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2009年12月17日 (木)

■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・3> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第377回-


前編 / 後編その1 / 後編その2 / 絢辻さんSS目次




          -- 3 --




 ガラスの向こうで絢辻さんの背中が大きく動いた。三つ四つ、店員さんと
やりとりをする身振りの後で頭を下げて、何かを受け取る様子もないまま、
クルリとこちらへ向かってくる。あれれ。どうなってるんだろう。
 ピンポーン、ピンポーンと鳴る電子ベルに送り出され、
「ただいま」
「おかえり……無かったの?」
という僕の問いに、絢辻さんは伏せ目で頷いた。じゃあ、どこに? まさか
道ばたで落とした? そんなばかなと思いながらも面倒な不安に捕らわれて
記憶を追い始めた僕をしり目に、絢辻さんは腕を組み、ハッと短く息を刻ん
だ。
「棚町さんよ」
「薫?」
「彼女、ここでアルバイトしてるんでしょ?」
 なんでも、忘れ物のバッグに気付いた店員さんが薫のポケベルを鳴らした
らしい。そしてつい今し方のこと、とって返してきた薫がそれを受け取り帰
って行ったのだそうだ。
「どういうこと?」
「行き違いになった……のかしらね」
「それは……。無い、と、思うよね?」
「……そうよねえ」
 二人して、好意的な解釈を試みるも、あっさり徒労に終わる。会を終えて
店を出る別れ際、二人、同じ方向へ足を向けた僕らに薫の叫び掛けた言葉が、
『子供の誕生日はー、八月の十八で決まりねー!』
だったもんだから。そんな、一回で当たってたまるか! ……じゃなくて!
 そんなことを言う奴が、後を追ってくることは考えにくい。
「どういうつもりなんだろう」
「分からないわね。また何か、二人して企んでるんじゃないの?」
「二人?」
「一緒に、梅原くんも戻ってきたって言ってたから」
「なるほど」
 ……そうなると、いよいよサブバッグが五体満足に返ってくる期待はしな
い方がいいかも知れない。中身は蛙か、爆薬か。はたまた、薫センスのデコ
デコバージョンにアップグレードされてくるのか。僕は明日の自分を想像す
る。手渡されたキラキラのデコられサブバッグを開いた途端、お尻に爆竹を
突っ込まれた哀しげなカエルと目が合うや、彼の強制メガンテに巻き込まれ
て砕け散る……そんなイメージに、重い溜め息を吐いた。やれやれ。
「しょうのない奴らだな」
 けれど正直、楽しみも半分だ。いったいどんな趣向で来るのか。そして、
リベンジはどうしてやろう? 僕の肩が小さく揺れるのを、絢辻さんは見逃
さなかった。
「……イヤじゃないの?」
 半ば呆れ気味に、彼女は、不思議そうな問いを投げてくるけれど。
「え? ああ、うん。まあ。見られて困る物も入ってないからね」
 梅原が一緒だったのなら、その安心は尚更だ。やつは僕のサジ加減を全て
理解しているから、たとえ何かまずい物が入っていても「それは見ないでや
ってくれっ!!」と、薫を堰き止めてくれるだろう。そしてその梅原に見せ
られないものなんて……絢辻さんの可愛いところくらいなもので。他に思い
当たることはない。そんな仲だ。
「予想もつかないじゃないし。だったら、心の準備も出来るしね」
 『一番威力のあるパンチってなんだかわかるか? それは、見えない角度
