« ■知力・体力・ラヴ通信 -更新第302回- | トップページ | ■記録的、敗・北~嘘を吐いても、震えたままでも・2 -更新第304回- »

2009年9月 8日 (火)

■手帳の中のダイヤモンド -16- 第六部 PRE STORY(1) -更新第303回-


 少しずつ深まってきた秋を感じながら、僕はいつものカフェテラスで
時計に目をやった。時刻は午後四時を少し回ったところで、約束の時間
を一時間近く過ぎていた。でも、これはいつものことだ。水曜日、講義
か実習かの都合で、絢辻さんのスケジュールは一定しない。だから彼女
はそこのところを見越して、
「別に、一番遅い時間に合わせたっていいのよ?」
と言ってくれるのだけど、待つのは別に苦にならないし、貴重な絢辻さ
んの時間を潰させるのは気が引ける。だから僕はこうして、秋風に吹か
れて一人、お茶を飲むことになる。
 絢辻さんは、
「そう? 悪いわね」
とも言いはするけど、それ以上の遠慮もしなければ、要求もない。もう
随分長い時間一緒にいるから、お互い……分かっているのだ。何が? 
と尋ねられたらハッキリとは答えられないけれど、強いて言うなら、相
手のことが。
 見上げれば、もう何度目になるだろう、秋の空は高くて遠い。どうし
てあんなに高く見えるのだろう? 夏の方がその青は深く、ストーンと
突き抜けているように見えるのに、淡い色の秋の空は、深くはないけど、
高い。薄い雲が少し不安そうにたなびいている。風はそぞろに向きを変
えて、照ったり曇ったり、今のところ雨の気配はないけど、ここに座っ
てからせわしなく機嫌を変えていた。そういえば、秋の空と同じくらい
変わりやすいのは……何だったっけな?
 大学に入ってしばらくしてから持った携帯電話。絢辻さんはああいう
人だから、無駄な連絡やメールも寄越さない。今日も特に、連絡はない。
出がけに一言だけ、
「今日はもしかしたら、いつもよりちょっとだけ遅くなるかもだから」
と言っていたきりで、それも多分、要領の悪い同回生と組むローテーシ
ョンにあたるからなんだろうと想像はつく。家でもたまに、
「大体、終わりの時間が読めないなんてのは、キチンと手順と自分の作
業時間を把握できてないからなのよ」
なんて、僕自身にも耳の痛い愚痴をこぼしていたから。
 耳元でひゅうと音がして、冷たい風が吹いた。嫌な予感に見上げると、
西の方から、ちょっとだけ色の濃い雲がお腹を空かせたむく犬のように、
じりじりと這い寄ってきているのが見えた。
「もしかして、降るかな……」
 今や僕には、絢辻さんのことよりも天気の方がよっぽどわからない。
昔は違った。出会った頃の絢辻さんは、僕には分からないことだらけだ
った。
 家族のこと。
 目標のこと。
 手帳のこと。
 なんで、猫なんてかぶっていたのか。
 今でだってはっきりと分かっていないことはいくつかあるけれど、そ
れはもう、僕らの間では大した問題にならない。それらのことが、今の
絢辻さんにどんな影響を与えているかということだけが分かっていたら、
それでいい。
 絢辻さんが分からない……か。
 懐かしくさえある感覚だ。
 ……そういえば、こんなこともあったなあ。もう、誰も憶えていない
だろうけど。
 ……。
 四時十分。この時間に来ていないということは、絢辻さんがここに来
るまで、もう半時間はかかるだろう。
 それじゃあその間、ちょっとだけ昔のことを思い出してみようか。
 あのときには語られなかった、一つの事件。
 僕しか知らない、絢辻さんの、かえりみちの物語。





