« ■RETURN TO REAL -更新第391回- | トップページ | ■30/30 ~氷と、タバコと、携帯と。 -更新第393回- »

2010年1月 6日 (水)

■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・4> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第392回-

前編 / 後編その1 / 後編その2 / 後編その3
アマガミ 絢辻さんSS 目次




            -- 4 --




 店に入ると、僕らはカウンターのお婆さんに短く、遅い来店の詫びを告げ
た。そして手早いオーダーの後、テーブルに着くや目の前に置かれたものを
見て、目を白黒させた。殊に、絢辻さんは。
 一面深い茜色の、落ち着いた佇まいのこの喫茶店は絢辻さんの猫かぶり時
代の隠れ家で、今では僕と絢辻さん二人の時間の隠し場所だ。昨年の創設祭
の少し前に絢辻さんに教えてもらって以来、僕らは時折ここにこもっては、
色々な話をしたり、ケンカ……と言っても毎度のこと、僕が一方的にやりこ
められるだけの展開だけど……をしたり、ときには黙って本を読んだり音楽
を聴いたり、何でもない、たくさんの時間を過ごしてきた。そしてここにこ
もった翌日には、薫や梅原から「昨日はどこ行ってたんだ、捜してたのに」
と言われることが多かったから、多分まだ、バレずに済んでいるのだろう。