で飛んでくるパンチだよ』。傑作ボクシング漫画、『ファーストステップ』
の一節だ。だからまあ僕にとっては、絢辻さんがクロスレンジから繰り出す、
言葉と思想のデンプシー・ロールの方がよっぽど怖い……というのは、言わ
ないでおこう。今出されたら、死ねる。
「そっか。あなたたちは、そういう関係なのよね」
 絢辻さんは僕のバカな妄想には気付かずにいてくれて、よいしょ、と自分
の鞄を肩にかけ直した。
「……そうなのよね」
「絢辻さん……?」
「あたしもそうだったら、こんなことで煩わなくても済んだんでしょうね」
「あ……」
 ファミレスの、わざとらしい電飾を見上げて、絢辻さんはさっきまでの出
来事を懐かしむような目をした。
「普段から仲良くしていて、ときにはお互い助け合えて。友達に祝ってもら
える。それで、十分なはずなのよね」
 いつからか絢辻さんは、薫や梅原のことを友達と呼ぶようになった。これ
はこれで、きっと進歩だ。それが心からのものなのか、何かの打算や妥協の
結果なのか……それとも、そこに至るまでの段階の一つに過ぎないのか、そ
こまでは僕には分からないけれど、例えそうだとしても、その姿勢はいつか
きっと具体的に像になるに違いないと思う。
 ただ、今はまだ、その日ではないみたいだ。
「それを喜んで、ああ、ここでいいんだって思えるくらいなら、話は多分そ
れで終わるのよ」
 新しい自分の居場所を見つけだし、それまでの居場所を切り離す…………
きっと僕らの誰もが、いつか必ずすることだ。だけれど、絢辻さんの言うそ
れは少し、いや、全然、意味も、形も、重さも違うものだ。
「だけど、あたしはそれで終われないの」
 分かるでしょ? と、軽やかで滑らかな、オリーブオイルみたいな調子と
は裏腹に、絢辻さんの心にどっしりと根を張った十七年の戦いの記憶が見え
隠れする。それで終わらせてしまうことは、今日彼女の胸を吹き抜けた細く
て鋭いたくさんの風よりも、もっともっと恐ろしくて、虚しい気持ちを運ん
で来るに違いないということが、僕の胸をさらっていった。それは、絢辻さ
んにとって決定的な敗北を意味するに違いなかった。
「……いや、……うん。分かるよ」
「どっちよ」
 曖昧なのか、そうでもないのか。おかしな歯切れの悪さを残した僕の答え
を絢辻さんは、八の字に下げた眉からクスリと漏れた、糸のような笑いでか
らめ取った。そう迫られても、困る。説明しろって言われたら出来ない自信
があった。でも、分かるのかと言われたらわかってしまうから。さっきから、
それを表す言葉だけが見つからなくてずっと困ってる僕を、絢辻さんはお見
通しだった。
「ええっと……」
「いいわよ、もう」
 これだけあたしのことを知ってるあなたが、分かっていないわけない。そ
んな風に聞こえ、少し怒って、少し信じて、絢辻さんは体の向きを変えた。
僕は誇らしいのと同時に、胸を張れなかった自分に嫌気が差した。
「そうね。あたしはきっと」
 絢辻さんが何か言おうとした矢先、駅のロータリーに立った時計塔が、ぎ
ーん・ぎーんと高く震えるおかしなチャイムを鳴らした。これから先の時間
帯には騒音がどうとかで鳴らせないことになってるから、今のが今日鳴る最
後のチャイムだった。
 絢辻さんはここからは見えない時計を駅の方角へ振り仰ぎ、ほっとしたよ
うで、また何か大切な機会を失ったようで。顔の奥で、二つの心が絢辻さん
を取り合っているのが見えるようだった。
「……歩きましょうか」
 そして、釣られて同じ方をただバカみたいに見遣っただけの僕に弱々しく
囁きかけて、もう一度肩に鞄をかけ直し、
