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2008年12月15日 (月)

■左手から煙 -更新第169回-

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■■■━ 『闇の子供たち』を見る ━■■■
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不思議なもんで映画というのは、
普段見ていなくても一度何かの拍子に見ると、
何度か連続して見に行きたくなるもののようです。
少なくともオイサンはそうです。

  マなんとなく、
  『2時間という時間を、映画のために費やすのはちょっとどうかなあ』と
  普段の生活の中では思ってしまうところを、
  一度体験してしまうとその気安さに気づいてしまうからでしょう。
  デしばらく見ないでいると、またそれを忘れて億劫に思ってしまう、と。

マそんなことで、見て参りました『闇の子供たち』。

■『闇の子供たち』予告編


『闇の子供たち』は、舞台をタイに、テーマに児童買春を置いた映画です。
タイで働く日本の新聞記者が、
日本人の子供の心臓移植のことを追ううち、
その臓器提供者の子供が、実は生きたまま提供されることを知る姿を通じて、
さらにその背後で、タイの貧しい子供たちに起こっている、
残虐で、誤解を恐れずに書くならば、グロテスクな現実をえぐります。

  前回のお気楽ゴクラクムービー『ハッピーフライト』とは
  趣を2300°変えてお送りしております。
  ここは社会派からスカポンタンまで、
  様々な話題のニーズにお答えするブログ、『ゆび先はもう一つの心臓』。

……強調しておかないといけないのが、
この「お話」がフィクションであるということです。
あくまでもフィクション。
ノンフィクションでも、ドキュメンタリーでもなければ、
最近流行りの「事実を元にしたフィクション」でもない。
生粋の、虚構の「物語」であるということです。

  ……とはいっても、虚構であるのは「物語」、
  つまりお話の部分やそのディティールだけであって、
  バックグラウンドは根っからの「リアル」であるようです。
  このようなことが起こりうる背景はあるのかもしれませんし、
  なんなら、現実にはもっと残酷なことが起こっていたって
  不思議はないでしょう。
  ただ、
  「この映画のようなストーリーの事実が実際には起こっていない」
  というだけです。

スクリーンには、これでもかこれでもかというほどに、
そのバックグラウンドからえぐり出されたリアルが、
フィクションで味付けをされて、描かれます。

 売られてゆく子供。
  それを買い、管理し、商品として扱って生計をたてる大人。
   子供を買う大人……主に、日本人を含む、金のある先進国の人々。
 ときには歪んだ性の道具にし、
  ときには臓器……「パーツ」として利用するのです。
   子供たちは、何畳もないようなコンクリート打ちっぱなしの部屋に押し込められ、
 指名があれば引き立てられて大人の「相手」をさせられます。
  そして病気になれば「商品価値なし」とされ、
   ゴミ袋に詰められて収集車に載せられます。

その映像のどれもが、もう「衝撃的」という言葉がもどかしいくらいです。
正直な話、ストーリーがなくて、その映像だけを連ねたとしても、
2時間半もつでしょう。

中でも、売春宿に売られ、エイズに感染・発症し、
ゴミ袋に入れて棄てられる女の子のシークエンスは圧倒的です。

その子は病に冒され、歩けなくなりながらも這いずって自分の生家へ帰るのですが、
貧しさゆえに子を売るしかなったその家に、
その子を受け入れ、治療させる力があるわけもなく。
やがてその子は死に、集落の、空の下で荼毘に付されます。
その一連の流れは、オイサン的にこの映画のクライマックスであり、
すべてであると思えます。

  本編では、
  新聞記者に扮する江口洋介や、NGO職員の宮崎あおいらが
  そうした子供らをなんとか救おう、生きたままの臓器移植を阻止、
  またはその事実を世間に知らしめようと奔走するのですが……
  そんなヒロイズムがはたして必要だったのか。
  そのくらい、上記のシークエンスはすべてを語ってしまいます。

……そうして思い出されるのが、
昨年のちょうど今頃、メキシコのティファナで見た光景です。
あの街は、この映画のような陰惨さのカケラも見えない、
アッケラカンとした空気ではありました。
居並ぶ女性陣も、さすがにこの映画に出てくるような小さな子供は
いなかった……と思いますが、それも断言はできません。
主にある程度年端の言った女性ばかりだったと
見る限り記憶しておりますが、それでも彼女らも、
マフィアやなんやらに管理された、
売り物の女性であることに違いはありません。

  ……まあ、メキシコの成人年齢がいくつかはよう知りませんし、
  成人した者が望んであの商売についているのであれば、
  それを責めることもできないんで、一概には言えませんが。
  ポイントの多くは、右も左もおぼつかない弱者を、
  無理に売買するってことですからね。

  いずれにしても、その場の空気に流されて、
  うっかりお子さんに手を出したりしなくてホントに良かったなあと、
  今更ながら、このヘタレな度胸と、
  2次元専用ビームライフルを誇りに思うのです。