 R0021974

 そのお店で、今、僕の前には自分で頼んだホットのブレンド、絢辻さんに
はシナモンティーが置かれている。それと……
「これは……」
 白くて丸いケーキプレートに乗せられた、カットケーキは紅茶色のシフォ
ンだ。
「ちょっと時間が経ってしまったから、お味が落ちているかも知れないけれ
ど。ごめんなさいね」
 そんな、上品な微笑みとともに店のおばあさんが置いていったそれを見下
ろして、絢辻さんは言葉を失っていた。
 かわいいケーキに添えられた、チョコで『Happy Birthday
to 詞さん』と書かれた輪をかけてかわいいビスケットのプレートとしばら
くにらみ合った後……やがて一つの結論に達した絢辻さんは、うつむき加減
のまま、上目使いの視線をジロリと僕に差し向けた。
「な、何……あ! ち、違う! 知らないよ!?」
「嘘! じゃあ他に一体誰の仕わ……!」
 小声で僕を引っ掻こうとしたその矢先。何か、思い当たる節が見つかった
のだろう。絢辻さんは失速して、糸が切れたみたいにテーブルに、突っ伏す
ようにして拳を着いた。
「あ、や……辻、さん?」
「……ごめんなさい。多分……ううん、間違いなく、あたしだわ」
 見落としていたことがショックだったのか、絢辻さんは、彼女にしては珍
しくのろのろと鞄を漁ると財布を取り出した。僕も見慣れた、赤い革の二つ
折り。絢辻さんの持ち物は実際の値段以上に品の良いもの、良質のものが多
いけど、財布については特にこだわりがあるみたいで、その存在感は持ち物
の中でもトップクラスだ。高校生が持つにはちょっと重厚すぎるその趣も、
絢辻さんの手には借りてきた猫の様に収まるから、さすがだ。
 そこから一枚、名刺サイズのカードを抜き取ると、絢辻さんはテーブルの
上に滑らせた。僕はそれをつまみ上げる。
「何これ。『Member’s Card』……ここの?」
「始めたらしいのよ。前の前だったかな。あなた、お会計のときはいっつも
トイレに行っているから知らないでしょうけど」
 そのカードの裏面には、スタンプ欄とパーソナリティを書き込む罫線とが
あって、絢辻さんの涼やかな文字で、普通は無視してしまうような項目にま
で几帳面に書き込まれていた。
「僕、もらってないなあ」
「『あなた達は連名でいいわよね』、ですって」
 見ればなるほど、スタンプの欄には近い日付が二つずつ、この店らしい飾
り気のない印に押されていた。この店へは、めいめい一人で来ることも以前
はたまにあったのだけれど、それをやるとお店のおばあさんが過剰な気回し
をするから、出来るだけやめようということで、僕と絢辻さんは合意してい
た。そのおばあさんが二人分のカードを絢辻さんに託したのは……僕らのチ
カラ関係を把握されてるから、なんだろうな……。喜んでいいのか、悲しむ
べきか。
 絢辻さんの個人情報に目を走らせていくと辿り着く、「Birthday」
の記入欄。これまたしっかりバランスのとれたイタリックに近い書体で「8
th Oct」とあった。
「ああ……」
「スタンプのときに、しっかりチェックされてたのね」
 何がそんなに気にくわないのか、絢辻さんは渋い顔で。またもやケーキと、
見合って見合って。けれど制限時間いっぱい、意を決した絢辻さんが手にし
たフォークの軍配で西の横綱の鼻先にひたりと触れれば、取り組み成立。結
びの一番、はっけよい。
 カチン、と。めいめいちがう国で生まれた陶器とフォークがぶつかり合っ
てたてる澄んだ音には、高潔な楽の音のような丸みがあった。
「ん……。おいしい」
 初手の指運びこそしぶしぶだったものの、信じられないくらいふかふかの
シフォン生地をフォークで器用に切り取ると、添えられた生クリームを乗せ、
口に入れてしまえば絢辻さんも女の子だ。押し寄せる甘身に逆らえず、決壊
した頬と目尻が、見ているだけで嬉しい気持ちにさせてくれた。幸せは何で
出来ている? そんなの決まってる、その原材料は糖分と脂肪分で、生クリ
ームは天からの使者だ。さすが、マザーグースは英国淑女の英知の結晶だと
思い知る。唇のはしにお行儀悪く張り付いた生クリームをこっそり舐め取る
舌の動きを目撃した僕はもう……嗚呼っ! 大きくなったら、生クリームに
なりたいっ!!
「良かったね。おめでとう、絢辻さん」
 あまりの嬉しさについ口を滑らせた僕に、今度はその、ぶちかましの矛先
が僕に向く。
「それよ」
と絢辻さんは、今度は僕の鼻先にフォークを突き付ける。あ、危ない危ない。