「これ以上、ここにいてもどうにもならないものね。あとは自分で何とかし
てちょーだい」
と、自分から言い出したことが徒労に終わってばつが悪いのか、振り払うみ
たいに芝居がかった抑揚に乗せた。
「そうするよ。付き合ってくれてありがとう」
「今後は気を付けなさいよね。あたし、あなたのお母さんまでやるつもりな
いからね」
「ははっ……面目ない」
「笑い事じゃないでしょ?」
 ほら、行くわよ--そのおなじみの文句を境目にして、僕らはまたしばら
く、言葉も交わさずに歩いた。というか、絢辻さんが押し黙ったままになっ
てしまったから、僕は相変わらず、言葉にならない絢辻さんへの思いを探し
続けながら歩くしかなかったのだ。



     *     *     *



 絢辻さんのつま先は河原へは戻らなかった。駅前大通りから一つ外れた小
路にレーンを変え、少し行ったところで、絢辻さんは唐突に振り向いた。
「ここでいいわ」
「えっ」
 ロケーションは商店街のはずれ、町並みがなだらかに住宅地へと変わって
いく、その境目辺りに差し掛かったときだった。スクールゾーンと大きく書
かれたアスファルトに立ち、僕に向けて手を突き出す絢辻さんを前にして…
…いつもならもっと、絢辻さんの家の近くまで。僕が遠回りをする恰好でつ
いていくから、予想より早い別れの訪れに、僕は面食らった。
「だって、まだ……」
「今日は、もう遅いから」
「だったら尚更」
「大丈夫よ。この辺りで、何か出たなんて聞いたことないもの」
 確かに、ここから先、絢辻さんの家のあるエリアは輝日東でも高級な部類
の住宅街で、空き巣狙いなんかはあるものの、痴漢・暴漢・かっぱらいの類
の、安い犯罪の噂は聞かれない。最近は時々変態紳士が出没するらしいけど
ね、と絢辻さんが冗談めかして笑うから、それは怖いね、今度手配書でも作
ろうか? と釣られておいた。
「はい、ここまでありがとう」
 四歩先の絢辻さんはさらに強引に手を突き出し、みんなからのプレゼント
が詰め込まれた紙袋を僕から奪おうとする。その立ち姿には勢いがあったけ
ど、決して自分から近寄って来ようとはしなかった。僕は僕で、まだ荷物を
手渡す気にはなれなくて、絢辻さんと荷物を交互に見たあと、袋を開いて中
を確認するふりをした。
「なにしてるのよ、ほら」
「うん……」
「怒るわよ」
 眉を鋭く釣り上げた絢辻さんは、これじゃあ、本当にまるでお母さんだ。
「あなたのお母さんまでやるつもりはない」なんて言いながら。そりゃあ僕
だって、絢辻さんの恋人であって、お父さんには……いや、どうだろう。絢
辻さんのお父さんをやるつもりは……ないかな? 本当は、なれるものなら
なって上げたいのかも知れない。すぐにでも、やさしくて、自由で、絢辻さ
んの全てを当たり前に喜んで上げられる、絢辻さんが夢に見るようなお父さ
んになって上げられたら、どんなにいいだろう。だけどそれは無理な相談だ。
絢辻さんも、それを望みはしないだろう。
「かえして……」
 絢辻さんの声がいよいよ本気の色を帯びたから、しぶしぶ僕も諦めるしか
なかった。僕はまだ、絢辻さんの問いに、何一つ、答えられていないじゃな
いか。こんな期待はずれを繰り返していたら、いつか本当に……こんな風に、
唐突な別れを突き付けられてしまうんじゃないかと不安に駆られる。今夜は
眠れそうにない。不甲斐ない自分に悶々としてしまうだろうなと--あの手
帳を焼いた日の晩のように--憂鬱になりながら。
 観念して、袋を閉じて顔を上げる僕の耳の片隅に、小さな引っかかりがあ
った。たった四文字の言葉なのに、かすれて消えた絢辻さんの語尾。その結