      *行動を決定しますか?  ×





      *     *     *





「え、塚原先輩、おられないんですか?」
「うん。今日はもう、部活に出ちゃったんじゃないかな?」
 明日から十二月。
 創設祭……つまり、クリスマスパーティまで一か月を切って、絢辻さ
んの身の回りが加速度的に忙しさを増しているのは、こうして隣に付き
添っているだけの僕にも伝わってくる。そんな中だというのに、委員に
欠員が出た。理由はまたあとで話すけど、水泳部の出し物に必要な資材
と予算の確認を担当していた人間が、今日になって急に、しばらくの間
学校に出て来られなくなってしまった。もちろん、そんなことは代役を
立てれば済む話なのだけど……これ以上つまらない時間の浪費を避けた
かったのだろう、こうして実行委員長御自ら、三年生の教室まで出向い
てきたというわけだ。
「一人くらいの欠員なら、あたしがなんとか埋めるわ」
 ……そう絢辻さんは言っていたけれど、その横顔には既に、少しやつ
れが見え始めていた。
 そこへこの、塚原先輩不在の仕打ち。話の相手はその相方、森島先輩
だ。
「そうですか……」
 言葉の隅から力無い息が漏れた絢辻さんに、森島先輩は自分は悪くな
いにもかかわらず、
「ごめんね? 多分、プールだと思うから、そっちに行ってみたら?」
と、掌を顔の前に立てて片目をつぶって見せた。
「いえ、こちらこそ。受験勉強でお忙しいところ、お邪魔しました」
「え、じゅ、受験勉強?」
 丁寧に頭を下げた絢辻さんに、心臓が跳ね上がってのどに詰まった…
…ような顔をして。森島先輩が、今いる入口から、チラリと視線を教室
の自分の机に走らせたのを僕は見逃さない。絢辻さんの肩越しに盗み見
ると、そこに開かれていたのは……着飾った小型犬の写真がワンサと載
った、えらく可愛らしい雑誌だった。あんな本、売ってるんだ……。さ
しずめ、森島先輩のお宝本ってところか。
「あ、はは、そう、そうね。受験勉強! もう大変なんだから。絢辻さ
んもキミも、来年は覚悟しておいた方がいいわよ?」
「はい、心しておき……」
「そうですね。ワンちゃんにかみ殺されないように……痛ぇへっ!」
 ほっぺたと足の甲。にぶいのと、鋭いの。痛みは二つ、でも悲鳴はい
つも一つ! 江戸●コナン……変態さ!
「キ~ミ~は~。いつからそんな、反抗的なことを言うようになったの
かな~?」
 ムギリ。
 と、音が出るほど、森島先輩は僕のほっぺたを引っ張って、怖カワイ
イ顔で覗き込んでくる。そのせいで足元は確認できないけど……甲を踏
んでるカカトのこの感触は多分、絢辻さんだな。そこんところには自信
がある。
『お、お前……カカトの感触で、踏んだのが誰だか分かるのか!? 恐
ろしい子……。ソムリエ……、そう、カカトソムリエ様が降臨なされた
ぞ!』
とかなんとか、いつかの三限目の休みに言っていたのはマサだっけ。ホ
ント、馬鹿な友達ばっかで、ありがたくって涙が出るよ。

 プールへ向かう道すがら、
「なんで絢辻さんまで……」
僕は腫れた頬で足を引きずり、やっとの思いで早い歩調の絢辻さんを追
いかける。
 廊下の放課後。森島先輩とも別れ、創設祭が近づいているとはいえひ
と気は絶えて、本来のテンションを取り戻した絢辻さんは、
「言わなくてもいいことを言おうとするからでしょ。素直に頭下げてお
けばいいのよ……ねえ、もう少し早く歩けない?」
僕より何メートルも先を行きながら、サラリと酷いことを言ってのける。
多分、さっきのでツメが割れてるっぽいんだけどな……。にしてもこの
痛みは……折れてなきゃいいけど。
「臨泣」
「え?」
「リ・ン・キュ・ウ。そういう名前の、甲のツボよ。効能は、頭痛・肩
こり・生理痛。折れるようなところは踏んでないわ。心配なら、あとで
牛乳でもおごってあげるからさっさとなさい」
 念のために骨は頑丈にしておけ、とおっしゃってますか……。それに
僕、生理はとってもとっても軽い方なんです。
「……はい」
 弱い返事を返す僕に、絢辻さんは呆れ気味。くるりと踵を返し、スタ
スタと歩き出すその背中に、思いだす。今日の昼休み。体育館の脇を抜
け、茶道部室のある花壇のハタで見かけた彼女の背中は、心なしか、少
し小さく見えた。昨日、クラスメイト達の「準備なんて、絢辻さんに任
せておけばいいじゃん」と言う投げやりな噂話を受け止めたその背中。
2-Aの、否、学校中の誰もが恃むその背中が、いろんなモノを背負い
続けるには、何だかちょっと、頼りないんじゃないだろうか……僕ごと
きがそんな風に思ったことがバレたら、漬物石でもくくりつけられそう
だけれど。それでもやっぱり心配だったから、僕は声をかけようと思っ
て追いかけたんだ。
 そしたら振り返りざまに飛んでくる、
「あなたをあたしのものにします!」
 ……。
 本当にもう、頭の中は真っ白だった。
 ただ、思った。ああ、そっか、僕、絢辻さんのものになるんだ、とい
うおかしな実感。とても大きな不安と、ほんの少しの喜び……のちにそ
の比率はきれいに逆転するのだけど、その花壇を吹き抜けた一陣の風の
ようなものに、僕は身を預けることにした。思えば絢辻さんはいつも風
を纏っている。そんな風に、感じる。
 そのあと、僕から何のリアクションも返って来ないことを絢辻さんは
怒っていた。多分、ああいうやり方でイニシアチブを取って、自分の思
うように事を、会話を、運ぼうと企んだのだろうけど……思わぬやり方
で去なされたのが腹立たしかったのだろう。それも相手が僕ごとき。だ
けど、そんなことをしなくても、最初の一撃で僕はすっかり彼女のもの
だったから、あながち失敗ではなかったんだ。
 そんなことがあって早速、こうしてお供をしているわけだ。今日から
絢辻さんの仕事が一層忙しくなるのは、図らずも、僕も聞いていたから。



