。選択肢は他にもあったのかも知れない」
 自分の唾を飲む音が大きく響く。心臓に強い痛みが走った。
 --しっかりしてないと、愛想尽かされるわよ?--
 --……僕、何の役にも立てなかったなあ……--
 どうしてこんなときに、そんな言葉を思い出してしまうのか。でも絢辻さ
んは背中を向けたまま、もう容赦なく、流れるように繋いでいく。
「少なくとも校内には見当たらなかったし、入り口が見つかったとしてもそ
の先が上手く運ぶかどうかはわからないけどね。そもそも、あんな偶然がそ
うそう働くと思えない」
 『あんな偶然』。絢辻さん……いや、『猫かぶりの絢辻詞』が手を滑らせ
るという、奇跡にも等しい偶然だ。確かに、僕はそこに立ち会うだけの存在
だったのかもしれない。
「けど、冷静に考えたら、きっと、あるにはあったんでしょうね。他の選択
肢も」
 ……ちょっとだけ……。期待は、したんだけれど、絢辻さんはそれを鮮や
かに裏切ってごく自然で残酷な結論を口にした。絢辻さんが、僕以外の「ぼ
く」と出会う可能性、それがきっとあったに違いないということは僕にだっ
て分かる理屈だ。ない、そんなこと絶対にありえない、そんな風に思いたい
のは山々だけれど、視点を引いてみれば、それが如何に些細な我侭であるか
が分かるくらいには、僕だって大人だった。
「でもね、今は、もう」
 短く刻んだその言葉を合図に、絢辻さんはいつもの、物理さえ無視したス
トップ&ターンで踵を返した。そうして僕を向き直ると、三歩、小さくバッ
クをしたかと思ったら、今度は池の石を渡るような大きなステップでトン・
トン・トーンと、微妙なカーブを描いて僕の目の前にふわりと着地した。
 そして覗き込む、僕より少し背の低い絢辻さんの瞳は、分かる? と、今
にも唇を重ねて来そうな甘さを含んでいた。
「あ」
 僕はさっき店で、絢辻さんが中トロを走らせたときのことを思い出して声
を上げた。絢辻さんは照れくさそうに笑い、僕がまた何か野暮を言い出す前