ぴたりと静止したその切っ先には、僕の鼻くらいストンと容易くこそげかね
ない勢いがあった。
「その話をしに、わざわざここまで戻ってきたんでしょ」
「あ。そ、そうだね。はは……」
「もう……絶対、全然別のことを考えてたでしょう」
 絢辻さんは取り組みの手を止め、幸せで一杯の口の中をシナモンのちょっ
ぴりスパイシーな香りで洗って言った。
「だけど、そういうことなんでしょ?」
「え?」
 カップもフォークも元の位置に戻して、絢辻さんは背筋を伸ばすと、
「そうやって、するっと出て来ちゃうくらい当たり前のことってことよね」
と、冷たい調子で言い放った。甘い物とお茶で脳も体も温まり、余裕が戻っ
てきたのだろう。その言葉のお尻に「あなたたちにとっては」という一節が
省かれているのが、絢辻さんの作り出す行間の空気にあぶり出され、僕は少
しだけ、ほんの少しなのだけど、腹立ちというか、闘志を感じた。第一ラウ
ンド開始の合図だ。
「うーん……」
「こらっ」
 背筋を改めるつもりで背中を預けたオーク造りのチェアはものすごく頼り
がいがあって、ついうっかり、後ろに大きく舟を漕いでしまう。それを絢辻
さんに咎められてカクンと椅子を戻すと、その勢いで今度はテーブルに頬杖
をついた。
 薫が、梨穂子が、梅原が。絢辻さんの誕生日に、絢辻さんの何を祝ったか
って?
 ……生まれてきたこと。その成長。無事に育ったこの一年、そんな誰かと
出会えたこと。
 耳当たりの良い理屈は幾つも思いつけたけど、でも本当のところはそのど
れでもない気がしていた。それは多分、僕が誰かを祝うとき、そんな風に考
えたことがないせいだ。
 僕らは生まれてこの方、生まれ、育ってきたことを、無邪気に無条件に、
喜ばれることに慣れてきた。何が喜ばしいのかも知らないまま、けれども体
の芯に刻まれたその喜びが揺るぎ無く正しいものだと知っていて、そうして
誰もが祝われる喜びを心に持っていると思っているから……その嬉しさだけ
を頼りに、祝いの言葉をひとにも贈ることが出来るんだと、そんな風に思え
てきた。「今、君は僕の感じた喜びと同じ喜びに包まれているんだね」と。
ともすれば虚ろにも思えるその喜びの中心には、誰も見たことがないけれど、
きっとちゃんとした理由があって、それを知るには、世界で、歴史で、いち
ばん最初に「お誕生日おめでとう」を言った誰かに会いに行かないといけな
いんだろう。それはまさに、二千年も昔のクリスマスに起こったはずだった。
 空虚なはずなのに、芯の詰まった不思議な嬉しさのその中心には、一体、
何があったんだろう。
 今こうして澄ました顔でお茶を飲んでいる絢辻さんが失くしたのは、その
喜びそのものだった。僕らが持ってる当たり前の土と水、お祝いって、みん
なが喜びの苗を持ち寄り、誰かの心の苗床に植えていく、そんなことのよう
に思えて……絢辻さんには、受け入れるその苗床がないのだと、なんだかそ
んな絵が僕の心に描かれていた。
 ん? でも待てよ、
「そういえば……」
「どうかした?」
 その途端、僕は一つの不思議に思い当たって声に出してしまった。今日は
店の音楽がお好みだったのか、そっちに耳を傾けていた絢辻さんも、不思議
そうに食いついてきた。
「絢辻さん、去年、僕に誕生日のプレゼントをくれたよね?」
「上げたわよ……まさか。忘れてたの?」
「わ、忘れるわけないよ! もらった本だって、大事にしてるよ」
 カップの把手に延びていた絢辻さんの指が止まり、ざわりと一回り、体が
大きくなったみたいに見えて、僕は慌てて取り繕う。
 実際、絢辻さんからもらった本は、お宝本や漫画とは一線を画した部屋の
本棚の一等地に大切に保管してあった。怯えながらでも、キチンと目を見て
そのことを告げると、「そう」と絢辻さんは、一旦は止めた動きを引き続き、
コクリと一口紅茶を含んで安心したようだった。そして突然、
「そうだ、ねえ。あれ、ちゃんと全部読んだ?」
と、思い出したように責める目になった。
「もちろん読んだよ……」
 そうだった。去年の僕の誕生日に贈られた、絢辻さんオススメの「相当悲
惨な物語」は、僕に十七歳最初の夜を死にたいような気持ちで過ごさせてく
れたんだ。でもそれは悲惨なばかりじゃなくて、「散漫で不実な生き方をし
ているとそんな目に遭うぞ」という戒めを含んでいるように読めたから、な
んだか絢辻さんらしいと思えなくもなかった。……まあ、僕は昔から国語の
成績は良くないから、その読みが合っているのかどうか、甚だ怪しくはある