      *     *     *



 それはそれで、今朝のこと。
「きゅうせい……?」
「虫垂炎ですか?」
「そうなのよ」
 そのとき僕ら二人は屋上で雑談をしていたんだけれど、絢辻さんを探
して現れた高橋先生から、隣のクラス……梨穂子や香苗さん、あとなん
て言ったっけ、市のエライさんの娘さんのいる……2-Bの創設祭委員
の子が、昨夜、突然の盲腸で病院へ運ばれた、という報せを聞かされた。
 その報を聞くや、絢辻さんは瞬時にお仕事モードに突入し、頭の中で
たくさんの情報のロードと演算を始めた。そして出した結論が、
「大丈夫です。虫垂炎なら、復帰は遅くても十日後くらいですよね? 
それまでなら、あたしがなんとか、穴を埋められますから」
という返答だった。
 の、だけれど。
「正直、痛いわね」
 高橋先生が「じゃあ二人とも、授業に遅れないようにね」とお決まり
ゼリフで去ったあと。絢辻さんは、屋上の手すりに肘を預けて呟いたの
だった。
「え? 絢辻さんも、も、盲腸……?」
 その病名から色々想像してしまうイケナイ僕。た、確か盲腸って手術
の時、特定部位の体毛を、そ、剃、……。
「ばか、違うわよ。彼が十日も外れるのは痛い、って言ってるの」
 絢辻さんが言っているのは、B組の委員のことだった。僕たち2-A
のバカタレグループは、そいつとの付き合いはほとんどないけれど、頭
の回る、生真面目なやつらしい。
「理解が早くて、仕事が丁寧だったのよね、彼。真面目な分、融通は利
き辛かったけど」
「そっか。頑張ってくれてたんだね」
「……」
 僕の一言に、絢辻さんは、髪の毛一本、引っ張られたみたいに振り返
る。ぴちりと抜けた、その痛みはかゆみに似ていて無視できない。なん
だか不思議なものを見るような目で、僕を見つめてくる。
「な、何……?」
「あなたって、根っからそういう発想の人なのよね」
 え、え。なんのことだか分からなかった。当たり前のことを言っただ
けのつもりだったのが、絢辻さんには理解の、いや、感情の及ばないと
ころにあったみたいだった。遠慮会釈なしに注がれる絢辻さんの視線は、
僕の目、眉、鼻、頬、口元、首筋、何かを読み取ろうと、ちろちろ探る、
蛇の舌のようで。
 い、居心地が悪い……。
「そ、それだったら」
 ここは、逃げの一手だ。とにかく絢辻さんの注意を逸らしたい一心で、
僕はまた……振るほどでもない、ごく当たり前の話を放り投げた。
「落ち着いたら、お見舞いに行ってあげるといいかもね」
「えっ?」
 瞬間、視線の五月雨はぴたりと止み、流れは奔流となって、僕の顔一
点に注がれる滝に変わった。不思議不思議、不思議不思議不思議不思議
不思議。珍獣を見るその目は、興味津々、恐れ半分だ。押し流されない
よう、こっちも立っているのがやっとの体だった。
「『えっ?』って。だって、頑張ってくれてたんでしょ? それなら…
…」
 しばしの沈黙。
 僕ら二人の間に、珍しく緊張感が漲った。僕はともかく、絢辻さんが
こうまで警戒に似た気配をあらわにするのは珍しい。色んな論理と感情
を組み合わせて、僕の示した行いの妥当性を探っている。そんな感じだ
った。
 やおら。
「……行く……べき、かしら?」
「そりゃあ……行けば、喜んでくれると思う……よ?」
 また、沈黙。秋の終わりの細い風。
 けれど今度のそれは長く続かず、校庭にまろび出てきた一年生たちの
嬌声で、僕らは引き戻された。
「いいわ」
と、絢辻さんは姿勢を変えて手すりにもたれると、肺の中の冷気を真っ
白に吐き出した。
「お見舞いの件は、また考えましょ。で、悪いんだけど、今日の放課後
はまた手伝ってくれる?」
 そうしてお昼の件を経、晴れて絢辻さんのものとなった僕は、今に至
っているのだった。
 ……あたしのもの。あたしのもの、か。
 だけど……あの時確か、
「あなたに対する束縛はない」
って、言ってなかったっけ?