「それってきっと、この一年、あなたがあたしの一番近くに、一番永くいて
くれたから、ってことなんでしょうね」
と残りの台詞を一息に吐き切った。
 絢辻さんが言ったのは、時間と距離、そんな単純なことだった。言ってし
まえばその心の綾は、拾った捨て猫に情がうつるのと大して変わりがない。
だけど、連続するものに絶え間なく寄り添い続けるということには、単純だ
けれど、もっと深くて大切で、何物にも代え難い意味が隠れているんだって
わかった。切れ切れで繋がる物とは比べ物にならない、滑らかに繋がり続け
る波に潜んだ無限の傾き、どこまでいっても僕たちにはそれをなぞり続ける
ことが全てですらあると思える。もっと近くに。もっと永く。
 そんな、簡単なようで難しいことが生み出すものは、かけがえのない時間
の重なりだった。文字通り、積み重ねていくことだ。そばにいることでしか
掬い集めることの出来ない、時間と出来事の隙間から絶え間なく零れ落ちる
砂のような相手の姿を、お互いがかき集め、その砂でこしらえた城が僕らの
間に今、粛然と聳えている。たかが砂城の楼閣がどれだけ立派でも、その脆
さに変わりはない。けれど、短い凪の時間、潮の引き目に少しずつでも砂と
水を継ぎ足し継ぎ足しして大きくしていけば、やがて波に負けない大きな城
が出来上がる。そばにいることを諦めない限り、零れ落ちる真砂の砂が尽き
ることを知らないのは、この一年でひしひしと感じていた。僕は、絢辻さん
が好きだ。
 二人で夜の商店街を歩くのは、眠っている人の体の中を行くみたいだった。
その出口にはまだ活動している焼肉屋さんとコンビニが向かい合わせに建っ
ていて、お誂えむきに、今の闇の中ではまるで光のゲートみたいに見えてい
る。途中、絢辻さんは本屋さんの前で足を止めた。檻のような格子状のシャ
ッターの向こうは昼間と変わらないガラス張りで、電気が落ちている他はい
つも通りの店内が見通せる。平積みの新刊台、お知らせのPOP、レジカウ
ンター。絢辻さんは、ひのふのみ、と何かを数えるみたいに瞳を動かせ、何
かを見つけて、あ、と小さく唇を振るわせた。そして提げた鞄のサブポケッ
トに……僕の贈り物の包みの感触を、そっと確かめるように掌を忍ばせた。
「絢辻さん……」
 ようやく、本当の誕生日を手に入れた今日にあっても、その贈り物だけは
特別な温かさを持って、特別な位置にあるんだと、感じてくれている。そん
なこの上もない喜びに、僕はつい、彼女の名前をもらしていた。
 絢辻さんもはにかんだ微笑みを返してくると、また、つま先を家路に辿ら
せた。ゆっくりと、だったけれど。背中を見せてじゃなく、僕が並んで歩け
るくらいに。そうして振り返り、僕を促した。僕は小走りに追いついて、絢
辻さんの隣に並んだ。右の肩がなんだか暖かかった。
「そういう気持ちが思案の外だっていうのは、リクツではわかるけど。やっ
ぱり癪に障るじゃない? だからどうしてなのか、あれこれ考えてみたんだ
けど」
 奇妙なところで負けず嫌いなのは相変わらずだ。だけどそんな炎も、絢辻
さんをドライブする何機かエンジンのうちの大切な一機だ。
「お互い、近くで見続けてきたからなのね。だから考えてることが本当なの
かどうかも分かるし、安心していられるんだわ」
 しかもそれらのエンジンは恐ろしく強力で、一機一機がモンスター級の馬
力とトルクを誇っている。僕が三日三晩考え込んでも出てこない答えを、ゴ
ハンを食べたり、走ったり、ため息をついたりしているその影で、いつの間
にか導きだすくらいに回転しているのだった。「どうして、こんなに安心し
ていられるんだろう?」……その答えも、絢辻さんはもう見つけていた。
「ああ……うん。そうだろうね」
 僕がおもちゃみたいにコトンと頷いたのを見た絢辻さんが、ちょっと驚い
たようだったのが印象的だった。
「似たようなことを思ってたよ」
「やっぱり?」
 驚いた顔から安堵の笑みへ、なだらかに変化していく心を絢辻さんが滑ら
かな肌に映し出すのを見て、僕はその頬に触れたくなる。
 築き上げた砂の城は、その間取りも設計図も僕ら二人のフルスクラッチで、
その砂の一粒一粒が、いつ、どこで零れたものなのか、その意味さえ知って