論が出る前に顔を上げると、飛び込んでくる絢辻さんの目が、まるで自分の
言葉に驚いたようにハッとしたものになっていて……その淵には光るものも
見えたから、僕も驚いた。
「絢辻……さん?」
 その急激な変化に、僕はもう自分の動きを止めることにまで頭が回らず、
おずおずと荷物を差し出しながら呼びかけていた。絢辻さんからは答えがな
い。過去にも味わったことのある、肌の粟立つ嫌な気配があった。胸に詰ま
ったままの、さっき本日最後のチャイムに阻まれた言葉が贈り物の袋を受け
取ることを拒んでいるみたいに動きを止めていた。自分が今、何を言ったの
か。言わなきゃ帰れない。そんな空気を感じて、そこで僕はようやく、荷物
を提げた手をだらりと戻した。
 言葉を待った。立ち並ぶ家々の中、夕餉の残り香もたなびいて消えかかり、
漏れてくる灯りのほとんどはバスルームの小さな窓からだ。芯を外した絢辻
さんの瞳に溜まったものがその影を含んで……もう、ごまかせないくらいに
なっていた。
「……そうね。あたしはきっと、」
 そこでまた、言い澱む。深い、深い谷底の間が……こんなこと、以前なら
死んでも認めたくなかったんだろうけど……そんな風に語りかけてくる。今
度こそ、彼女のささやきを阻むものはなかった。
「かえして、もらいたいのよ」
 返してもらう? 誰から? そんなことは決まってる。だけど、何を? 
託された紙袋の紐が僕のゆび先に食い込み、血が堰き止められて僕も呼吸が
詰まる。
「でもそんなこと、きっともう二度とないと思う」
 未来を見つめる絢辻さんの言葉は、確信に満ちていた。でも、本当にそう
だろうか、と僕は思う。今、彼女の胸の奥から出てきた言葉、一年前の絢辻
さんはそれを言う日が来るって知っているだろうか。どうして僕が今ここに
立っているのか、その秘密を知っているだろうか。
「絢辻さ……」
「ホントはね、わかってるのよ。『そういうもの』だってことくらい」
 誕生日。祝いの喜び。
 そりゃあ、そうなんだろう。だって、絢辻さんだ。たとえ知らない、わか
らないことでも、少しのヒントがあれば限りなく正解に近い答えを導き出す
ことが出来る。僕の知ってる絢辻さんはそういう人だった。だからこそ僕は
混乱する。その絢辻さんが本当に知りたがっているものは、一体何なんだろ
うって。
「だけど、知りたいじゃない? みんなの笑顔の内側は、一体どんな『気持
ち』が動かしてるんだろうって」
 絢辻さんは。
 一つ大きく息を飲み込んで、胸とお腹に、血と酸素を十分に送り込んだあ
と、喉に連なる筋肉を強く引き締めて、声にした。
 はじまりの、水と、土と。触れたことのないそれを、絢辻さんは知ってい
る。多分僕らの誰より研究に研究を重ねて、ああでもない、こうでもない、
だけどきっとああにちがいない、こうかも知れないと、自分の中で絶え間な
く姿像を変えるそれに思いを馳せてきたんだ。無数に浮かび、触れれば消え
るその姿に、抱えきれないアコガレを抱いてきた絢辻さんだから、
「それは……今のあたしには無いものだから」
だから、絢辻さんは家族を諦めなかった。そこから始まり連なる全てのもの
を、諦めることが出来ずにいた。
 今、やっとわかった。絢辻さんが知りたいこと。『そういうもの』と『気
持ち』を繋ぐものだ。お店を出てからこっちの全ての言葉と出来事が繋がり、
それにこの一年の色々が後押しをして、僕はようやく、絢辻さんの気持ちに
ゆび先をひっかけることが出来た。
 慌てて腕時計を見る。……飲み屋さんには時計をわざと進めてるお店があ
るって、父さんに聞いたことがあった。そうやっておくと、終電を逃してし
