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2009年5月30日 (土)

■巨溝:妄想と創造 -更新第226回-

オイサンです。
今回は、ちょっと書式をいつもと変えて。
内容も、ちょっといつもと変えてのお届けです。


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 今回は、妄想と創作の違いについて、ちょっとキチンとさせておこうと思います。
 というのも、絢辻さんとお知り合いになってからこっち、この頁にも頻繁に創作系のものを載せていたこともあってか、最近身の回りの方々から何度か「読んだよ、あの妄想の」と言われることがあり、その度にちょっと悔しい思いをしなければならなかったためです。

 最初に、誤解のないように申し上げておきますが、その様に仰る方々を悪く言うつもりは決してありませんので、悪しからずご理解戴きますよう。以下の内容を読んで戴ければそれもお分かり戴けると思います。そもそも、読み手が作品をどのように受け取るか、という部分は受け手の自由でもあるわけですから、この文章自体の主旨が危ういのですが、それはもう書き手としてのエゴの発露と、皆様にとっては、読み手として書き手の心情の解釈の、一歩進んだ仕方と思って一緒に考えて戴けると、恐悦至極に存じます。


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 ではそもそも、妄想と創作の違いとは何なのか、ということを書き手の立場から明らかにすると、ずばり「作品が理性によって制御されているか。或いはその制御の程度」に尽きると、オイサンは思っています。

 そしてその二つの関係についてですが、これはもう明確に区別されるべき物で、妄想が創作に含まれるとか、或いはその逆であるとか、そういうことはあり得ない、とオイサンは考えております。もしかすると、その二つの円の外縁が若干触れあう、ほんのちょっぴり重なるなど、そういうことはあるかも知れませんが、その円の中心同士は、同じ平面に存在こそすれ、大きく距離を隔てた場所にあると理解するものです。

 ではまず妄想とは何か。
 妄想は野放図な物であり、また作者(と言って良いものか、そもそも妄想は形をとることが多くないと思いますので、この場合妄想の行い手だと思って戴きたい)一人の物であると言って良い。作者以外の他者に理解される・せしめることを前提に制作されない物であります。その工程を痛快にすっとばしたモノであります。また、登場する人格に一切の考慮がされないものであります。

 例えば、以前にオイサンが数行で書きなぐった「オイサンがシゴトバでエレベータに乗ったら途中の階から絢辻さんが乗ってきて、人目の無いのを良いことに抱擁をかわした挙げ句、オイサンが昼に食べこぼした煮魚の煮汁を見咎める」などというのは、これはもう明確に妄想であります。
 何故なら、これを『アマガミ』という作品の二次創作と理解した場合、絢辻詞というキャラクターは、一次創作物であるゲーム本編の中で、そのような無分別な行動を好む人格として描かれませんし、彼女の人格をいかに延長したところで、そのような行動を取りうるとは思えない。そもそも、彼女が成人し社会に出たと仮定したとしても、行き着く先は医療関係の現場であって、オイサンの勤務するようなIT関係会社の事務仕事などとは縁遠いはずだからです。これは、創作として不完全というか、「人物の人格に、理性的に慮ったものである」とは言い難く、想者の都合のみを重視した野性的なものであると言えます。
 もしもこれを一つの作品として昇華し発表したとして、『アマガミ』本編を知る人々の理解や賛同を得られるかというと、それはまず無い。つまり、既に人々の胸中に像を結んでいる『アマガミ』という作品や、絢辻詞というキャラクターに重なることが無く、そもそもそうあることを目標・目的としていない作品です。万が一、作り手側にその意識があったとしても、それは作品の読みこみの浅さであるとか、娯楽性の足りなさである(意図してイメージから外しているという表現や宣言の不足)とか、その辺りに原因のある「失敗作」であるといって差し支えないでしょう。この場合、作者に対する「この作品は妄想である」という感想は、読み手としては至極真っ当なものですが、作り手にはいささか残酷な言葉として届くでしょう。