いる。それがどんなに堅牢なことであるかなんて言わずもがなで。根拠、と
呼べるほどの一つ塊ではないけれど、それらの気持ちと確かさは、それこそ
砂粒の様に、僕らの辿ったあらゆる時間と空間に偏在していた。強くてきれ
いなお城は誰もを一目で虜にするけれど、その美しさのわけを一粒一粒の砂
に説くことなんて、ほかの誰にも出来ない。決してそれ以上は崩れない一粒
を丁寧にちりばめてきたこと、互いに散りばめる姿を見守ってきたことが、
馬鹿で、口下手で、冗談ばかりの僕の気持ちを信じさせるんだと、彼女は言
っていた。そして、それを拾い集めてきたことが、この一年という時間の、
新しくて大きな価値だったのだろう……。
 僕が自然に、絢辻さんの頬に手を差し伸べようとしたとき、
「長かったなあ。この一年」
と、彼女は呟いた。
「え?」
 驚いて、僕は手を引っ込める。牽制かと思ったけれど、そうじゃなかった。
「すっごく、長かったのよ。ああ、一年ってこんなに時間があったんだって
思ってる。不思議よね」
 塞がって挙がらなかった僕の手の代わり、絢辻さんの方から僕の肘に、腕
を組む……なんていうほどじゃなかったけれど、掌をそっと絡めてきた。厚
い冬服の生地越しなのに、彼女の指から生まれるほっそりした力と水分は、
僕にひたりと吸い付くようだった。そこだけが溶けて、くっついてしまった
みたいに錯覚した。
「『目標』……が、あったじゃない?」
「え。うん」
 絢辻さんの口から聞くのは久しぶりな気のするその言葉に、僕は必要以上
にドキリとする。絢辻さんも、繋いだばかりの掌から僕の血流を感じ取って
クスリと笑った。
「先は長かったから。一年なんて、短期的な通過点くらいにしか考えてなか
ったのよ。誕生日とかが目印以上のものに見えていなかったのも、そのせい
でしょうね。十七年……物心がついてからだから十年ちょっとかしら。結構、
あっという間だった気がする」
 長いようだけど、実のところはね。と笑った絢辻さんを、僕は急に何を言
い出したんだろうと思った。これまでの一生分の時間を、短かったと彼女は
言った。そして僕が何をどう聞き出したものかと思案がまとまる前に、
「でも、この一年は違った。すっごく、長かった」
「それって、きっと……」
「ええ、そうね」
 絢辻さんの生活のペースは変わっていた。学校での仕事や頼まれごとは
「あんなこと」もあって多少数が減りこそしたものの変わらず忙しそうにし
ているし、「目標」に向けての勉強も、以前のような鬼気迫るものではない
けれどつつがない。そこに受験勉強も加わって、やることなすことは増えて
いるはずだった。それなのに、彼女をとりまく時間がふんわり、ゆっくり、
流れるようになっているのは外野手の僕から見てもわかるし、アルプススタ
ンドのクラス連中も感じているらしい。名前を呼ばれて振り返る、そのとき
に流れて落ちる長い髪の穂先の一本一本が、たくさんの空気をはらんで舞う
のが目に留まるくらいに。
 過去と、未来。はじまりの歪んだ歯車と、そのねじれをより強い力でねじ
り返すための「目標」の終端。
 思えば、一年前までの絢辻さんの「今」という時間は、その二つ……今の
自分を形作った端緒とそのおしまいの瞬間……の間を、ただ埋めるためだけ
に存在していたんじゃないだろうかと、僕は一年前の教室を振り返った。穏
やかな猫の笑顔に押し込められた、張り詰め、疲れた肌の色。そういえばこ
の一年、絢辻さんが不安定になる場面をほとんど見ていない気がする。
「ねえ、ここ。こんな隙間、あった?」
 カクン、と絢辻さんに肘を引かれて覗き込んだ、そこは路地とも呼べない
ような文字通り建物と建物の隙間で、商店街のわき腹にちょっとした影を象
っていた。
「うん、ずっとあったよ。小学生の頃かくれんぼとかで使った憶えがある。
両サイドのお店は何度か変わってるけどね」
 そのどちらも、何をやってる店かは知らないけど。
「そう。……そっか。そうね。うん、あったわ。ふうん。なんだか、良い雰
囲気ね」
 その、対向片側一車線の猫の抜け道は、一応人間も通り抜けられるように
はされていて、左右のお店が、かたやレンガ造り風、かたや旧日本家屋風だ
ものだから、まとまりに欠けこそすれ、落ち着いた良い雰囲気と言えなくも