まうお客さんを減らせるんだそうだ。今日が終わるまで、まだ間がある。僕
は駅前のあのおかしな時計塔のチャイムに少しだけ感謝した。
 絢辻さんは今日、僕らが最初にもらったものと、生まれ日のお祝いの心を
繋ぐ糸が、自分の胎内を巡るねじれた歯車のシステムの中から欠け落ちて…
…見当たらないんだということに気が付いたんだろう。そのパーツを、「ま
た」作らないといけないということに。
 絢辻さんは言っていた。「自分がない」って。はじめは空っぽだったに違
いない絢辻さんのハグルマ・システムは、多分こうやって埋められてきた。
無いモノ知らないコト足りないナニカ、無い無い尽くしの心の中を、磨き上
げた頭脳と研ぎ澄ました肢体をおにぎり一つで燃焼させてときに奪い、とき
に教わり、ときに骨から削りだして手に入れてきた、そんな風に、どこまで
いっても本物になりきらない哀しい自分の中のシステムを、拗ねないで、諦
めないで。少しでもいいから本物に近づけようって、必死になって生きてき
たんだ。そんな誕生の瞬間に、僕がそばにいて上げないでどうするんだって、
千切れそうになるゆび先を、僕は必死で支えた。
「せっかくだもの」
「え?」
 ぽろりと、絢辻さんは少し不思議なことばで時間を繋いだ。
 落ち着きを取り戻したのか、ちょっとかすれた吐息混じりの呟きに、僕は
夕焼けの屋上で、絢辻さんに背中を貸したときのことを思い出した。「すっ
きりした」というあのときの言葉が清々しかった。
「せっかく?」
 その不思議な響きにとらわれて僕がオウム返しに呟くと絢辻さんは、よう
やく顔をあげた僕を釣り上げた魚のように。
「そ。せっかく、こうしてあなたと知り合えたんだもの」
 気が付くと、つんと地面を蹴った絢辻さんに……また一瞬で距離を潰され
て、僕は紙袋を奪われていた。声を上げる間も与えず、僕のゆび先ぎりぎり
に踏みとどまっていた手提げの紐を鮮やかにさらって、絢辻さんはまた僕の
手の届かないところにふわりと着地する。屈強でしなやかなふくらはぎが彼
女の生命線だった。
「え、あっ……」
「教わりたかったんだけど。……今日のところは、宿題かしらね」
 僕が言いよどみ、もごもごと、一つ一つ、十七年と九ヶ月、そして十六日
目の体にしみ込んだ全ての言葉を探して、体中をノックして回っているのを
見て、絢辻さんは残念そうな笑みを浮かべた。
「それにしても」
 僕から掠め取った紙袋のロゴを目の高さまで掲げ、
「……『ファミリー』レストラン、ねえ……」
絢辻さんは、しみじみ呟く。料理はレトルトだし、飲み物は色付きばかりだ
し。あれで一体、何のファミリーなのかしら……そこまで言って、心底可笑
しそうに……やっぱり、笑った。
「あたしが、人様のファミリー観を笑っちゃいけないわね」
 ……だめだ。やっぱり、宿題じゃだめなんだ。
 なにがそんなに可笑しいんだろう、絢辻さんは「まだマフィア映画の方が
見られるわ」って……そんな哀しい冗談に、僕はもう必死だった。この人を、
今の時間につなぎ止める方法を探すのに精一杯で、ろくな返しをするゆとり
もない。そんな強くて太い楔が、果たしてこの世にあるんだろうか。
 僕はきっと、心配そうな目をしてしまっていたに違いなかった。そして絢
辻さんはそれを素直に受け取る人じゃなかった。その視線に気が付くと、鉄
壁の胸を反らせ、なあに? と、いつか見た覚えのある強がりで反発する。
「また、説明できる自信がついたら聞かせてちょうだい? やっぱり、今日
はもう帰りましょう」
 これ以上遅くなったりしたら、明日また棚町さんに何を言われるか。絢辻