のだけれど。
「そうじゃなくてさ。あれは一体、どういうつもりだったのかなって」
「ああ、あれは……」
 そうなんだ。あらためたかったのは、僕の誕生日を祝ってくれた、絢辻さ
んの気持ち。絢辻さんには実績がある。僕の誕生日を祝ってくれたという、
立派な実績が。そこにはどんな気持ちが隠れていたんだろう。僕の何を、喜
んでくれたんだろう? それは大きなヒントになるはずだ。絢辻さんを祝っ
た僕自身の中からその気持ちを探し出してみることも出来たはずだけれど…
…当たり前であることにあぐらをかいて生きてきた上に、国語も苦手な僕で
は、それはとても時間のかかる作業のように思えた。
 けれど、絢辻さんも顔こそ逸らさないけど、瞳は右の目尻から左の目尻へ、
瞬きの度に位置を変えて、僕の正面に立つことを拒んで見えた。その当時の
自分が考えたことに、何か負い目でもあるみたいに。
「あれは、『そういうもの』だって、知っているからよ。お祝い事なんだか
ら」
「そっか……。そうだよね」
出てきた答えは自分の中にある物とさして変わらず、僕はひそかに落胆する。
考えてみれば、猫かぶりの絢辻さんにそういう気遣いや付き合いが絶対的に
必要な物だったことは疑いがない。そして、みんながそれを持っていること
を前提に行動する事は難しくない。むしろそこに……お祝い事というものが
『そういうもの』であって、その根底にある『気持ち』との間にはっきりと
した結びつきを求められずに済むことは、猫をかぶった彼女にとって好都合
だったはずだ。
「それと」
「それと?」
 そこまで言って絢辻さんは、また一度、僕から視線を外した。瞳の濃い黒
が、グレーと青の中間のトーンに落ちる。
「方便……みたいなものよ。あなたの喜ぶ顔はもちろん見たかったわ。だけ
ど、あたしのことももっと知って欲しかった。だから一般的な風習にかこつ
けて、あたしのことが分かるものをあなたにもらってもらったの。それじゃ
いけない?」
 出だしゆっくりだった口調は徐々に滑らかになり、しまいには前傾気味の
勢いがついた。駄々っ子の開き直りに似たその迫力に、理屈で対抗はできな
い。さらに絢辻さんは、こう言ったらなんだけど、と付け加え、
「あたしが贈った物って、あなたの好みとか希望とか、ほとんど慮ってなか
ったはずよ? 気付いてたでしょ?」
と、組んだ腕が頑なな意志を感じさせた。
「それは……」
 ……確かに。僕、本なんかお宝本や漫画じゃないとなかなか読まないし、
読むにしたってあんな難しい話からは大抵逃げてばっかりだ。あの本が僕を
喜ばせてくれたのは、他ならず、絢辻さんからのプレゼントだということに
尽きた。
 けど、それって。
「それじゃあ、絢……」
 結局見つからなかったヒントに、溜め息と一緒にこぼれかけた言葉を僕は
飲み込んだ。まずいまずい。……でもそれは、すっかり手後れだったようで。
「なによ?」
 絢辻さんは勝手に、頭の中でその穴埋めを完成させて目つきをぎゅっと鋭
くした。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったら?」
「ないよ、ないない」
 言いかけても、言いたいことはそれじゃない。言ったって、ケンカになる
か、傷つけるだけか、はたまたフリダシに戻るのか。これだけ読みとられて
しまったらもう言ったも言わないも無いのだけれど、たとえバレバレでも口
にしないということだけで世の中はその後の形を随分変えるのだということ
を、僕は絢辻さんとつきあい始めてからこっちの一年で身に沁みて知ってい
た。で、慌てて一口、自分のコーヒーをすする。それで完全に確信を得た絢
辻さんは、
「悪かったわよ」
と、決まり悪そうにしながらも小さく鼻を鳴らした。
「けど、あの頃のことはもう勘弁して頂戴。色々、必死だったんだから」
「……そうだね。お互いにね」
 それに関しては、何の異論も挟めない。梅原にそそのかされて始まった、
あの怒濤のような六週間の出来事は、きっとこの先の僕の人生の中でもそう
そう訪れることのない時間だと、胸を張って思える。……のだけど。絢辻さ
んは、僕のその言葉には同意しかねるとでも言いたげに、必死? あなたが?
と、苛立ちを隠さない。勝手だなあ、本当に。
「まあいいわ。だから、あれはイレギュラー。今あたしが欲しいものとは、
ちょっと違うの」
「そっか……」
 その時僕は、必要以上に落胆してしまってたんだろうか。トーンの落ちた