なかった。
「そうそう、あったあった。広告集めに走り回ってたときに、何度か突っ切
った憶えがあるわ」
「それって創設祭のときの話?」
 そうよ。へえ、こんな道だったのねー。絢辻さんはうんうんと、自分の記
憶に言い聞かせるように頷いた。
「ははっ。忙しくて、そこまで気が回らなかったんだね」
「本当、もったいないことしたかも。あのアンティークまがいの街灯なんか、
雰囲気悪くないのに」
 絢辻さんのゆび差す先のレンガ壁からは蔦を模した支柱が飛び出していて、
その先には、大正時代のガス燈風の街灯がぶら下がっていた。丁度今の時間、
ぽうとあたりを山吹色に染めるその風合いとレンガ色の調和は、確かに絢辻
さん好みかも知れなかった。
「けど、あのお店の本物のランプに比べたら、さすがにちょっと貫禄不足か
な」
「そうかな?」
「そうよ」
 それは、一分にも満たなかったかもしれない。
 絢辻さんは僕の肘にとまったまま、その空間を眺めていた。僕の内肘に添
えられたゆび先は鍵盤に置くように細やかに力の加わりを変えて、僕は操ら
れるまま、寄り添ったり、少し離れたり、ゆらゆらとした時間があった。
 丹念に、思うともなく散りばめてきた砂の一粒。言ってみれば、業務連絡
ばかりだった日記に日ごとに違う花が咲く、今はそんな毎日だ。
 盗み見る、その横顔に思う。
 見落とし続けてきたちょっとした時間。未来のためではない、今の絢辻さ
んの、今だけの幸せ。そんなものが折り重なって出来ていく、他愛ない、思
いもかけない毎日が、未来を手繰り寄せるためだけに生きてきた絢辻さんの
変化の輪郭を作っているのだろうと、分かる。
 不意に、きゅっと肘が締まって腕にかかる重みが増した。さっきまでより
絢辻さんのつむじが近くにあり、指先ではなく掌、掌と言うよりは手首に近
い位置で、僕の腕をからめとっていた。大きな体温が近づいて、絢辻さんの
放つ香気は毒なのか花なのか、僕は少しずつ、目眩のような痺れに半身を浸
し始めていた。
「だからなのよ」
「え?」
「だ・か・ら」
 突然トン、トン、トンと言い切る語気は、低く重くて強かった。
「時間って言うものさしは、どうにもできないものね」
 斜め下から僕を睨み上げる目じりも鋭い。けれど、気配の甘さは変わらな
かった。責めながら甘えてくる特別な気配を感じとるのに精一杯で、絢辻さ
んの言っていることに、毒に刺された頭では考えがヒトツも追いつけずにい
た。
「ええと……」
「ケーキ。食べるの、辛かった?」
 唐突に。絢辻さんは僕を眺め上げる角度を変えた。僕がまた、おかしなと
ころに生クリームのお弁当をつけているのではないかと、冗談半分に探して
いる。
「うん、少し……」
「何よ、あれくらい。桜井さんのに比べたら微々たる物だったじゃない」
 絢辻さんはぐぐぐっと強く掴んだ腕と同じくらい、眉間にも力を入れた。
その面差しは店で『しょうがないなあ、梨穂子は』と、僕の定番ぜりふを盗
み出して呟いたときと似ていた。絢辻さんが「あーん」を強要したお店のバ
ースデーケーキと、参戦を余儀なくされた梨穂子のケーキの撤退戦。どちら
の戦線がより重く、より悲愴だったかと言われたら、それは絢辻さんのケー
キの方が、我が方にも勝ち目があったであります。
 そりゃあ、まあ……うん、と僕が濁し気味に頷くと、絢辻さんは僕を見上
げるのをやめて、その視線をゆっくりと、路地の少しくすんだ、けれども色
とりどりの商店街の石畳に戻した。掌の力がほんのわずかに、自信なさげに
緩んだ。
「そうでしょ。それなのに、って思っちゃったのよ。それだけ」
 僕の訊ねた、何を怒っていたのかという話の答え、ということだろうか。
でも、それって……。
「それだけ……って。つまり、妬きモ……痛っ」
「どうとでも言って頂戴」
 言葉とは裏腹に、絢辻さんの掌は僕の肘関節をごりごりと締め上げ、その
痛みで僕は言葉を遮られた。絢辻さんの骨と僕の骨が食い込み合って軋み合
い、
「い、痛たたたたたた、痛い、痛い! そ、そっか! でも、色々お腹に入
った後だったから……痛い!」
無言の攻撃はそこで止んだ。
 あ……絢辻さんも、可愛いなあ!!!! ……僕は調子に乗って、そんな