さんはそう言って普段の顔に戻ると、くるりときびすを返して、歩き出して
しまった。何故だろう。その絢辻さんの背中の向こうに、沢山の書架が見え
た気がした。薄く空を覆うオレンジ色の光、深い焦茶色の風景がオーバーラ
ップする。図書室。涙。引き裂かれるノートの音。
 そんなの、だめだ。だって今日は……
「あ、絢辻さん!!」
 僕は呼び止めた。絢辻さんを。
 今日は、誕生日じゃないか。絢辻さんの誕生日じゃないか。こんな気持ち
で帰しちゃ絶対にだめなんだ。そんな自分の気持ちばかりだったけど、呼び
止めた。
 叫びに近かった僕の声に革靴のつま先をつんのめらせて、僕から離れた数
メートル、絢辻さんは足を止め、何よ、どうしたの? 早くしなさい、と、
ところどころ白くなりつつある息を言葉に吐きながら、僕を促した。
 それでも、だめだ。今日ばっかりは譲れない。
 これまで作り上げられてきた、絢辻詞ご謹製、フルスクラッチのハグルマ
・システム。彼女の曲がった釘を直すこと、それは僕の役割だ。たとえそれ
が、彼女の心臓に打ち込まれたはじまりの歯車であったとしても……その役
どころだけは、もう誰にも譲れない!
「……ねえ、絢辻さん」
「はあい?」
 からかうような、絢辻さんの声。
 俯いて、僕は一度だけ深い息をつくと、気持ちと調子を落ち着けた。あの
軽やかなふくらはぎに今度は逃げられないように、慎重になる必要があった。
といっても、僕みたいな不器用者に出来ることなんか、たかが知れてる。
「……もうちょっとだけ、どこかで落ち着いて話せないかな?」
「えぇ?」
 僕に出来る、最大限の抵抗だ。リングコーナーに追い詰める手だてもない、
華麗な誘い水も、カウンターを打ち込むセンスもない。ただただ、最強のチ
ャンピオンがリング中央で応えてくれることを信じて、踏み込み、拳を振り
回すことしか僕には出来ないんだ。時計塔がくれた制限時間は十二ラウンド。
その間に答えを、せめてヒントだけでも言葉にして、絢辻さんに伝えたかっ
た。
「そんなに難しく考えなくても良いわよ。時間ならあるんだし」
「だけど、それじゃあ……」
 僕の気が済まない。
 それ以上に、絢辻さんに間に合わない。
 今、このまま帰したら、絢辻さんはきっとあのプレゼントの本当の価値が
わからないままだ。
 その答えが絢辻さんの欲しいものなら、それを、僕からの、
「それに、もうこんな時間よ? 落ち着いて話せる場所なんか……」
 ……それを、絢辻さん。君の、十八歳の誕生日の贈り物にしたいんだ。
 大人になった君に、
 ずっと大人になりたがっていた君に、
 本当の誕生日を贈りたい。
 面を伏せて無言の僕に、絢辻さんは逡巡まじりの視線を細い手首に巻いた
腕時計にちらり落として、
「あ。でも……」
と、ほとんど同時に、僕と同じ結論に至ったみたいだった。
「『あのお店』なら、まだ大丈夫なんじゃない? ……かな」
 それを言おうとして、言いたくなさそうな絢辻さんを制して僕が先んじる。
僕は、自分がようやく笑えたのを感じて顔を上げた。
 やっぱり、まだ帰したくない。このまま。
「うーんん……気持ちは嬉しいけど、あたしにも……。え……?」
 その時僕は、どんな顔をしてたんだろう? 絢辻さんはまだしぶしぶで、
鞄や、紙袋や、時計を確認する仕草で何かの理由を探していたはずだった。
けれど、僕を見た途端……乗り気でなかった目が、なんだか急にやさしい、
丸みと、上気した熱を帯びた気がした。
「……絢辻さん? どうかな」
「えっ? ああ……。……そう、ね……」
 一瞬、我を失ったようになっていた絢辻さんは、僕の呼びかけになんでも