      *     *     *



 プールへ行く前に部室に寄ろうという話になり、僕らは校舎裏へと向
かった。体育館に繋がる渡り廊下を抜け、今日のお昼休みに絢辻さんを
見つけた丁度その辺りにさしかかったとき、脳裏に、あの時の背中の小
ささが甦り……、
「ねえ、絢辻さんさ」
僕は、思いきって聞いてみることにした。
 肩越しに、きらり、と冷たい視線が針のよう。
「なあに?」
 つまんない質問なら、今度は足に穴をあけるわよ。……そう言わんば
かりの鋭い「なあに?」が飛んでくる。今の絢辻さんには、質問ひとつ
するにも命がけだ。ずいぶんキテるなあ。ごくりと一度唾を飲み、僕は
頭の中で質問を練り直す。……うん、多分、大丈夫……。
「あの」
「だから何」
「……あの、ただでも人手が足らないんだしさ。僕、こうして絢辻さん
について回るよりも、何か、独立して動いた方がいいんじゃないかな?
 その方が効率が……」
「あたしと一緒じゃ嫌なの!?」
 慣性の法則をまるで無視した、絢辻さんのストップ&ターン。つかつ
かっと一瞬で距離を潰して詰め寄る、その目はえらく険しい。そして、
少し感情的になっている……ような気がした。声が高いままなのは、意
識的に出した声じゃないからだ。建設的な意見には、いつもはもう少し
冷静に耳を貸してくれるんだけど……。
 二の句を継げない僕の戸惑いを読み取ってくれたんだろうか。
「……ごめんなさい」
と、自分が正常でないことを察知して、絢辻さんは、らしくなく、詫び
た。そういうところもすごいと思う。猫を脱いだりかぶったり、なんだ
かややこしい人だけれど、そのまた奥にももう一人、こんな素直な絢辻
さん。
 うん、いいよ、と僕が頬をゆるめると、絢辻さんも落ち着いたみたい
で、また前を向いてしずしず歩きだした。
「確かに、言うとおりかもね。だけど、一人、いざというときにあたし
のすぐ近くで指示通りに体を動かしてくれる人がいてくれた方が楽なこ
ともあるのよ。手が四、五本あってほしい時って、あるじゃない?」
 ああ……。独りでゲームセンターに来てるのに、ワンプレイ五十円の
台にうっかり百円入れちゃって、しかも2Pのスタートボタン押しちゃっ
たときとか。うん、わかる。わかるぞ。
 絢辻さんは続けた。
「頭を使うことが少ないから面白味はあまりないし……あなた自身の功
績にはなりにくくて申し訳ないけど。幸い、あなたはそういうの興味な
いみたいだしね」
「そっか。ならいいんだけど。なんだか疲れてるみたいに見えたから…
…」
 心配してくれるの? と、絢辻さんは……僕をなのか、僕に心配され
る自分をなのか。嘲るように笑った。お礼の言葉は、形だけ。
「アリガト。確かに、今日のこともそうだし、無能な上司の尻拭いみた
いなことも押し付けられてて、寝不足気味なのは事実かもね。本当はそ
うした方がいいのかもしれないけど……」
「けど?」
 気配は一変。絢辻さんは愉快そうに、唇の端を歪めて邪悪に笑った。
「蹴りたいときに傍にいてくれないと、ストレス溜まっちゃうから。そ
っちの方が、大・問・題」
「……」
 硬直してしまった僕は置き去り、絢辻さんは控えめな胸を大きく反ら
せながら、校舎裏へと曲がって行った。その先から聞こえてくる欠伸混
じりの声は。
「んーんッ……。あ~あ、もっと町のいたるところに、路地とゴミ箱が
あってくれると助かるんだけどなあ」
 あの、絢辻さん……。そんなのは、大きな声で言うことじゃないと思
うよ?