まなざしを絢辻さんに送ったのだけれど。
 絢辻さんは、重く
「そうよね」
と呟き、どうしたものかしらね、だなんて、誰にともなく肩を落としてため
息に混ぜた。さらりと落ちた長い黒髪が反すべき光を見失って、話のトーン
に似つかわしくない、深刻な色を前髪の奥におろしていた。
「そう。時間っていうものさしの上では、……あたしは、まだまだ新参者だ
から」
 『あたしは』? 僕ははっとして、その言葉の背中に、二人分の影が伸び
て落ちたのを知らぬ振りは出来なかった。それは、それこそこの世を覗いた
その日から、二日と置かず、半歩と隔てず、数字にならない時間と距離をと
もにしてきた腐れ縁と、気の置けない悪友のものだった。そこに散りばめて
きた砂の量。……さすがに、それを口に出すのは裏切り、不信に等しいと踏
んだんだろう……隠したそのもう一つのセンテンスを、絢辻さんはぐっと飲
み下し、察して頂戴、と上目遣いの切なげな微笑みで訴えてきた。僕は心臓
が破裂して、体の中に燃えるようなものが駆け巡ったのを感じた。
「待って絢辻さん、僕、そんなつもりじゃ……!」
「当たり前です」
 僕の滾りと動揺も、絢辻さんは冷たく冴えた言葉の刀で、冷や水をぶっか
けるようにぴしゃりと切り落とす。次の瞬間にはもう笑っていた。
「疑ってるわけじゃないし、もしそうだとしても許すつもりもない」
 そこで一旦言葉を切ると、また絢辻さんは視線を強く鋭くした。分かって
るわね? という重圧と愛情を僕に投げかけて、先を続ける。
「意味のない不安だっていうのは自分でも分かってる。それも含めて見てき
たつもりだもの。でも、今の関係の上にただ胡坐をかいてるのも性に合わな
いのよ」
 さっきとは違う、強い力が僕の肘をつかんだ。ふんわりと、頼りなく、そ
れなのにもっと必死で、懸命な感触だった。
「……だから、ただの妬き餅ってことにしておいて。そのうち、あたしも忘
れるわ」
 ……考えた。
 一瞬で、十八年分くらいは考えた。
「これも、『思案の外』の一部なのよ」
 絢辻さんが。わがままで、傲慢で、強気で、自信家で、賢くて、計画的な
絢辻さんが僕に向けた、謙虚で、しおらしくて、寄る辺なげで、悔しげで、
ばかみたいで、先が見えなくて頼りなさそうな瞳を、分厚い潤いの膜を張っ
て揺らがせ、本当はすぐにでも一つまばたきをして、こぼれそうになってい
る思いのようなものを押し込めたいくせに、意地を張って見開き僕を見つめ
ているのを見たら、……文字通り、時間のかかることだから今すぐその気持
ちにやわらかく蓋をして上げることが出来ないのは分かっていたけど、どう
したっていい、その痛みを少しでも和らげて上げたいと思っていた。
 不安は鈍痛で、根治しない。それは身をもって知っていた。いつまでもい
つまでも、ずくずくと、ここにいるぞと僕ら自身を地の底に縛り続ける。そ
れよりも強い安心でくるみ込んで、痛みの大きな波が通り過ぎるのを待つこ
としか出来ない。それでもやがて、安心は時間とともに摩り減って、いつし
かまた、剥き出しになった鈍い痛みは心を蝕み始める。そのたび、何度も、
何度も、新しい安心で包み直して上げるしかないんだ。
 特効薬……はないけれど、それに近い強い薬なら知っていた。この一年、
僕が何度も絢辻さんに処方してもらった、あの。
「絢辻さん、ちょっとこっち」
「え? あ、ちょっと」
 思い至るや矢も盾も、僕は絢辻さんの手を肘で捕まえたまま、その狭い路
地に体を滑り込ませた。絢辻さんも、自分で手を離せば逃れられるのに、引
かれるままについてくる。建物の壁と壁の間、二人向き合って立てばもうい
っぱいいっぱいだ。抱き寄せるまでもなく、僕と絢辻さんは、「それ」以外
することのない距離になった。絢辻さんはそうなる前から察していて、準備
していたため息をついた。
「何を考えてるのかしら?」
「ははっ……多分、ご想像の通りで……」
「もう……」
 右手に学生鞄、左手に紙袋。両手は塞がっていたけれど、もう一つ荷物を
抱え込むようにして僕は絢辻さんの細い腰に手を回す。絢辻さんも全然抵抗
しなかった。
 本当は、絢辻さんを安心させるにはこんなことだけじゃ不十分なのも分か
っていた。僕には言葉が決定的に足りない。足りないからこそ絢辻さんはそ
