« ■心のボディの在処 -更新第372回- | トップページ | ■ブルジョワとコレステロール -更新第374回- »

2009年12月13日 (日)

■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・1> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第373回-

前編 / 後編その2 / 絢辻さんSS目次


青い青い夜の闇に風が巻き、星の光が尾を引いた。
僕らを包んだ冬の気配、ちゃりちゃりと冷たい水の音さえ息をひそめ、
泣き出すような絢辻さんの問いかけに、
輝日東川は知らぬふりを決め込んだ。



  --ねえ、教えて? あなたはわかる? あなたなら、わかるでしょう?



思えば、はじまりも誕生日のお祝いだったんだ。
それは世界で一番有名なバースデイ。

一年前、絢辻さんはそんなお祝いに便乗した。
世界が喜びに沸き返り、愛と幸せの叫ばれる夜に、
自分も幸せになれるかもって、そんな風に思ったんだ。
自分で設えた幸せに、ほんの少しのおすそ分けをせがんだ。

そして、それは現実になった。
おめでとう、おめでとう、おめでとう。
お誕生日おめでとう。

その虚ろな喜びの呪文が、一年の時を巡ってふたたび彼女に牙を剥いた。
新しい、重くて大きな疑問へと膨れ上がっていた。
謂われのない因果応報?
違う、罰が当たったんだ。
無闇に叫んだ、訳も分からず、その気も浅く、
おめでとうなんてふれて回った、罰が。

友達に囲まれた、夢のように温かなオレンジ色の灯りの中、
テーブルに降り立った神様は彼女に言った。

「もう一度、よく考えてみると良い。
 祝うということの意味を。
 心ない祝いの、その罪の深さを」

彼女を襲ったのは、心を射抜く、虚ろな喜びの針の穴。

その日、絢辻さんは「的」だった。
放たれるすべての矢は、あやまたず、悉く、彼女の真芯を捉えてくれた。
誰もが笑顔で、とびきりの心で。
それなのに。
絢辻さん自身が、的になりきれなかった。

蓮の茎の心を、矢はひゅうひゅうと無情にすり抜けていく。
それを見送る悲しみに、また--絢辻さんは、耐えられなかった。
「決して振り向いてはいけませんよ」の声に、絢辻さんが素直に従うわけがなかった。

  うるさいわね、放っておいて。
  好きにするわ。
  自分の好きに。

立ち止まり、振り返る体に、細く結んだその拳。
髪と、瞳と、ハートと。
全てを飲み込む鴉色の三つ揃えは、彼女の戦闘ユニフォームだ。
自分の中心から吹き荒んでくる風に長い髪を遊ばせ、
きりりと強い瞳は退くことを知らなかった。
知りたい。
近づきたい。
だから僕に、僕だけに、戦いを挑んで来るんだ。



「今日集まってくれた皆は何を……あたしの、一体何を喜んでくれたのかしら?」



……僕たち、これから何度、こんなことを繰り返すんだろうね。
だけど、いいよ、絢辻さん。
受けて立つ。
あんまり僕を過大評価されても困るんだけど……
分かることには答えるし、知ってることは出し惜しみなしだ。