      *     *     *



 訪ねてみた部室にも塚原先輩はおらず、結局僕らはプールまで追跡の
手を伸ばした。独特の湿気に感じる熱と、ほんの小さな空気の揺らぎも
体に大きく反響する空間との連帯感が、ここが異空間であることを全身
に感じさせる。
「大体、あたしは初めからプールに行けばいいって言ったのに、『塚原
先輩はこの時間、まだ教室にいる』なんてあなたが言うから」
「いつもだったら、本当にこの時間はまだ教室で勉強してるんだよ。き
っと何か急な用事……」
「しっ……」
 人の、気配。
 二十五メートルのコースが八レーン並ぶ、近隣の学校でも上等な部類
に入る空間の片隅にそれを感じて、絢辻さんが緊張する。
 果たして、塚原先輩はプールサイドにいた。彼女の戦闘ユニフォーム
である競泳タイプのタイトなスイムウェアに身を包み……否、身をかな
り露わにしつつ、凛とした空気で佇んでいた。
 見るや、絢辻さんは一瞬で、目の上まで上げていた『猫』スーツをつ
ま先まで一気に引きおろし、全身を『猫』で覆うことを完了する。相変
わらずすごい。空気が変わる。
 そして、塚原先輩の隣には。
 まだ部活を始めるには早すぎる時間で他の部員は見当たらないが、一
人だけ、小柄でシャープな、僕もよく見知ったフォルムの女子生徒が塚
原先輩とおそろいのいでたちで立っていた。七咲だった。
 さらにさらに、異質なあと二人。スーツ姿の女性と、ヒゲ面にごつい
一眼レフのカメラを構えた男性が一人。およそこの場に似つかわしくな
いその二人が、先輩と七咲を前にして何事か話しこんでいる。というか、
その二人が、水着姿の二人に色々と聞いているみたいだった。
「あれは……?」
「何かの取材みたいね」
 漏れ聞こえてくる会話からは絢辻さんの言うとおり、それが地方紙の
取材であることが窺えた。あとで聞いた話だと、うちの水泳部は夏の終
わりに行われた県の大会で、ノーマークだったにも関わらず上位に食い
込んだのだそうだ。それに目をつけた地元新聞社のスポーツ部が話を聞
きに来たらしい。中でも特に目覚しかったのがあの二人、だったのだろ
う。
 それでようやく合点がいった。塚原先輩がいつもよりも早くプールに
向かったわけ。インタビューの場所がプールで、二人が水着なのは……
紙面の、それらしさの演出、というところなのだろう。堂々とした塚原
先輩はともかく、七咲にしては珍しく、居心地悪そうにモジモジと身を
よじる仕草が……おおお、し、新鮮だぁ……。
「あの二人、やっぱり大したもんなんだね」
「……間が悪いわねぇ」
 絢辻さんは、特に興味もないといった風情。さらに時間をとられる予
感にため息を落とし、
「しかたないから、少し待たせてもらいましょうか」
と、四人から程良く離れたプールサイドにプラスチックのベンチを見つ
けると、その上をさっと掌で確かめて、物音をたてないように腰を下ろ
した。僕としては二人のすぐ傍まで行って、どんな話をしているのか聴
いてみたかったのだけど、こうなっては絢辻さんの傍を離れるわけにも
いかず。ただ静かな水面を見つめる絢辻さんに付き添った。
 その間、絢辻さんは、身じろぎ一つしなかった。
 先のことを考えたり、この後すぐ塚原先輩に確かめなければならない
内容を反芻したりしているのだろう。静かに、けれどもとどまることな
く揺らめき続ける水面の、次の状態を目で追って予測し、自分の考えに
間違いがないことを確かめる、彼女の行いには本当に寸毫の無駄も見当
たらなかった。そこまで厳しく自分を律することに、一体どんな理由が
あったのか……このときの僕は、まだ全くと言っていいほど知らずにい
た。
「目標」
 ピクン、と。
 その単語が出た途端、絢辻さんの肩が大きく跳ねた。
 二人のインタビューは続いていた。空気の波紋に乗って、話し声がこ
こまで届く。
「では、部長さんも期待するルーキー、七咲さんの今後の『目標』は?」
「え、わ、私ですか……」
 戸惑う七咲と、
「ああ、それは私もちゃんと聞いたことがなかったわね。いい機会だか
ら、教えてもらおうかしら」
静かだけれど弾んだ調子で、聴き手に回る塚原先輩。いつしか顔を水面
から上げていた絢辻さんは、何故か、食い入るように彼女らの様子を見
つめていた。絢辻……さん?
「そう……ですね。選手としてはもちろん、人としても周りから慕われ