こを一番に欲している。だから、絢辻さんがそっと瞳を閉じようとしたとき、
僕は息の詰まった喉を、絞りあげた。
「え、えとっ……」
「え?」
「あ、愛してる……ます!」
「はあ!?」
 閉じかけた瞳が一気に開いて、絢辻さんの、肩が、背中が、一息に緩んだ。
ふわりと軽く、やわらかく。まるでぬいぐるみを抱くような感触が戻ってく
る。
「その、あ、絢辻さん、だけっ……!」
「ちょ、ちょっと……」
「絢辻さんだけを! だから……!」
「……」
「だからそん、む……!」
 伸び上がってきた絢辻さんの唇に言葉の出口を蓋をされ、勢いが良すぎて
唇越しに歯まで押し付けあって……僕は、せっかくの言葉を中断せざるを得
なかった。絢辻さんのふくらはぎは本当に迅く、強く、しなやかで、僕の唇
が言葉の途中でしかるべき形になるのを読み取って、鋭い伸縮でからだを押
し出してきたのだった。
 ほんのふた呼吸ほどの、短い口づけだった。絢辻さんは僕に預けていた体
重を自分からかかとにおろすと、一度小さく息を吐いた。二人して、少し間
の抜けた呼吸で気持ちを改め、微笑みあった。
「あ、絢辻さん……」
「わかったから。ね」
「……うん」
「本当に……ぶさいくなんだから」
「はは」
「ありがと」
「え?」
「……も、だから」
「え、ああ……うん」
 最後の言葉は聞き取りにくかったけど、なんとなく通じた。そこから先は
文字通り、言葉は要らなかったし、言葉ではうまく運ばなかったと思う。瞳
で自然に導きあい、迎えに行く僕と、絢辻さんはまたかかとを上げる。僕の
胸にぐっとかかる重みは多分体重だけじゃなくて、つま先で押し出した分が
結構あったんだろう。後ろがすぐ壁でなかったら押し倒されていたかもしれ
ない。……多分、それも計算づくだったんだろうけど。今度は、分厚く、唇
が重なる。すごく上等の果物みたいな……水と、不確かな、滑らかなのにざ
らついた粘り気。唇だけじゃない、厚い吐息の奔流と体温の渦。胸と、腕と、
おへその辺りに感じるたくさんの弾力と髪のくすぐり……そして口と鼻から
流れ込んで渾然となる匂いとたくさんの潤い。何かを考えようとあがく整然
とした流れがそれらにかき回されて一切形にならずに混沌とする中で、閉じ
た瞼のど真ん中に一つ、揺るぎ無いちいさな光の粒があるのを見つける。そ
れを引き寄せようとして、僕は必死になって舌で探った。絢辻さんにいつも
怒られる、考えなしだ、不器用だって。でもそれは絢辻さんだって同じだ。
力に力で対抗するように、ざらざらとなまめかしい感触を押し付けて僕の舌
を邪魔するから……多分絢辻さんも同じ気持ちで、探し物をしているだけな
のだろうけど……僕はそれをなだめようとして、絢辻さんを舌で撫でてあげ
る。いい子だから、大人しくしていてと。そうしているうちにいつの間にか
……その光るものは僕ら二人の、舌と唇の間に移動していて、まるで、二人
してその形を整えるように、巣作りのように。
 そこから先は……息と鼓動が続く限りだ。『痛み止めは、用量・用法を守
って正しくお使いください』。そんな、注意書き通りに出来れば、誰も苦労
はしないんだ。炉のように、ふいごのように。鼻と唇の端からはふはふと熱
い息が漏れ続けた。僕は両肘と腕を、間に挟み込んだ絢辻さんのからだの、
わき腹や背中と擦り合わせ、絢辻さんも僕に回した手と腕、それに押し付け
たからだ全体を摺り寄せて、けれどある一点だけは決して外さないように、
すこしずつ、からだ全部で、互いにそれとわからないよう小さくうごめいて
浅い愛撫を続けた。ぼんやりとした熱に包まれて体中が痺れていき、鈍い痛
みは僕の中から、多分、絢辻さんの中からも、少しずつ引いていった。
 もうそのときには、どっちの手に何を持っていたか分からなくなっていた
けれど、軽い方の手を滑らせて絢辻さんの長い髪にくぐらせ、手の甲、手首
で、そっと絢辻さんのうなじを何度か撫でた。絢辻さんもそれを受け入れる
ように、むしろ導くみたいにちいさく首の角度を変え、僕の掌にここを撫で
てと注文をつけてきたから僕はそれに従い……その度、からだをこわばらせ
たり、弛めたりする絢辻さんの息遣いに、おへその奥が熱くなるのを感じて
いた。