それより先は、二人で見つけていこうじゃない。
君は反対するだろうけど……のんびりいこう。
これから先、何十回と続く、僕らの誕生日を全部使ってでもさ。






     *行動を、決定……してしまうのですか?  ×






          -- 1 --



「そ……」
「そ?」
 背中から胸を抜けて口を衝きそうになる言葉を、僕は慌てて押さえ込まなければならな
かった。それは、一番言ってはいけないこと……絢辻さんを一番苦しめる言葉だと分かっ
ていた。それなのに、
「『そ』。……何かしら?」
 聡明すぎる僕の恋人は、僕の奥底に澱りる物も、そして一番簡単なその答えを飲み込ん
だ僕の気持ちも、瞬きひとつで見通した。
 いつもなら、僕を読み切ったことの快感に、愉悦に満ちた悪の眼差しに変わるその瞬間
も、哀しい物を見るような、すまない気持ちであるような、「仕方ないわね」と、子供の
頃を懐かしむ母親の、切ない笑みを浮かべた。
 --そんなの、当たり前のことじゃないか--
 考えたこともなかった。お誕生日、おめでとう。誰かの生まれ日には、笑顔でそう言っ
て喜び合う。そういうものだと思っていた。だけどそれは……そんなものでさえ。
「だけど……なんなのかしらね」
「今日集まってくれた皆は、一体何を、」
「あたしの、一体何を喜んでくれたのかしら?」
「ねえ、教えて? あなたはわかる? あなたなら、わかるでしょう?」
 ……絢辻さんには、遠かった。
 それは、僕らの心には当たり前に敷き詰められたよく肥えた土のようなもので、そこに
種が落ち、雨が降って、僕らの心は、邪魔くさくて賑やかな系に出来上がる。
 家族。
 けれど、最初の最初、はじまりにひと掬いの土を、そして如雨露一杯の水を、あたため、
注いでくれたのは誰だったろう。あんまりじゃないか。彼女を授かって以来の十七年、い
や、十八年間。あなた達は一体、何をしていたんだよ!?
 ……いつの間にか、僕は腹を立てていた。こんなにくっきりとした怒りを自分の中に感
じるのはいつ以来だろう。何をやってるんだ、僕は。好きな人の大切な日に、こんなに怒
っているなんて。
「あれっ?」
 不意に、絢辻さんはさっきまでの深刻な調子を失って、角の落ちた、素っ頓狂な声を上
げた。不思議そうに見開いた目で、つま先からてっぺんまで僕を眺め上げ、
「あなた、サブバッグは?」
と、呆れた調子で腕を組んだ。
「え?」
 学生鞄に入りきらない大荷物を入れるための、学校指定の、サブバッグ? 例えばジャ
ージとか、副教科の教材とか、部活をやってる奴はその道具とか。……お宝本とか。ビデ
オとか。だけど、
「僕、今日、サブバッグなんか……」
 今日の時間割に体育はなかったし、三年生の今の時期、そんな大がかりなことをやらせ
る副教科もない。……お宝交換会も、今日はやってないし。僕がサブバッグを持ってくる
理由なんか、特に見当たら……あ。
 パンパカパンと開いた僕の口を見て、絢辻さんはいよいよ、呆れた唇から糸のような息
を漏らした。そうだった。パーティのための幾つかのグッズと、絢辻さんのプレゼントが
鞄に入り切らなくて……無理をすれば詰め込めたのだけど、包みがしわになったり、折れ
たり曲がったりするのを嫌って、確かに僕は今日、サブバッグを提げて来たんだった。そ
の、たった一つの包みのために。
 だけど今、僕の右手には学生鞄、左手には、みんなからのプレゼントが詰め込まれたJ
oesterロゴの紙袋がずしりと重い。あの頑丈さだけが取り柄のぶかぶかしたいんち
きレザー風合いのサブバッグは影も形も見当たらなかった。
 あー……。と、僕が戸惑いの息をもらす間にも、絢辻さんはもう一つ息を吐き、
「ほら、行くわよ」
どうせお店でしょ、と僕の横をすり抜け、もと来た道を辿り始めるから。僕は慌てた。
「い、いいよ絢辻さん。もう遅いし、場所は分かってるんだし。明日の朝でも、帰りでも
……」
 そうしたら、既に十メートルも先にあったはずの背中はぴったと足を止め、つかつかっ!
と一瞬で、その距離もなかったことにした。一体、どんなフクラハギをしてるんだろ? 
今度、さわらせてくれるように頼んでみよう!
「あなたねえ」
 険しいのか哀しいのか、ギュッと寄せた眉の根を、僕の眉根に近づけてきた……わわわ。
近い、近いよ絢辻さん。
「明日の授業の時間割、把握できてる?」
「明日? 明日は……」
 ジャージが、要ったかな……。体育があったような。斜めに逃げた僕の視線で察したの
だろう、僕が曖昧な記憶を声にするより早く、
「そういうことよ。はい、転身。前へ進め!」
と、絢辻さんは、またもするりと背を向けた。
もうすっかり見慣れてしまったその背中は、頑強で、鉄壁で、まるで一つの要塞みたいだ
った。