 ではこれに反して「創作・創造」とは如何様なものである(べき)でしょうか。
 簡単に書いてしまえば、前述した妄想の特徴をすべてひっくり返したものである、と思って戴ければ良いでしょう。二次的な創作物に限定した言い方になってしまいますが、つまり、人々の心に既にあるものに寄り添うよう、理解を得られるよう、そもそもの「像」(舞台・事件・人物)を理解し、慮り、理性的・客観的に再構築したものである、そうあるべきものであるのです。
 もっと大きく言うなら、「(その世界の)現実に即したものである」ことが重要であると言えます。
 例えば、現実の世界で一人の男が殺される事件が起こったとして、その時の状況や被害者の人物像・人間関係など一切の調査もなしに、またはそれらの一部を聞きかじっただけで自分の推測を交えて犯人を割り出したとしても、それは周囲の人間からは「妄想である」と一蹴されてしまうことでしょう。
 しかし、十分に調査を行い、分析し、様々な事実から確からしさに基づいて導き出した結論は、それが真に正解であるかは別として、「考慮するに値する情報」として受け入れられるはずです。この理性と客観性による導き出しとシナリオの構築こそ、創作・創造にあって妄想にないものです。
 即ち、妄想と創作の境界とは、その作品が立つべき土台を見渡し、理解し、咀嚼して、後に書き手たる自分と同じ土台に立つであろう読み手と同じ目線の高さにて、作品を構築しようとする姿勢があり、かつそれを実践出来ているか、ということに他なりません。

 以下少し、オイサンの書いてきたモノを使って説明させて下さい。
 まず、「手帳の中のダイヤモンド」の第一部のPRESTORY
 これは、オイサンとしてはかなり創作に寄せて書いたつもりのものです。放課後の教室という舞台の設定、主人公と友人・梅原の関係性、絢辻さんの人格面などは、基本的にほぼ完全に『アマガミ』本編からコピーしたものです。
 ただ、絢辻さんが分厚いプリントを見せ、主人公に背中で手伝いを要求・期待するというウェットな人物像には、オイサンの願望を色濃く滲ませました。これは一つの絢辻さん像の解釈ですが、ある意味、妄想の発露です。本篇から、絢辻さんの人物をこのように読み取らない方もおられるでしょうから、齟齬が生じ、ここに違和感を覚える『アマガミ』プレイヤーもおられることでしょう。
 意図とはずして失敗したなあと思うのは、「脅して手伝わせた主人公に謝罪を漏らす」ところです。ここはちょっとウェットに過ぎた感が、書き手としても残ります。

 続いて、同じく「手帳の中のダイヤモンド」の第二部のPRESTORY
 これは、妄想が大部分。
 絢辻さんが自分の将来設計(絢辻さんの妄想?)をうっかり口にするなどということは、ちょっと考え難い。まあ、ヒトツ絢辻さんの可愛い顔も見たいじゃないか、というサービス精神のつもりで一種ネタ的に、妄想を妄想のまま表に出したものになっています。主人公も、自分の将来を真面目に考えて思い悩むような人間ではありません。
 その分、作者的には満足度の高い、娯楽性の高いものになっていますが、読み手のことはあまり考えられていません。どちらかといえば、裏拳ブン回してる絢辻さんのマニューバのビジュアル的な面白さであるとか、端々に埋め込んだ表現の遊びを楽しんでもらえると良いかな、という気持ちで拵えてしまった物語です。