ないなんでもないと、なんだか妙に深く息をついた。心もち朱の差した頬を
膨らませ、まだ何か考えているのか、躊躇いがあったのか、答えをもらえる
までには間があったのだけれど。僕は、その時間も不思議と不安に感じなく
なっていた。絢辻さん設えたのその時間が、とてもそわそわしたものだった
からだ。多分、答えは決まっている。そんな気がしていた。
 やがて、
「しかたないわね」
 その約束された手続きを終え、絢辻さんはわざとらしく溜め息をついて見
せてくれた。
「いいわ。付き合うわよ」
 腰に手をやる、そのいつもの調子に僕もほっと息を吹き返す。
「良かった、ありがとう、絢辻さん!」
「大袈裟ね。ただし、お茶代は全額あなたもちだからね」
「ははっ、お安いご用だよ! じゃあ、行こうか」
 その実、僕の財布もスタミナ切れ寸前だったけど、今はそんな場合じゃな
い。彼女は猫だ。だから気が変わる前にと、僕は慌てて風向きを変える。こ
の先、落ちてくばかりの窓灯りに背を向けて、今再び、僕らは街へと針路を
変えた。
「本当、たまに強引なところあるわよね……あ、じゃあコレ。またお願いね」
 すーっと、背中に近づく気配がすれ違いざま、
「ぎッッッッ!!?!???!」
ずしりと、すり切れた指先に感じる重みと切るような痛み。何の前触れも無
しに、また僕に紙袋が手渡された。しかも今度は、カ、鞄まで!? ほとん
ど火傷みたいになった関節に、無造作に落とされた手提げの縒れた紐が食い
込んで、僕は油の切れた自転車みたいな声で鳴いた。
「あ、が、わ、渡すなら先に言ってよ! 僕、今、指が……」
「黙りなさい。罰よ、罰!」
「ば、罰って何の!? 僕なんにも……!」
「うーるーさーい! 四の五の言うんなら帰るわよ!」
「そ、そんなのダメだよ! ずるいよ! 待ってよ、絢辻さん!!」
 彼女の先に立てた気になったのも、ほんの束の間。颯爽となびく黒髪に追
い越され、僕はまた、見慣れた背中を追う羽目になる。だけど、それでいい
んだ。物言わぬ背中を見つめて、その気持ちをくみ取れるのは僕だけだ。
 家族を見つめるその眼差しと、うつろなカボチャへのシンパシーと。到底
辿り着けないと思っていた絢辻さんの抱いた幾つかの疑問、その姿は、僕の
中でくっきりと像を結び始めている。あとは細く繋がる謎めいた糸で、残っ
た時間でどうにかこうにか、絢辻さんの隙間を埋める歯車を作ってあげるの
が、……僕の、恋人としての本日のお仕事だ。
 それと、僕にも訊きたいことがある。罰って、なんだよ。それにどうして
今になって、絢辻さんがその答えをこんなにも欲しがったのかということが、
今の僕には分からなかった。
 けれどその問いかけもまた、
「ねえ、絢辻さん。ちょっと訊きたいんだけど……」
「いいから、早くなさい! お店が閉まっちゃうでしょ!」
……そんな風にはぐらかされる。
 乗り気じゃなかったはずの絢辻さんはほとんど小走りで、ちょっと声を張
らないと届かない。
「分かったよ、じゃあ、あとでね!」
 ぴんぴんと元気なアキレス腱が、疲れを知らずに体を運ぶ。絢辻さんも本
当はやっぱり、今日という日が残り少ないことを気にしていたのが嬉しくて、
僕も釣られて足を速めた。
「ああ、あとそれ! 落っことしたら、一生祟るからね!」
「え!? そ、そんな怖い物もらったの!?!??!」





                           (まだ続く)




 

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