て尊敬されるような、塚原先輩のようなスイマーになりたいです。記録
や大会は、その次……ですね」
 あら、と塚原先輩は頬を染め、その顔を、七咲は得意げに見上げる。
優等生的な答えではあるけれど、その思いが本物であることは遠く離れ
ている僕にも届いて。記者さんも、面白みに欠ける回答であるにもかか
わらず、その真摯な思いを感じ取ったのだろう、真剣な面差しで七咲の
言葉をメモに書きつけていた。信頼を絵に描いたような二人の佇まいを、
ストロボの強い光が射抜く。
 そこへ、……フゥ、と、絢辻さんの一際大きなため息がこぼれた。
 彼女のさっきまでの真剣な視線は勢いを失って、ふらふらとプールサ
イドのゴム製ネットの床に捨てられている。何が気に入らなかったのだ
ろう? 小さな迷いと、望みの喪失のような気配が、塩素の匂いに混じ
って隣に座る女の子から漂ってくるようだった。
 やがて、女性とヒゲもじゃがしきりに頭を下げ始めたのを見るなり、
「終わったみたいね」
と立ち上がり、絢辻さんは、二人が更衣室の方へ姿を消す前に、極力控
えめな、けれど確実に届く音量で二人に呼び掛け歩み寄って行った。
 僕の出番はもうナシ、かな。そう思うと、とりとめのない思考が襲っ
てくる。
「目標、かあ……」
 今の僕には、目標と呼べるようなものは特にない。どんな大学のどん
な学部を受験するかもあやふやだ。得手不得手はもちろんあるけれど、
やりたいことのためにそれを乗り越えるという選択肢だってあっていい。
……残念ながら、僕の中にそんなストイックさは見当たらないけれど。
本当は、将来を見据え、必要な勉強を知り、それが出来る場所を探し始
める、そんな時期の筈だった。けれど、手がかりもつかめない。何がし
たいのか、何になりたいのか。
 絢辻さんはきっと、こんな悩みとは無縁なのだろうな。記者さんの去
ったあと、塚原先輩を捕まえて堂々と渡り合うその横顔には、昼間垣間
見せた頼りなさは微塵も見つからなかった。
 塚原先輩も、そして年下の七咲でさえ……
「目標が、どうかしたんですか?」
「うひょぅあっ!?♪」
 突如。
 競泳水着の、む、む、む、む、む、む、む、む、むむ、胸のあたりが、
僕の視界を埋め尽くしたもんだから、嬉しいやら驚くやら。僕は自分で
も意味のわからない悲鳴を上げ、ベンチから転げ落ちそうにのけ反った。
 その間抜けな悲鳴を聞きつけて、遠くの絢辻さんと塚原先輩もこっち
を見ている。先輩が笑い、絢辻さんの体温がカッと上がるのが手にとる
ようで……ああ、またあとで怒られる……。
 どうにか姿勢を持ち直して見上げると、そこには。クールな中にも温
かな光が特徴的な、七咲の目が僕を見下ろしていた。
「な、七咲か。驚かすなよ」
「驚かすような登場をした憶えはありません。フツウでした」
 むうう、相変わらず生意気な。確かに、驚くほどの立派なふくらみで
はないな……。「普通でした」? いや、普通っていうか、むしろ、こ
れは……。これじゃあ、驚き損の怒られ損じゃないか。けしからん。
「立派? ……先輩、今何か、ものすごく失礼なことを考えていません
でしたか」
「えっ!?」
 ジトリと厳しく。鋭く上がった七先のまなじりに責めるような光が宿
ったのを察し、僕は
「あ、いや、そんなことはないよ! 七咲はきちんと目標を持ってて、
立派だなあって。は、はは、ははは……」
と、あながち心にもないわけではない言葉で遁走を試みる。七咲は小さ
く目を見開いて、聞こえてたんですか、と、さっきまで絢辻さんの座っ
ていた辺り、僕の隣に腰を下ろした。
「別に、目標って言ったって、どうしたらいいかもわかりませんし。立
派なことなんて、何もありませんよ」
「そんなことはないよ。どうなりたいっていう将来像を口に出来るだけ
でも大したもんさ。僕なんて……」
「……。先輩?」
 そうだよ、僕なんて。
 そのとき、僕の瞳に映っていたのは……天井ちかくの高い窓から射す、
冷たい冬の陽光。それを、きらきら、きらきら、僕の押入れプラネタリ
ウムなんかとは比べ物にならない眩しさで星に変える、水面の夕映えに
飾られた……絢辻さんの横顔だった。
 真っ黒な瞳に真っ黒な黒髪、深い藍のハイソックス。黒が基調の輝日
東の冬服をあんなに着こなす人もいないだろう。悪巧みが大好きで、底
の底まで腹黒くって。
 なのにどうして……あんなに眩しいんだろう。分からないなあ。
「あれ?」