     *       *       *



 てくてくと。
 こともなげに踵を鳴らす絢辻さんは、さっきまでの重い空気もどこへやら、何も言いは
しないけど、その無言は落ち着いた物に変わっていた。鼻歌でも出てきそうな頬で、夜空
を見上げている。
 さっきの、時間割の話じゃないけれど、この人は一体どこまで先のことを頭に入れて生
きているんだろう。……そういえば「あのとき」も、絢辻さんは言っていた。
  --あーあ。三年間、このままいけると思ってたんだけどな。
 ちょうど二年と半年の昔、僕らが初めて輝日東の門をくぐったそのときから、絢辻さん
にはきっと、三年後の姿が見えていたに違いない。そのとき自分がどんな顔をしてこの門
を出ていかなければならないのか、そんなことまでピシリと思い描いて、その先まで、そ
の先までって、強く気高い目標に、やがて爪が当たり、ゆび先がかかり、手のひらに握り
込んで、そして胸に抱くそのときまで。
 その時はそのことだけが、新しい爪のような絢辻さんの心のたった一つのよりどころだ
ったんだ。今の幸せを未来に預けるしかなかった、絢辻さんの。
 来年。一年前。大昔、誰かが手すさびにハンカチを広げたその時から、時間は続き、途
切れることがないことを、聡すぎた絢辻さんはどこかの何かで気付いてしまったんだろう。
過去も、未来ですら、絢辻さんにとっては今がほつれた先にある、現在の一部になってし
まったんだと思えた。
 そんな遠い時間さえ手中に収めた彼女にとって、たかが一年、昨日の続きの敷居をまた
いだところで何の感慨があるだろうって、僕は想像してみる。ひとりぼっちの糸をたどっ
た先に、志した約束の自分を手に入れて、更にその先、その糸の先に結わえてある物って、
なんだろう。
 広い広い広い真っ白な広間に、音もなく、ただひたりと地に途切れた糸の終端を掌に見
つめて、何を思うだろう。
「いつ頃からかな」
 そのとき、夜空に星の隙間を見つけて絢辻さんが僕に言った。
「誕生日を嬉しいと思ったことなんて、なかったわ」
 そんな言葉に、なんて返したらいいかなんて、僕には分からない。良くないとか、おか
しいとか。昔みたいに言える言葉は幾つかあった。けどもう、衝突が怖いわけじゃなかっ
たけど、そんなことをしても何にもならないから、黙っていた。
「……っていうのは間違いね。嬉しいは嬉しかったのよ。貯金は増えるし、ああ、また一
歩大人に近づいたんだって思ってた」
 答えることこそ出来ないけれど、その先がそっくり予想できてしまって、どっちにして
も僕は黙っているより無かった。多分絢辻さんも、僕に何も言って欲しくなくて、こんな
風に話を運んだんだろう。
「この家を離れられる日に、また一年、近づいたんだなって」
「……うん」
 本当に、何があったんだろう。絢辻さんと、家族と。
 そんな、過去も未来も手にいれた、けれど、その狭間に散りばむあらゆる喜びを失くし
た絢辻さんを作り上げたもの。それは、僕らにはじまりの土と水をくれたのと同じ存在の
はずだった。なのに彼女が受け取ったのはなぜか、大きくねじくれた、不思議な形の歯車
ひとつだった。
 僕には疑問もあった。絢辻さんはどうして今、家族を諦めることをしなかったんだろう
って。
「よく我慢した、あたし! ……って、ずっと思ってたわ。うしろ向きな喜びだけどね」
 いつもなら、ただ黙って聞いていれば良い話だった。
 絢辻さんは求めない。このわだかまりについては、僕に何かを求めているわけでないの
を、僕は知っていた。ただ、知って、受け止めて、その上で絢辻さんを受け入れる。そん
なことだけを彼女が求めているんだってことも。
 だけど、
「ねえ、絢辻さん。聞いてもいいかな」