僕の声に反応して、絢辻さんは慌てて付け加えた。
「でも、あなたに喜んでもらいたいって気持ちだって、本当にちゃんとあっ
たのよ?」
「そ、それは分かってるよ! 実際、本は面白かったし」
 それには僕も慌てて切り返す。喜んでないなんて思われるのは心外だ。そ
れに万が一、絢辻さんが「自分のことを知って欲しい」という気持ちだけで
贈ってくれたものだったとしても……その気持ちだけで、僕が喜ぶにはあま
りある。けれども僕の言葉があまりに安易だったのか、くたびれ気味に椅子
にもたれた絢辻さんは小首を傾げて目を見開いた。その言葉の信義を窺われ
ている。そりゃあ、絢辻さんの心と体を繋ぐ配線は色々複雑だから、その全
部を把握しているのかと言われたら躊躇する。でもどこかに、……他の誰か
にするみたいに、お義理や打算で贈ったプレゼントとは質の違うものであっ
たこと、何かしら絢辻さん自身の喜びと、僕の喜びを喜ぶ気持ちのかけらが
添えられていたことくらいは、考えなしの僕にだって感じ取れた。
 絢辻さんが、どんな気持ちでこの物語を読むのか。
 絢辻さんは、どこを面白いと思うのか。
 どこで笑って、どこで泣いて。
 自分の気持ちを登場人物の誰に預け、結末は、胸のどのあたりにしまうん
だろう。
 絢辻さんは、絢辻さんは。
 絢辻さんは。
 ページをめくるたび、あの本は僕にとって絢辻さんだらけだったから、絢
辻さんの言ったどちらの気持ちも、すんなり僕の腑に落ちた。
 そんな風に、目を覗きこまれても退かなかった僕の自信を見て取って絢辻
さんは、
「ふうん」
と、興味深そうに肯いた。そしてまた一口、視線を外して紅茶を口に含むと、
「だったら、感想の一つくらいあっても良かったんじゃない?」
 こっちだって、不安になるじゃない。絢辻さんの呟きは、店に流れていた
少し重めのピアノの調べに後押しされて、僕に反省をうながしてくる……お
店まで彼女の味方だ。不誠実を責められ、うっと小さく仰け反った僕に畳み
掛けてくるのかと思ったけど、そうはならなかった。
「まあ、あなたの何を喜ぶのか、なんてことにまで頭が回ってなかったのも
本当だからね。どっちかって言ったら、自分のことばかりだった」
 不誠実はお互い様だとでも言いたげに一つクスリと笑いをこぼし、
「それでも……あんな風に思って、人に贈り物をすること自体……すごく、
久しぶりだったなあ」
と、絢辻さんは急に熱っぽい目になって、語った。一年近く前の心の感触を
反芻するまなざしは、ふわりと立ちのぼった紅茶の細い香気に酔っているよ
うで。……彼女はいつも、僕なんかにはもう本当にもったいないくらい綺麗
だけど、このときばかりはもっと別次元の、上等な織物のような綾をまとっ
て見えた。甘い香りすら漂わせ、……こういうのを、カンノーって言うんだ
ろうか……。おかしなことに、僕は目の前の恋人に一目惚れをしてしまいそ
うで、思わず喉を鳴らさずにいられなかった。
「こ……」
「ん?」
「今年も、楽しみにしていいのかな……なんて」
 色んな思いが束になり、しょうもない僕の喉から出て来たそんな言葉に、
絢辻さんは目を細めた。そんなとき、絢辻さんはありがたかった。言った僕
ですら気付いていない、言葉に縒りこまれた細い糸の一本一本まで、敏感に、
すべてを見つけて汲み取ってくれる。本当の期待、ちょっとした不安。純白
の糸から、タキシード色をした紳士的な望みまで。今日は何を見つけてくれ
たんだろう、組んだ腕をそのままテーブルについて、多分、また犬みたいな
目をしていたに違いない僕に、瞳を合わせた。
「どうかしらね」
 そうして、嬉しそうに笑った。それはとても自然な、どこにでもいる、女
の子の微笑みだった。と同時に……こんな風に笑える女の子を、僕は知らな
かった。
「ご期待に沿って上げられるかは、分からないけど?」
 またしても。……胸のうちを見透かされたみたいだ。絢辻さんの肘と肘の
間に焼き上がった、この上もなくやわらかそうな制服色のふくらみに、ほん
の一瞬……、いや、二、三秒? ……あとで絢辻さんからは「じっくり一分
は見てたわよ!」って叱られたけど、話半分でも三十秒くらい……目を奪わ
れたのを見つかって、僕はカップにかけようとした指を止めて、慌てて、隣
にあったお冷やを手にとった。この店のお水はするりとした甘みがある。こ
っちの水は甘いぞと誘わしい匂いをたてる、その水に飲み込まれるように、
僕はごくごくと、急激に渇きを増す喉を潤した。