               ・
               ・
               ・


「……にしても、大きなケーキだったね」
 キスの余熱から解放されるのが、今日は珍しく僕の方が少しだけ早かった。
制服の背中を壁に凭せたまま、出て来た第一声はそれだった。絢辻さんはそ
の僕の胸にまだ少し寄っ掛かり気味で、ちいさく肩を上下させていたけれど、
トン、と瞬きの音がしたかと思うと、まあね、と痺れが抜けたのを確かめる
みたい、はっきりと言った。
「そうね。だって、二人分だったんだもの」
「そうなの? でも、絢辻さんに、って」
「途中で気付かなかった? あんな大きなの、『ふつうの』女の子一人が、
そのつもりもなしに食べ切れるわけないでしょう。はじめから織り込み済み
だったのよ、マスターは。あたしが小食なのだって、重々承知のはずよ」
 絢辻さんはやたらと「普通の」の部分を強調し、
「本当、食えないわよね」
と、店を出てすぐの言葉を繰り返した。……洒落たつもりはないと思います。
多分。あと、「そのつもり」っていうのは、梨穂子言うところの
『今日はケーキ食べるぞぉ~っ!! ……っていう、モードがあるんだよね
ー』
という気分のことだろう。そのモードを開くには、「アマイモノハベツバラ」
のおまじないが必要なのだそうだ。
 絢辻さんは、
「今日、あたしがあなたと店に来ることも、サプライズでケーキを出すこと
も。それを、あたしがあなたに分けて食べさせるのも。全部、マスターのシ
ナリオ通りよ、きっと」
癪にさわるったら、と、もうすっかりいつもの調子でまんざらでもなく、ま
くし立てた。
「そ、そうなのかな」
「間違いないわよ。ちょっとしたことに、色んな思いを添えてくるものよ」
 こんど、面白い小説と映画を貸してあげる、それを見て勉強してね--。
絢辻さんの言葉を頭の空洞に響かせながら、僕は考えてた。
 だとしたら。そのケーキを、絢辻さんが僕に食べさせてくれたことにも、
何か意味があったのだろうか。一つ一つ、不思議なタイミングで切り取った
お誕生日ケーキの、「絢辻さんの」お誕生日ケーキのピースを、僕の口に運
んでくれたことにもきっと、何か言葉に出来ない気持ちが隠されていた。そ
の一つ一つを甘く噛みしめようと思い、そして最後の一つを、たとえ一旦で
も拒んでしまったことは、熱の靄の抜け切らない頭でも、やっぱり少し申し
訳ないと感じた。
「絢辻さん」
「何?」
 僕は絢辻さんの細い腰をもう一度、肘と手首でぎゅっと抱き寄せる。あん、
と可愛らしい、悲鳴とも悦ともつかない声を上げて、絢辻さんはまたくにゃ
りと骨までやわらかくする。胸にトサリと落ちる暖かな重みと、女子の制服
の、やけに上等な肌触りが柔らかい。
 僕ももう、思いを隠さない、
「……何?」
僕の胸に耳を当て、目を合わせず。寝言のように繰り返す絢辻さんの髪に、
僕は鼻先をうずめた。ケーキより甘い匂いを、ゆっくり、深く、吸い込んで、
瞳の裏までしみこませた。その力を借りて一言、言葉にした。
「ごめん」
「……そうよ。以後、気をつけて頂戴ね?」




                             (続く)




 

|

« ■輝く時間 ~第4先輩さんと行く名古屋 -更新第489回- | トップページ | ■死に神の手ごころ -更新第491回- »

[創作 SS]」カテゴリの記事

アマガミ」カテゴリの記事

ゲーム」カテゴリの記事

創作」カテゴリの記事

手帳の中のダイヤモンド」カテゴリの記事

絢辻さん」カテゴリの記事

コメント

ご返事ありがとうございます。
いえいえ、気長に待たせてもらいます!
ここの登場人物はとてもいきいきしてて大好きなので…
どうぞ時間のあるときでも宜しくお願いします(^^)/

投稿: | 2013年6月 5日 (水) 01時10分

■名もなき来訪者さん
どうも、ようこそのお越しで。
お読み戴きありがとうございます……更新?
 
ハッハッハ、いやだなあお客さん。
 
 
す る に 決 ま っ て る じ ゃ あ り ま せ ん か ! (滝のような汗
 
 
……とはいえ、いま一個つっかえてるお話がありますので、
まずはそっちを上げてから頑張らせてもらいます。
どうか気長にお待ち下さい。
いやホントにね。
色んな方に申し訳ないと思っておりますよ。
 
誰にって、そりゃあなた、一番は絢辻さんですよ。
マそんな感じで……
ホント、しっかりやらせてもらいますんで。
どうか、どうか。
 

投稿: オイサン | 2013年6月 4日 (火) 23時38分

最近になってアマガミにはまったので楽しく見てます!
先がきになるのですが現在も執筆中となってるものはもう更新されないのですか?
今更で申し訳ありません。

投稿: | 2013年6月 4日 (火) 23時13分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/55967/34577751

この記事へのトラックバック一覧です: ■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・6-3> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第490回-:

« ■輝く時間 ~第4先輩さんと行く名古屋 -更新第489回- | トップページ | ■死に神の手ごころ -更新第491回- »