「え? なに?」
 今日ばかりはそうもいかないなと思っていた。理由はわからない。でも、それを超えな
いとさっきの質問に答えられないということだけ分かっていたから、驚いた顔を少しだけ
のぞかせた絢辻さんにも気がついていたけど、敢えて見ない振りをした。
「……それって、いつ頃から?」
 ひとつまみ、の沈黙がさらりと訪れて、時間の流れをいつもと変えていった。彼女が逃
がした目線に、戸惑いと、冷静さを残した思考が見え隠れして、僕は安心した。分かって
もらえたみたいだ。絢辻さんは夜空を見上げていた瞳を俯かせ、二、三度小さく頷いて、
「ごめんなさい。あんまりよくは覚えてないわ」
と、比較的、素直に教えてくれた。
「そっか」
「でも、前に少しだけ話したことがあったでしょう? まがい物の、指輪のはなし」
「ああ……あの、強烈な……」
 いつかの帰り道、この河原で、唇のすさびに絢辻さんが話してくれたことだった。偽物
でもいい、幼い誕生日に大人が身に付けるようなアクセサリーを欲しがった絢辻さんに与
えられたのは本当にただのおもちゃで、愕然とした彼女はそれを河に投げ棄てた。そんな
話だ。
「そんなに強烈だった?」
 照れくさそうに笑って、絢辻さんは
「あの時にはもう、そうだったから。まあ、気持ち的にはまだ半々だったはずだけどね。
だから、小学校に上がる位じゃないかしら」
と続けた。
 今こうして思うと、そのときの絢辻さんの気持ちも、そして両親の、その絢辻さんの気
持ちを知った上でそうした絢辻さんのご両親の気持ちも僕にはなんだか分かる気がした。
早く大人になろうとした絢辻さん。そしてもっともっと、出来ればいつまでも、子供でい
させたいと願った、お父さんお母さん。
 分かり合えない二つの心はゆび先で衝突して、冷たい水底に今も眠ってるんだと、絢辻
さんは言ったんだ。
「あ、こっち」
 絢辻さんが指を差すから、僕もそれに従って針路を変えた。このまま真っ直ぐ川沿いの
道を行ってもそのうち大きな橋のある通りにぶつかって、それに沿えばやがて駅前に出る。
実際、ここまではずっとこの道で来たし、普段ふたりで駅に出るときもその道なのだけれ
ど。
 川を外れると、遠く、これから向かう駅前通りの方からざわめきが伝わってくる。輝日
東は決して都会じゃないから、このくらいの時間になると町は少しずつ眠りに落ちていく
のだけれど、それでもまだちらほらとオレンジ色の光がたちのぼっては揺らめくのが、ビ
ルや木々の陰から見て取れた。絢辻さんがいんちきなジュエリーを河に投げ込んでいた頃、
僕はそのビルの中にあったおもちゃ屋でロボットを二つ欲しがって、父さんを怒らせてい
た。そんな頃のお話なんだ。やっぱり、強烈だ。
「そんな前からなんだ」
「うん。それでね、そんなこともあったし、」
「絢辻さん、前」
 通りから折れてきた軽が一台、舗装のいい加減な道路に車体を弾ませながら向かって来
る。二人並んで、身を少しだけ横に開いて広くない道を譲ると、一瞬だけ、ヘッドライト
を浴びた絢辻さんの横顔に、黄昏とも月明かりとも、そしてあのお店の照明とも違う影が
しみ込んで。……なんていうのだろう、絵本のような哀しみが、薄い、本当に薄い、一枚
の肌の下に満たされているのが見えた気がして……僕は、絢辻さんを抱きしめたくなった。
 行き過ぎた車のナンバープレートを二人してなんとなく見送ると、僕らはまた歩き出し
た。
「それから?」
 けれど、絢辻さんの話はそこで立ち止まってしまった。
 しまった。……そう思ったのは、促してからもう何歩か進んだあとのことで、ひとつ、
ふたつと何かを数えるように、絢辻さんの背中は、ひどくゆっくりと上下していた。何か