     *     *     *


「おかわり、もらう?」
 さっきの花の微笑みとはやっぱり別次元、悪辣なニヤニヤ笑いの絢辻さん
は、空になった僕のグラスをつついて言った。
 うまい逃げも思いつけず彼女の言うままお店の奥を振り返ると、お店のお
ばあさんと同じ面影を持つウェイトレスさんは、僕らの来る前からいた、こ
の店で割とよく見かける年配の男の人の応対をしていてすぐにはお水をお願
い出来そうに無かった。けれど、一瞬だけ僕を横目に捉えて浅く頭を下げた
から、多分あとで用聞きにきてくれるだろう。
 一先ず諦めて姿勢を戻すと、絢辻さんは少しは納得もできたのか、もうさ
っきのネタを引っ張る気もない様子で、脇に立ててあったメニューをテーブ
ルに開き、もう何度目にもなるのに、フンフンと目を通していた。革カバー
のついたメニューの上品なたたずまいがお好みなのだと以前聞いた憶えがあ
る。時間のなじんだ写真の風合いも、スプーンほどの重みの一つ一つの謳い
文句も、固定されない、天秤の最後のひと揺ればかりのそれらの調和も。そ
れらを楽しむ絢辻さんの様子に、さっきの意地悪な気配や、特別な華やぎは
もうない。そんな他愛のないぼくらのたくさんの時間が、窓の桟に残る埃や
金具の錆びのようにこの店には積もりつつあって、沈黙さえ飲み込む静かな
厚みがこれから先の時間まで約束してくれているように、僕には思えた。