 続いて、同・第三部のPRESTORY
 本編出場キャラクターの美也はともかく、主人公の両親像は完全に想像ですので、読み手がこれをどう捉えられるかはオイサンにも分かりません。家族の話をするのに、どうしてもご登場戴く必要があったので出しました。本当は、もう少し気の利かない感じのご両親なんだろうな、と言う気はします。ですが、お話のために強引に曲げました。特に、絢辻さんの家族との対比のために。
 そういう意味では、ほぼ完全に創作に徹した作りです。存在しない物を、この物語の整合性を慮ってフルスクラッチで削り出したわけです。
 妄想的な成分といえば……最後で絢辻さんに言わせた「夕飯抜き!」の一言。ちょっと家族ごっこをしてみたかった絢辻さん、という気持ちで入れたので、違和感を感じる人はいると思います。サービス半分、願望半分です。
 ちょっと話ははずれますが、リアル妹持ちの友人から「(美也というキャラクター像が)妹に夢を見過ぎている」と言われたことが意外でした。というかその彼は『アマガミ』をやっていないので美也に違和感を感じるのは当然かも知れませんが。かなり良い妹ですしね、美也は。

 そして同・第四部のPRESTORY
 これは難しいところです。
 ゲーム本編に登場するイベントを、状況・セリフ、ほぼまるまるコピーした上で、その隙間にあったであろう出来事を理詰めで補完挿入し、さらにその先にあるであろう感情を検証と予測織り交ぜて表に出したモノです。
 そう考えると、ほぼ完全にオイサンの解釈を軸に仕上げた「創作」なのですが、このイベント自体が、本編でも明確な回収の行われない心情の塊で、解釈はプレイヤーに委ねられるタイプのものですので、オイサンの読みが甘ければ失敗……「妄想」の割合が上がってしまうでしょう。賛同して下さる方もおられるでしょう。願わくば、沢山の方に賛同していただきたいところですし、そうなるように時間をかけて、勢いだけでなく丁寧に積み上げたつもりではいます。ちなみにこのPre Storyは着想から出来上がりまで、12時間以上かかっています。

 このほかにも、第222回で上げた『ペルソナ』や『オホーツクに消ゆ』のものなどは、完全に創作です。どちらも書いたのは随分前のコトですが、妄想をさしはさむ余地がなく苦労したのを覚えています。


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 ここまで読んで戴いてお分かり戴けたと思いますが、妄想と創作の境界というのは、二次創作にあっては、「第一次の創作物」という絶対のグラウンドを理解していないと難しい、ということです。難しいにとどまらず、恐らく、不可能(ちなみに、一次創作にあたっては、恐らく「妄想」であるという判断は出来ないと、オイサンは思います。一次創作物の場合、ノンフィクションやドキュメンタリーならば、調査・データ不足の妄想、という評価もあり得るでしょうが、全くのフィクションの場合のそれは、「説得力・脈絡の感じられない失敗作」という評価に落ち着いてしまうと思います。現実にそくしてない、というか、自分で構築した物語の前提にのっかれていない不安定なもの、ということになるでしょう。閑話休題)。

 ですから、その土台を摂取していない方々に対して、作品が妄想か創作かを見極めろと言うのはそれこそ、土台無理なお話あり、読み手には一切の罪も過失もありません。ただ、それが二次創作であるというコトを理解しながら、上で書いたような姿勢・配慮があるかどうか、あるいはそういったことが成されている「感」があるかどうかを読みとることが出来るようになると、楽しみが広がるということをお伝えしたいと思いました。
 またさらに、作者という人物を知っていればいるほど、その境界の線引きが難しくなるでしょうし、さらにさらに、「作り手に回った経験があるか無いか」によっても、成否の計り方が変わってくるはずです。

 このため、それをお客様である読み手の皆さんに、理解せエ、読み分けろ、などというのはおこがましいことこの上なく、書き手のエゴ、わがまま以外の何者でもないわけで。そのことは重々承知した上でナンダカンダとかき殴ってきたワケですが。
 もしかすると読み手としても、そういう意識や知識があった方が面白く読めたりすることもあるか? と、今回いただいた色々な感想の中で思いましたので、こうして書き留めてみた次第です。

お楽しみ戴ければ、幸いです。

近所のドトールにて、延々『アフリカ』を聞きながら。
キリンと相席する夢を見たよ。


オイサンでした。


 

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