を話そうとしてくれている、それは伝わってきたのだけれど、どこかで背骨が鍵を掛けて、
上がってくる言葉を押し戻しているみたいだった。
 向かう先に直交して流れる通りから、走り抜ける車のヘッドライトやネオンの幾条かの
光が束になり、見たこともない色になって足下へこぼれてくる。OL風の女性が一人と、
スーツ姿の男の人が一人、通りからその光に押し出されるようにやってきて、すれ違った。
みんなもう、家へ帰る時間だ。その優しげな光も、自分の形の影に切り抜いて遡上してい
く絢辻さんの背中の中心は影に染まって、まばゆい物にも、寒々しくも見えるから不思議
だった。
「要するに、わかっちゃったのよ」
 やおら開いた、さっきまで素直さの勝っていた口から出る言葉には、いつもの、常に少
しの辛辣さを忘れない調子が戻ってきていた。
「あの人たちは、何も、あたしのことを喜んでくれているわけじゃないんだって」
「そ、そんなことないんじゃ」
 すっ、と。
 肩越しに、浅く振り向いた絢辻さんの視線に釘打たれて、僕は口をつぐんだ。そうだ、
これは僕がとやかく言う問題じゃない。これだけは。真実は絢辻さんの心の中にしかなく
て、数字や空気を持ち込めることじゃなかった。
「ごめん」
「色々な形があるものよ?」
 フフッと、素直すぎる僕にすまないと思ったのか、一つ口元と眉をほころばせた子供を
あやすようなその調子に、僕の胸は痛んだ。以前だったら、「あなたに何が分かるの?」
とはね除けられるところだ。絢辻さんが分からないことを知ろうとするように、僕も知ら
ないといけないんだと、絢辻さんは教えてくれる。
 けれど妥協をすることもなしに、彼女は強い話を続けた。
「わからないのね、あの人たちには。あたしの人生の全てが自分たちの物じゃないってこ
とが。あの人たちにとっては、あたしの人生も自分たちの時間の一部にしか見えてないの
よ」
 本当に言いたいに違いないことから幾つかの断片が切り落とされて、絢辻さんの言葉が
フラクタルな渦を巻き始める。その意図的な隠匿は、知って欲しい、だけど教えたくない、
そんなアンビバレントな彼女からのメッセージで、僕の頭で拾い集めることが出来た切片
は、絢辻さんのお父さんとお母さん、彼らが娘の誕生日を喜ぶのは、絢辻さんの喜びのた
めじゃなく、自分たちのためなのだということ。娘が自分の人生の歩みを進めたことじゃ
なく、彼ら両親の思い描く物語が順調に進んでいるからなんだってことぐらいだった。そ
れは決して、彼女にとっての祝いと呼べる物ではなかったということ。
 そしてもしかしたら、……絢辻さんのお父さんとお母さんは……彼ら自身ですら、自分
たちが自分たちの物語の主人公ではないと自覚しているんじゃないかっていう、会ったこ
ともない二つの人生のかなしみが、頭を掠めた。
 きっと。絢辻さんがそのかなしみの気配を察し、自らの道を歩き始めてしまった頃から、
その祝いはいつしか、形だけのものへと変わっていったのだろうということが、こんな僕
にも想像できた。
「そりゃあね?」
 限界を超えて頭を回す、僕の間を見計らうように、絢辻さんは色々な物の整理を胸の奥
の方で終えつつ、今の自分の気持ちと過去の自分を照らし合わせた結果を、一つ一つ、間
違いのないように、丁寧に言葉に変えていく。
「腐っても家族だもの。何もかもを切り離すことなんて、出来っこないってわかってる。
お互い、幾らかずつを差し出し合うのが当たり前だって、あたしだって思ってるわ」
 懐かしむような面差しとは裏腹に、声のトーンは重くて深い。そして、
「でもね」
と口にしてから。
 次の言葉が出てくるまで。
 呼吸を止めた世界の中を、一歩、二歩、……次第に重みを増す足取りはとうとう止まっ