R0022041

 僕は、まだ渇きの残る喉を冷めかけたお茶でごまかしながら、
「でもそれなら、僕らも似たようなものかな」
と、今なら分かってもらえる気がして、切り出してみた。絢辻さんは姿勢を
変えないまま、瞳だけをくるりと、メニューから僕へ移した。
「絢辻さんの何を、って言われたら、固まったものがあるわけじゃないんだ
けど」
 僕の自供を、絢辻さんは黙って聞いている。何を祝い、何を喜び、何を願
うのか。
「絢辻さんにもっと喜んでもらいたいから、お祝いしたんだよ」
 絢辻さんは、ぱち、ぱちと二つ大きなまばたきをして、しばらく時間が止
まり、また、ぱち、ぱちぱちとまばたき。そこからさらに時間は動かず、ふ
た呼吸ほどあった。
「もっと、って?」
「え?」
 意外な切り返しに僕が驚けば、絢辻さんは呆れた調子で体を起こしてメニ
ューを閉じた。
「何よ。今、あなた、自分で言ったんじゃない」
 そしてわざわざ息を吸うのももったいないと、吐くため息も肺の中の残り
の空気で済ませてしまうと、ティーポットにかぶせられた保温のためのフェ
ルト地のコートを取り除け、お茶の残りを確かめた。
 そっか。僕、確かに言ったな。「もっと」って。
 僕自身、その言葉に織り混ぜた無意識の意図がどこから出てきたのか気持
ちの糸を手繰り寄せなければならなかったけれど、意外なくらいあっさり、
その終端が一つの引き出しに繋がっているのが見つかった。けれどその引出
しを開くには、一つ、危険な峠を越える必要があった。迂闊、だったかもし
れない。
「ん?」
 僕の緊張を嗅ぎ取ったのだろう。絢辻さんは一つ、鈴のように喉を鳴らし
た。絢辻さんの二つの胸のふくらみの、谷間のさらにその奥には、確かに一
本、骨と管が通っていて、そこを絶妙に操ってあんな音を出すんだ。その催
促に、僕には逃げ場はないし、ごまかせない。けど、絢辻さんにはいくらで
も退路が残されてる。絢辻さんは、ずるい。
「一応、僕は」
 少しの躊躇の後。これは言ってしまってもいいのか、分からない。グレー
ゾーンだ。普段の会話の中だったらほぼ間違いなくデッドボールで、乱闘確
実の危険球。絢辻さんは僕の投げる球から身をかわすことをなかなかしない
から、上げて落としたり、下げて上げたりの駆け引きは難しくて使えない。
きわどい内角で仰け反らせてからの外角攻めなんて以ってのほかだ。だけど
今、もう残されているのはこのコースだけだった。バッターボックスぎりぎ
りに立つ絢辻さん自身が、そのコースで勝負をしなさいと要求しているも同
然だった。
「絢辻さんが、その……お家の人と、……良くないのは、知ってるから」
 内角の、高さは真ん中。まっすぐだ。といっても、僕には変化球なんかな
いんだけど。
 体を掠める球筋に、全身をぴくりと小さくわななかせ、絢辻さんは僕を、
見た。その瞳の色を覗いた僕はやっぱり怖くなって、目線をテーブルに落と
した。絢辻さんの手元、ティーソーサーに寝かされたスプーンに大きくたわ
んで映った彼女を見ながら、それでも途中ではやめられないから、続けた。
「誕生日の話も、前に聞いてたし」
 絢辻さんは黙っている。怒り出す準備なのか、それとも既に溢れ出たもの
を押さえつけているのか。彼女の顔だけを消した僕の視界の中で、絢辻さん
の組んだ腕に力のこもるのが見えた。
 ひょっとしたら……と、思ってはいた。絢辻さんが、彼女自身の誕生日を
なんとも思っていないという可能性。そこに喜びがないのなら、僕らには何
も出来ないし、しちゃいけないはずだって。絢辻さん自身が喜びを見つけて
くれるまで、辛抱強く待つしかないって。だけど今朝、梅原がくれた絢辻さ
んの観察情報は希望に満ちたものだったから。
 ──お前からの何かを、そこそこ期待してるってこったな──
 僕は、計画を実行に移したんだ。そわそわと、僕からの何かを待つ絢辻さ
ん……そこにこめられた期待に、僕は自分自身への一点張りを決行した。
「だから、絢辻さんが少しでもたくさん、誕生日を喜べたらいいなって思っ
たんだ」
 絢辻さんの見つけた喜びが、どんなものなのか、何だったのか。それは分
からない。それでも一枚でも多くの花びらをつけられるように。来年も、そ
のまた次も、少しずつ自然に、強い根で新しい自分を支えられたらいいと思
った。
「喜ぶのは、絢辻さん自身だからさ」
 分からない、分からないけれど、絢辻さんの一番近くにいるはずの僕がそ
れを分かって上げられないのは不甲斐なく、それは僕が悪い、けれど、喜ぶ
ことは間違いではないんだということだけを強く伝えてあげたかった。
「周りの人間に出来るのは、その人が喜んでるのを後押しして上げることく
らいだからね」
 当人の喜びの針を追い抜いてしまわないように。それは、お祝いの鉄則だ。
そのくらい、ささやかな程度のつもりだった僕の計画は、お祭り野郎二人の
無茶な浅知恵のせいで大きく形を変え、多分、絢辻さんの均され始めたばか
りの土に過剰な栄養と水を注いでしまったのだと思う。僕は狼狽した。それ
でもうまく行くのなら良いと思っていたけれど、まだか細いばかりだった絢
辻さんの根はそれらを吸い上げ切れずに、根腐れを起こしかけたんだろう。
「えっと、だから」
「もういいわ」
「えっ」
 僕の話を遮った……というか、段々とまとまりを忘れ始めた僕の気持ちを
一度結ぼうとして差し挿まれた絢辻さんの言葉の水面はピタリと静かだった
けど、そこを満たした物は水か油のどちらかで、僕の投げ込んだマッチの炎
がどっちに転ぶのか……やっぱりまだ、絢辻さんの目を見るのは怖かった。
 中途半端な視界の中、絢辻さんの首から下は澱みなく動いてティーポット
からお替わりを注ぎ、シナモンティーの流れの糸がやがて細くなり、ぽつぽ
つと小さな雫になったのを見て、もう一度ポットの中をあらためた。ポット
の蓋を戻すとき、陶器の触れあうカチャリという音が少しだけ僕を落ちつけ
てくれて、そして再び、ポットには保温カバーがかけられた。
「わかったから」
 僕が恐る恐る顔を上げると、絢辻さんはそこでまた、二つ大きく瞬いて、
瞳から何かを飲みこんだみたいに見えた。
