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2010年3月 5日 (金)

■鍋とサッポロの境界麺 -更新第441回-

 


■鍋が鍋であるために



先日、「ラーメン国とお鍋の国の国境」みたいなことを書いて
その記事がNewsWeekに掲載されて大変な話題を呼んでしまったのだが、
イヤ後半はウソですけど、
友人にこの話を笑いのネタとして話していて、
実はこの件、落語のような顔をしていながらなかなかに示唆に富んだ話でもあるなと
我ながら感心してしまったので、
その新しい解釈を再度まとめておこうと思う。

 ▼鍋であるように

この話が示すところはつまり、
「鍋物として生まれ落ちた者だとしても、何か一つ不安定な条件を満たすだけで、
 その瞬間に『サッポロ一番』に生まれ変わってしまうのだ」
ということだ。

周囲からは鍋物としてのあり様を期待され、
自らもそのようにやってきたつもりで、
より鍋物らしくあろう、
より受け手の期待する鍋としての満足に貢献しようとした行いの結果であったとしても、
「サッポロ一番のパーツを全部受け入れてしまったら、
 その瞬間に鍋ではなくサッポロ一番になってしまうんだ」
ということだ。

  一つ勘違いをしないで戴きたいのだが、
  オイサンは『サッポロ一番』が嫌いなわけでは決してないし、
  『サッポロ一番』が鍋に比べて劣っているとも思わない。
  むしろ『サッポロ一番』は大好きで、
  こんだけサッポロ一番サッポロ一番言ってたらもう
  いい加減『サッポロ一番』が食べたくて仕方がなくなっているのである。

たとえそれが、自分が鍋物として欠けているパーツを補おうとする、
鍋物としての完成に前向きな行為の結果であったとしても、である。
これは重大にして深刻だ。

 ▼なべとぼくのうた

そしてそのトラップ・過ちを回避することは、
大きな眼差しで自分とその周囲を捉えていないとなかなかに難しいことであるように思う。
気持ちや行為が前向きであるだけに尚更だ。
その姿勢のまっすぐさから、恐らく、周囲からも諫言も与えがたいのではないだろうか。
まっすぐな眼差しで正しく邁進する者に、
「それはおかしいのではないか」と言えるだけの強さを持った第三者というのは
なかなかいないものだ。

また、思わぬモノ同士が、思わぬ繋がりで隣り合わせていることがある、
というのが今回の件の落とし穴でもあった。
オイサンも、まさか鍋物と『サッポロ一番』とが
「麺」と「野菜」というある種漫然とさえしているワード二つでもって
これほどまでに近しい位置にあるとは夢にも思っていなかった。

ちなみに、昨日はスープの味に変化をつけようとして味噌を溶いてみたが
これは大きな問題にはならなかった。
味噌汁にはならずに済んだのである。「味噌仕立ての鍋」で留まった。
その更に前には、辛味を欲して「麻婆豆腐のモト」から麻婆スープを溶いてみたが
これまた美味なばかりで五目麻婆的なものにもならなかった。

境界がどこにあるのか、踏み入ってみないと分からないのも
回避を難しくしている要因の一つだと実感する。

ちなみに言っておくと、今回直接の死因となったのは
「サッポロ一番のスープの素」が投入されたことだったように思う。
その前段階まではギリ、鍋だった。

 ▼True Nave Story ~鍋のようにぼくたちは~

ではそのような落とし穴を回避するために、
或いは陥ってしまった後そこから脱するために、
必要な備えとはなんだろうか。

それは、
「大勢で囲む」であるとか、「器が土鍋である」などの
「『サッポロ一番』が全部入っているんだ!」という
「『サッポロ一番』であることの客観的な成立要件」を凌駕するだけの、
強く大きな
「鍋物としてのパーソナリティ・アイデンティティ」
を発揮出来ることだ。
且つ、そのアイデンティティは客観的にも認め得るものでなければならない。

それが備わっていさえすれば、
「『サッポロ一番』の味がするが、これは確かに鍋だ。
 だって土鍋に入っているもの」
と、誰かが言ってくれるだろう。
「だって、ポン酢で食べられるもの」
と、誰かが言ってくれるだろう。

オイサンの不幸は、鍋は鉄製の手鍋、参加者はオイサン一人という、
まさにその概観からは鍋だかラーメンだか分からない状況だったことだ。
そのオイサン自身からして、スープの素投入とほぼ同時に、
「アレ? これただの『サッポロ一番』じゃね?」
と思ってしまったからもう、救えない。
閑話休題。

 ▼今日も明日もいつもの鍋で

「努力の方向を間違ってはイカン」
というシンプルな話で終わらないところにも、この問題の根深さはある。

より鍋であろうとするためにシメの麺を求める気持ちも行いも、
そこに『サッポロ一番』を見出す発想も挑戦心も、
「間違ってはいない」からだ。
ただ不足していたのは、完成形を見通すだけの視点の高さと時間軸、
あとは冷静さだったように思う。

ただ、一つ、この件の裏面にある希望を逆説的にとらえれば、
「出自や過去から脱却することは、場合によっては容易い」
ということでもある。
『サッポロ一番』に憧れながらも、鍋であることを求められ続け、
それに従ってきたからといって、
『サッポロ一番』たることをあきらめる理由はどこにもないということだ。

先ずは冷静に、隣り合い、結び合う、意外な接続を見つけることが大切だ。
隣でなければその隣、そのまた隣と、
(はからずも今回オイサンがやってしまったように)周到に段階を踏み、
最後にキモとなる要素をぶちこめば、そこにたどり着くことは出来るのだろう。

 ▼できるかなって、×鍋鍋鍋(なべみっつ)

サテ、ここで改めて、皆さんに問いたい。
皆さんは果たして、『サッポロ一番』だろうか? それとも鍋物だろうか?
どちらかであるか、ということに大した意味はない。
ただ、自分が『サッポロ一番』なのであれ、鍋物であれ、
自らに胸を張って「自分は『サッポロ一番』だ!」「鍋物だ!」と高らかに宣言でき、
周囲に認められ、正しい道を歩いているかということだ。
『サッポロ一番』を標榜しながらも土鍋に足を突っ込んではいないか。
鍋物であることを固く誓いながらも、『サッポロ一番』のスープを振られてはいないか。
ましてや添付の白ゴマを。

そして何よりも、誤ったときに迷いなく復帰できるだけの、
強いアイデンティティを備えているかということを
今一度確認してもらいたい。
あっさりとドンブリに移し変えられてしまう土鍋では意味がないのだ。
同じ土鍋なら、深く、大きなものでなければならない。
なまなかなドンブリでは、とてもその容量を賄えないくらいの。

いかがだったろうか。
油断してはいけない。
何と何が隣り合わせ、何で繋がっているのか、
今の世の中は分からないのだから。
生と死とが、命の状態の表裏によって結び付けられている様に。





……以上、
分かっているとは思うけど、
あまり真面目に聞いてはいけない類の話。
オイサンでした。

ナ・ベ・ノ・ヲ・ト、響け。
高く、かなしみを越えて。
(まだ言うか)





▼僕が僕であるために




▼夢であるように




▼きみとぼくのうた




▼True Love Story ~恋のように僕たちは~




▼今日も明日もいつもの道で (ver 初音ミク)




▼できるかなって×☆☆☆





 

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