 そのとき、二人の様子が少し思っていたのと違うことに気がついた。
なんだか、事務的な打ち合わせをしているようには見えず、響いてくる
かすかな言葉の中にも、およそ創設祭と関係があるとは思えない単語が
ちらほらと届き始めている。
 受験……医学部……臨床……病院……?
「なあ、七咲」
「え、あ、はい」
 僕に関係があるとは思えない、知ってどうなるとも思わなかったけれ
ど、ただ、興味を引かれた。
「塚原先輩の進路って、聞いてるか?」
「え? 塚原先輩は……」
 七咲は、緩く結んだ拳をおとがいに添える、見慣れたポーズで一旦黙
った。勝手に話しても良いものか考えたのだろうけど、普段、僕と先輩
がどういう関係にあるかを彼女は知っていたから、その続きは案外する
りと出てきた。
「国立の医大を受けるんですよ。ていうか、もう推薦で、試験自体は終
わっていたはずですけど」
 医大か、なるほど。人の命を……とは言わずとも、体を、健康を扱う
仕事だ。その昔どこかで聞いた、「医は仁術」というキャッチを真に受
けるなら、塚原先輩と医療、これほど相応しい組み合わせもないように
思えた。
「そうなのか。さすがだなあ」
「ええ。さすが、なんです」
 心なしか、大好きな先輩に送る七咲の視線も誇らしげだ。先輩が受験
に失敗することなんて微塵も考えていない──そんな面差しは、七咲自
身、自分の将来を見つめているようで。やっぱり僕にはこの上もなく眩
しかった。
 そっか、もしかしたら、絢辻さんも……。
「……先輩。これ、なんの音でしょう?」
 僕の思考は、七咲の脈絡のない言葉で遮られた。いろんな波紋の交差
する室内プールの空間で、七咲は右へ左へ、瞳を走らせて何かの音を拾
い集めようとしている。音?
「何か……音がするか?」
「ええ。わかりませんか? あんまり、聞かない音……」
 その異状には、やはりこの場所に居慣れている塚原先輩も気付いたよ
うだった。絢辻さんに手のひらを向けて話を止め、七咲と同じように、
どこからか入り込んだらしいその異音の源を探している。絢辻さんはど
うやら僕と同じ、何が起こったのか分からないという様子で、こちらに
視線を投げてくる。刹那、七咲が勢いよくベンチを蹴った。
「私、ちょっと行ってきます」
「あ、僕も行くよ」
 七咲のあとを追い、ほんの十メートルあまりを急ぎ足で合流するや、
塚原先輩が抑揚を抑えて口を開いた。
「七咲、聞こえる?」
「はい。これ、多分……」
「サイレン……みたいね」
 二人が同時にその正体を突き止めたとき、僕らにもようやくその音が
像を結んで届き始めた。周期的に長い楕円を描く、赤い音。消防車……
ちがう、これは救急車のサイレンだ。いくつか開いた天井の小窓から、
その音は忍び込んできているようだった。
「でもこれ……おかしくないですか」
 不安そうに、誰にともなく言うのは七咲。頷く先輩。
 そうだ、おかしい。音が近すぎた。この室内プールと体育館のある建
屋は、桜坂……つまり、学校の基幹道路から一番離れた場所にある。駐
車場も正門のすぐ脇だ。こんな近くで車両の音がするなんて、本来はあ
りえないはずだった。けれど事実、そんなことを考えている間にも、そ
の不吉の使者の足音は、ぐんぐん、ぐんぐん、近づいてくる。校内を走
る救急車。それはあまりにも破滅的なモチーフに思える。音は過剰に反
響し、まるで世界で四人だけ、サイレンの国に取り残されたようにぐる
ぐると風景が回り始めた。
 やがて決定的な、
「おーい、こっち、こっちだー!!」
と、体育教師の叫ぶ声が、建物のすぐ外で、した。分厚いゴムタイヤが
グラウンドの砂を踏む音の焦燥。そしてすぐ傍にも赤い光を感じさせ、
不安を煽る余韻だけを残して……音は途切れた。
「何かあったのかな……?」
「体育館」
「え?」
 僕のすぐ隣り、分厚い分厚いネコスーツさえ超えて滲んでくる、本気
モードの絢辻さんの静かな迫力。超高校級の、あらゆる状況がインプッ
トされた頭脳と数々の感覚器が、何かを感じ取ったんだ。
 やにわに、絢辻さんは背筋を正して塚原先輩を向き直ると、
「塚原先輩、お話、ありがとうございました。途中ですみませんが、失
礼させてもらいます」
とお辞儀をするや、元来た入口の方へ、風を巻いて歩みだす。
「あ、待って絢辻さん、僕も行くよ! それじゃ先輩すみません、また!」
「あ、先輩!」
「七咲も、またな!」