「あなたの言う通りね」
 ……そんなこと、言っても。その顔も声のトーンも、とてもそんな風には
見えなかった。むしろ渋い、受け容れ難さに満ちていて、とても「分かった」
ような晴れやかさはない。憮然と一服、新しいお茶を啜り、わずかに斜に構
えたカップの影から上目横目に僕を睨みつけてくる。
「それって、先ずはきちんと、あたし自身があたしの誕生日を喜んでいない
と始まらない。そういうことでしょ?」
「ええと、……ああ、うん」
 僕は半分しどろもどろになりながら、さっきまで自分が口走っていた内容
と絢辻さんの言葉を重ね合わせて、肯く。お祝いと喜びは掛け算で、その人
の喜びを大きくするためだ。もしも元がゼロだったら、いくら周りが祝って
も、うつろな祝いは空回りしてゼロのまま。それを聞くと絢辻さんはさらに
目つきを険しくして、僕のことを睨みつけてくる。
「そりゃ、嬉しいことが全然ないわけじゃないわよ」
 絢辻さんが僕を睨む場合は、大体三つ。一つは、本当に怒っているとき。
半分、殺すつもりのときだ。もう一つは、何かを探りだそうとしているとき。
その視線の役割はナイフとおんなじ、僕の心に突き立てて、隠れているもの
をえぐりだそうとするんだ。最後は……ただ気まずくて、照れ隠しのとき。
一つ目と二つ目は見分けがつきにくいのだけれど、三つ目の時は大体分かる。
でも、今回はそのどれかが全然わからなかった。一つ目ではない気はする。
でも二つ目の可能性は十分だったし、三つ目のような気配も漂わせていた。
いずれにしたって、どうしてそうなったのか、分からないんだけど。
「だけど、あたしのは人に祝ってもらうようなものじゃないでしょ? それ
に、そういうことじゃないの」
 絢辻さんは続ける。まるで僕が、分かって意地悪をしているみたいな言い
草だ。冷めた紅茶はすぐになくなってしまったみたいで、絢辻さんはまた、
ポットの保温カバーに手をかけた。けれど、さっき空になってしまったはず
のポットは持ち上げた瞬間期待した手応えを失って、絢辻さんはふっとバラ
ンスを崩して、唇を尖らせた。
「やっぱり、だめか……」
 えっ? 嘆息混じりの細い声が聞こえた。僕はどきりとせずにはいられな
い。さっきまで強い光を灯していた絢辻さんの瞳は鋭さを失っていた。霧雨
に濡れた紫陽花の角度で密かにうつむき、何かやり方を間違えた、或いは、
計画に狂いが生じたその針路を正すときの姿勢と面差しでいた。けれどその
一言が声に漏れたのはうっかりだったようで、僕の動揺から今起こったこと
を逆算した絢辻さんは、なんでもないわ、ごめんなさいと、珍しく普通に取
り繕った。
「でも、こんな風に無理に理屈を探しても、あんまり意味がないのよ」
 絢辻さんは、頭がいい。それは単純に勉強が出来るとか、脳のつくりがす
ごいとか、もちろんその辺りも並じゃないのだけれど、それだけではなくて。
 そんなことじゃないのよ。感情に理由が欲しいわけじゃないの。あたしが
知りたかったのは、みんながどんな風に人にお祝いを贈るのか。ただそんな
こと。それがどうあっても生まれつきじゃなきゃ手に入らないものなら、諦
めるしかないわ。静かに僕を拒む彼女の言葉に、通りを一つ間違えて待ち合
わせの場所を見つけられなかったときに似た戸惑いと焦りが、心臓から僕の
中にしみ出ていく。
「ただストンと……」
 一度、言葉が喉の渇きにつっかえて、絢辻さんも、水のグラスを手に取っ
た。何か、プレッシャーが彼女にもあったみたいだ。
「腑に落ちるような、そんな言葉が欲しかっただけだから」
 ……絢辻さんが本当にすごいのは、それだけの優秀な頭脳がありながら、
人間が心と体で出来ているということを、それこそ心と体の両方で、本当に
理解しているということだった。だから、どんなに筋が通っていても理屈の
ための論理は通用しないし、感情任せの強引なだけの思いにも屈しない。心
と体の繋がるその瞬間の感触だけを、いつだって信じ、求めていた。そして
人に接するときも、それを忘れないことだった。
「そうなんだ。ごめん」
 だから僕も、素直に謝るしかなかった。さっき見せてくれたほほ笑みこそ
が、多分今一番正解に近かった。そんな気はしてたのに。
「ううん、あたしこそごめんなさい。少し、意固地になっちゃったわね」
 絢辻さんはスイと背筋を伸ばすと、肩をすぼめて見せた。長い髪が瞬間さ
らりと広がって、重くなっていた空気をふわりとさせた。
「少しずつだけど、なんだか分かってきた気がするわ。ちょっと時間はかか
りそうだけど……まだ大丈夫」
時間はまだあるし、と、絢辻さんは不思議な言葉に連ねて、
「あなたも、いてくれるものね」
と、諦めたみたいに、まゆ毛の先に小さな悲しみをぶら下げて笑った。
「それって、どういう……」
「いいの。ありがと」
と、僕の疑問にはお構いなしで締めくくった。何に対してもらったお礼なの
か、僕は分からず、でもその理由も聞いてはいけない、聞かせてくれない温
度を絢辻さんが漂わせていたから、僕はまた、絢辻さんの言う「時」が来る
のを、もう少し待ってみることにした。




(次回で終わり!)




|

« ■RETURN TO REAL -更新第391回- | トップページ | ■30/30 ~氷と、タバコと、携帯と。 -更新第393回- »

アマガミ」カテゴリの記事

ゲーム」カテゴリの記事

創作」カテゴリの記事

手帳の中のダイヤモンド」カテゴリの記事

絢辻さん」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/55967/32876012

この記事へのトラックバック一覧です: ■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・4> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第392回-:

« ■RETURN TO REAL -更新第391回- | トップページ | ■30/30 ~氷と、タバコと、携帯と。 -更新第393回- »