てしまい、俯いた唇からこぼれた言葉は、溶けた鉄のようだった。
「全部は……上げられないわ」
 あの人たちが全部を要求して譲らないなら、あたしも黙って食べられるわけにいかない。
 そうか。絢辻さんは、お祝いをしてもらったことがないのだと、おめでとうの本当の意
味を知らないのだと、その本当の意味さえ分からず、もう僕からは何も言えなくなってし
まった。
『あたしとあなたはちがうの』
 ひとりぼっちの校庭で、孤立無援に戦おうとしたときの絢辻さんの言葉が甦る。その通
りだと思う。僕だって、絢辻さんじゃない。だから何も分からない。だけど、だからこそ、
絢辻さんは僕に希望を見出すんだ。絢辻さんの何もかもを分かってしまったらもう、本当
に何も言えなくなってしまうから。探さなくちゃ。絢辻さんのためにも、僕が僕であるた
めにも。
 ぐっと拳を結んで、足を止めてしまった絢辻さんを、僕は二歩、三歩、追い越して振り
返り、
「絢辻さん」
重たい物を抱えたまま、そのまま沈んでいってしまいそうに足下ばかり見つめている彼女
の名前を呼んだ。
「行こう」
 駅前通りは、もう目の前だった。何メートルもない。ざわめきと町灯りが、手の届く距
離で右から左へ、或いはその逆へ流れていく。
 絢辻さんの思考が目詰まりを起こすことは珍しくて、この一年、ずっとそばで見てきた
僕も数えるほども知らない。だけどそんなときは、決まってこのことが関係していた。家
族のことを思い始めると、超高速で巡る流れは長い時間を掛けて堆積した澱みに引っかか
って堰き止められ、行き場を失った奔流に、こころが決壊を起こすみたいだった。だから、
そうなる前に。
 絢辻さんは顔を上げ、僕の背中から差してくる町の灯に、少し眩しそうに眉をしかめた。
「ほら」
 大切な、彼女から預かったみんなの贈り物の入った紙袋をガサリと持ち上げて、僕がも
う一度促すと、
「なによ」
と、絢辻さんは背筋を伸ばし、不服気に唇をゆがめて見せるのだ。
「あなたの忘れ物なんだから、さっさと行って、取ってくればいいでしょ?」
 もう目と鼻の先なんだから、と漏らしながらも、彼女の足がスタスタ前に出る。せっか
く差し伸べた手もスルーされ、僕はまたあっという間にその背中に追い越されてしまって、
小走りに追いかけた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! だから僕、明日でもいいって言っ……」
「いいわよ、もう! ここまで来たんだから、最後まで付き合って上げるわよ。ほら、は
ーやーく!!」
 光と影の境界線、そこでやっと追いついて、テープを切ったのは二人ほとんど同時だっ
た。僕らの瞳に空いた小さな隙間に、白と橙、流れ込んでくる光は量が多すぎて、僕らは
頭を真っ白に飽和させながら、メインストリートに踏み出した。



                       (その2に続く



 

|

« ■心のボディの在処 -更新第372回- | トップページ | ■ブルジョワとコレステロール -更新第374回- »

アマガミ」カテゴリの記事

ゲーム」カテゴリの記事

創作」カテゴリの記事

手帳の中のダイヤモンド」カテゴリの記事

絢辻さん」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/55967/32599908

この記事へのトラックバック一覧です: ■ハッピー・バースデーがきこえる<後編・1> ~手帳の中のダイヤモンド・番外編 -更新第373回-:

« ■心のボディの在処 -更新第372回- | トップページ | ■ブルジョワとコレステロール -更新第374回- »