「絢辻さん、どうしたの急に!?」
 小走りに追いついた僕の問いに、
「嫌な予感がするわ」
 こちらを見もしないその横顔は、静かだけど硬く。前傾気味の姿勢に、
握られた拳は一歩でも早くと鋭く振られた。
 そうだ。
 直感や、ましてや野次馬根性なんかで行動する人じゃない。
 彼女の感じる未来、それが「予感」なんていう生易しいものじゃ済ま
ないのはよく知ってる。時刻・状況・コトのやってきた方角と距離、た
くさんの現実的な情報を重ね合わせて導かれるそれは、予報や予測と呼
ぶにふさわしく。
『星占い? あんなもの、信じるわけがないでしょう』
 希望的観測や慰めはいらない。絢辻詞、十七歳。全ては、事実の導く
ままに。シビアに裏打ちされ、築き上げられてきた彼女の自信が……そ
の的中率を、保証してしまうんだ。


 ───これは、絢辻さんがある契約にサインを入れる、その決意の物語。

                            (続く)





        *新しい行動が発生しました! 
 
 
 
 
 

さて、すっかり月刊化してしまっている
『手帳の中のダイヤモンド』
であります。
大変申し訳ありません。

最終章は変則展開に……したいと思います。

いつもの「PRE STORY」こと、絢辻詞さんSSは、ちょっと長めの話を切れ切れに、
そしてその合間合間に本編を何回かに分けて挟んでお届け、
という格好で臨みたい所存。

PRE STORYも大筋こそ決まっているものの、完成はしていないので、
行きつ戻りつ、微修正を加えながらの進行になると思います。
修正を入れたら入れたで逐一お知らせしていきますので……
飽きずに楽しんでいただけたらなあ、と勝手な希望を述べておきます。

……むーん、こういうのは……緊張するなあ。
完成するかなあ。

マですけど、
この半年の間、オイサンが絢辻さんにかけた、全ての思いを込めて。


オイサンでした。


……。


そっか……。
俺はこんなことを、もう半年も続けてきたのか……。





 ◆『アマガミ』絢辻さんシナリオ解読企画 「手帳の中のダイヤモンド」 目次
    01 前口上
    02 序文・絢辻詞という「少女」 (SS)
    03 第〇部 物語のアウトライン 

    04 第一部 学校生活編 PRE STORY (SS)
    05 第一部 学校生活編 その1
    06 第一部 学校生活編 その2

    07 第二部 「目標」編 PRE STORY (SS)
    08 第二部 「目標」編

    09 第三部 家族編 PRE STORY (SS)
    10 第三部 家族編

    11 第四部 手帳編 PRE STORY (SS)
    12 第四部 手帳編 その1
    13 第四部 手帳編 その2

    14 第五部 恋愛編 PRESTORY その1 その2 その3 (SS)
    15 第五部 恋愛編 その1 その2 その3

    ◎『アマガミ』 絢辻さん SS 目次リンク

 

|

« ■知力・体力・ラヴ通信 -更新第302回- | トップページ | ■記録的、敗・北~嘘を吐いても、震えたままでも・2 -更新第304回- »

アマガミ」カテゴリの記事

ゲーム」カテゴリの記事

創作」カテゴリの記事

手帳の中のダイヤモンド」カテゴリの記事

絢辻さん」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/55967/31292408

この記事へのトラックバック一覧です: ■手帳の中のダイヤモンド -16- 第六部 PRE STORY(1) -更新第303回-:

« ■知力・体力・ラヴ通信 -更新第302回- | トップページ | ■記録的、敗・北~嘘を吐いても、震えたままでも・2 -更新第304回- »