サテ、映画の全体的な感想を言ってしまうと、
2時間半という時間が、スクリーンから目を離せないままに
過ぎていく作品であるということ。
これはまず間違いなく一つ。
面白いから、というのではなく、ショッキングでありまた、
恐らく、安穏と生きている自分たちは、
目をそらすことをなんとなく許せない気分になると思います。

ただし、それに反して、映画としての完成度は案外低い気がします。
冒頭でこの映画のフィクション性とノンフィクション性について触れましたが、
その二つがうまくミックスされていないと感じました。
バックグラウンドにあるノンフィクション性の重量に対して、
それに立ち向かうはずのフィクション性の部分、
シナリオの端々のセリフであったり、役者さんの演技であったり、
また動機であったり、
そういうものが負けていて、ヘンに軽くなっているような気がします。
これならば、もっと、もっと、ノンフィクションに徹しても良かったように思います。

  ぶっちゃけると、
  子供の売買の裏を暴き、世間にさらそうとする江口洋介には
  実は過去に子供を買った経験があった、という設定があり、
  物語のラストでその重みに耐えきれなくなって自ら命を絶ちます。
  この流れに、今更なんの意味があるのか、という気がしてしまいます。
  恐らくは監督の意図でいうところの、
  「日本人である自分たちに跳ね返ってくる」
  部分の創作だと思うのですが、このフィクション性、
  作り物くささが、却って仇になっているような気がしてなりません。

  エンディングで流れる桑田佳祐の歌も、
  日本人にとってはフィクションの代表格のようなもの、
  スクリーンの向こうの出来事であることを、
  ものすごいちからで後押ししてしまっているように感じます。
  重すぎる映画の後口を、すこし薄めようとしたか、
  もしくは日本人になじみの深いサザンの声で自らのものにして欲しいと思ったのか、
  その意図が透けて見えないワケでは決してないのですが……
  成功しているとは、お世辞にも言えない気がします。

映画を見る前まで、オイサンは、
映画の中の佐藤浩市(=移植手術を受ける、日本の子供の親の役)のように、
「お金を払えば、自分の子は臓器移植を受けて助かる。
 でも、臓器の提供者は今は生きていて、提供の結果、死ぬ」
という立場にあったらどうするだろうかと考えました。

結果は……
「それが正規のルートである(ドナーは生きていない)と聞かされていたならば、
 多分、その移植手術に同意してしまう」
だろうなあ、と思いました。
マ「クロでなければ」という前提つきなので、
結果的には無効票ですが。

正直、自分でも、法が許したってそれが正しいとは思いませんし、
「だったら『お金があるから』という理屈で、
 映画に出てくる白人や日本人のように、子供を買って、
 性的な愛玩対象にしたり、虐待することが許されると思っているのか」
と言われれば、それはどう考えてもガッツリNOなワケです。

ただ、命がかかった時に、
どこかの普遍的で客観的な価値観に重心を置いて考え、
それを実行するか否かを判断するのであれば、
それが一つの答えでもあると思うのは確かです。
そこへ更に、子を持つ親の心情を加算すると
「すがれる手段には、すがってしまう」だろうなあ、
というウェイトも一つ。
そしてまた、それが
「自分が、先進国にあり、その『普遍的価値』において
 強者の立場にあるからこそ垂れられるリクツだ」
ということも、十分に理解しているつもりです。

  頼もしいことに。
  この映画の臓器移植に関する取材協力をした
  外科医のオーソリティの話によると、
  「どこの親も、人を殺してまで自分の子を助けようとはせず、
   我慢して、死なせている」
  のだそうです。
  当然と言えば当然なのかもしれませんが……
  意外といえば、意外な気もします。
  オイサンは、命というのはもうちょっと貪欲なものかと思っていました。

疑問に思うこともあります。

ライオンの親子がいます。
親ライオンは、潤沢に餌を与えられ、飢えてはいません。
子ライオンは親とは別に飼育され、餌を与えられず、餓死寸前です。
あるとき親ライオンと子ライオンが檻を同じにされ、
そこに、その親ライオンとは縁もゆかりもない、子供のライオンが放り込まれます。
親ライオンが子を飢えから救うには、その他人の子ライオンを狩るしか道がない。

  その時、ライオンはどう行動するんでしょう。

多分、そこに我々の忘れた正解があるように、オイサンは思います。
人間は獣ではありませんが、
命と本能にまつわる規範は、そこまで遡らないときっと見えてこないと、
オイサンは思うのです。


  ……。


この映画見てると、やっぱり改めて児童ポルノは反対なんだなって、思うですよ。
オイサンだってそうです。
……でも、思うですけど、
でもそれってやっぱり、3次元に限った話だと、オイサンは改めて思いました。
そりゃアニメ絵のキャラクターは幼く見えて、
助長する、なんて考えがあることも理解はしますけど。
でも、なんつうか……世界が違う。
マンマまな言い種かも知れませんけど、レベルが。
次元が違うわ。
それに、2次元なんかにかまってる場合じゃなくね?
2次元に浸った人間が、3次元に手を出せる可能性を、オイサンは感じませんよ。
なんかね。
そんな感じです。


いつになくシリアスに。
オイサンでした。

 

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